イェスペルセン『文法の原理』:ネクサスと英文法の論理

前提図書w

文法の原理(岩波文庫)

最近は、訳者の安藤貞雄にも興味が!きっと、イェスペルセンのネクサスの「深さ」を僕より遥か奥まで理解しているに違いない。

一般的にというか高校英語的には、山口俊治が大学受験レベルの英文解釈に使うネクサスが、有名だろうけど。本家のNexusは意味を排除した上での文法から、ネクサスという存在論を扱う……というような方向であるような気がしたような誤読(イミフw

アメリカ気分でネクサス♪

英語を学習する過程で僕が身につけた「実在」のイメージは、ゼロ冠詞(無冠詞)という「完結未満」、不定冠詞という「完結」、複数形という「完結以上」。イェスペルセンは名詞を「結晶」と言い、形容詞を「液体」と比喩した。形而上概念と言えど、名詞である以上、それは多面性を持つ「結晶」なのだろう。

完結未満は形而上。完結は形而下。完結以上は形而下と形而上を跨ぐ。catという機能の抽象化であり、a cat は具体的に触ることのできる物体の抽象化であり、catsは群れの抽象化。実詞の形容詞化ってのは、多分、be(である)から削られたbeing(になる)の鎖を意識してるのだと思う。

つまり、そのbeing(になる)こそがイェスペルセンの言う「ネクサス」。彼の「ネクサス」は受験英語のネクサスなんかより遥かにスコープが広い。「ネクサス」ってのは、チョムスキーが言うところの普遍文法なのかもしれない。構文として表れないメタ構文。

ネクサスに、強弱を、構文性という観点から、導入できれば、the english writing がOKで、the writing english がダメというピーターセンの冠詞観も近似的に・相似的に理解できる気がする。

ネクサスがつなぐ文法――規範・談話・記述・生成

英語の線条性、英文における時間の流れ、品詞の連鎖は「同格的」・「結果構文的」。だからこそ、スラッシュリーディングとか直読直解なんて芸当が可能。

一般動詞はどうだか分からないけど、少なくともbe動詞は「境界線」であり、存在論と認識論を隔てるエッジだ。そして「ネクサス」は境界線を越えない。「ネクサス」のbeingは境界線―「である」と「になる」のエッジ―ではない。

「動作」・「〜になる(copula)」は、「メタ機構」なんだ。たとえば、"charge" という単語に動作のニュアンスが辞書的にはあるとか、そういう話ではない。「品詞を構文で繋ぐ」というアタリマエの文章の連なり―単語の連鎖―こそが、「になる」の「象徴」。

「品詞が変わる」ってことは、「時間が飛んでる」ということだ。変化しているってことだ。 stand up は stand から up という状態へ「時間」が変化しているのだ。重要なのは up という「結果」。stand は up へと変化した。

なにも、この連鎖は上述の stand up の up のような adverb particle だけの「連鎖」ではない。adverb particle・同格・結果構文、これらは全て「ネクサス」によって担保されている構文だ。(放言

ネクサス――見えてはいけない・・・のかもしれないメタ構文

イェスペルセンの「ネクサス」は「ベタ」じゃなくて、「メタ」なんじゃないのか?むしろ、構文が既に「メタ」であるのならば、構文に「パラレルなメタ」でもあり、構文に対する「メタ構文」(メタメタ)でもあるのではないか?

とりあえず、「ネクサス」はメタ構文だとする。「動詞」ってのが、個々の go / have / get などを纏める「メタ概念」であるのならば、動詞自体のメタ概念。go / have / get / be の「メタ・メタ概念」が「イェスペルセンの being(〜になる)」なんじゃないのか?

ネクサスがSVという「意味」を「表す」からって、「動詞を想定する」必要なんて、ない。全てはbeingで「既に」繋がっている。その「既に」が「イェスペルセンのネクサス」なんじゃないの?彼のネクサスは、SVを「示している」だけなのではないか?


「結晶」の多面性を一面一面、「形容」していく「連鎖」、「運動」。この同格的な線条性がネクサスという「流れ」ならば、ネクサスは結果構文や談話文法―hyper-theme/theme/rheme―に「繋がる」。

「イェスペルセンのネクサス」を、さらに徹底してネクサスさせる。むしろ、徹底するまでも無く、「既に徹底されているネクサス」が「イェスペルセンのネクサス」なのではないか?

SVというtheme-rhemeな関係性だけではなく、theme内部、rheme内部での関係性をも規定する力があるのではないか?


「文脈に隠された『文脈』を見出す方法論」としてのネクサスなんかではなく、「文脈自体を規定している構文未満の構文」・「文脈という意味自体を生成する原動力としてのメタ原理」。

イェスペルセンの「ネクサス」は、むしろチョムスキーのように、普遍文法ー『文法の原理』ーを求めていたのではないか?

だから、イェスペルセンの「ネクサス」は、「ネクサスという意味―主述関係だの意味上の主語だの―を作る」っていうのだけではない。むしろ、「意味の生成」を規定する背景原理であり、意味を意味として成立させている文法――その文法自体の成立を担保している原理。


単語に内在するニュアンスは、ネクサスの成立に無関係。彼のネクサスは、「構造」なのだから。ネクサス構文というべきか・・・イメージ的には、構文ですらない構文というか・・・・・・形式を必要としない構文。むしろ、どんな形式でも成り立ってしまってるがゆえに、形式を定める意味が無い。と、言うべきか。



文法に沿って、左から右に、「読み込んで<繋げられてしまう>」部分が、「受験英語的でベタなネクサス」を逸脱してるんじゃないか?じゃ、ソレって何?「ベタな動詞」すら必要としないメタ構造って何?

杉原厚吉が談話文法で言うような 「theme-rheme」 が「ベタなネクサス」であるのならば、themeだけで(もしくはrhemeだけでも)成り立ってしまうネクサス。――これが「メタなネクサス」じゃないの?

何でそんなのが可能かと言えば、結果構文的だから、adverb particle的だから。

kindnessが「ネクサス詞」になれるってのは、kindnessが「結晶(イェスペルセン)」だから。「人格化されている(大津栄一郎)」から。

「起承転結(hypertheme-theme-rheme)」のそれぞれにだって起承転結ある。そして、その起承転結にも・・・・・・と、続けていき、文章、文、節、句、単語のレベルまで切り込んでいく。そして、kindnessという「1つの単語」の中にさえ「ネクサス(詞)」という「起承転結」が見つかる。

being(になる)というcopluaは、語りえぬ構文なのだ。これぞ文法の原理!文法の存在論!強引に纏めた。燃え尽きた!!

冠詞篇:結晶という一次語(存在)を、液体という二次語(認識)で語る

ゼロ冠詞名詞が、大津栄一郎が言うところの「形而上人格を表す」ということであるのならば、話者から見た時、名詞を関係詞や分詞で後置修飾するのはトートロジーと言える。

しかし、話者にとって「ある名詞」が、存在論的に自明であるからといって、読者にとって、その名詞の「形而上人格」が自明の存在として認識されるとは限らない。


つまり、「存在論―認識論」という「結晶―液体」という軸以外に、「書き手―読み手」つまりは「冠詞」という軸も導入しなければ英文解釈はままならない・・・・・・わけではあるんだろうけど、ここの領域はイェスペルセンの「ネクサス」とは関係ない。

ここは悪までネクサスの基点である「一次語」に関する「冠詞問題」。ネクサスは鎖であり、単語自体の意味論的な部分とは関係なく成立するんだと思われる。

情報篇:一段ずらされ仲間――記述文法の「情報構造」

受験英語的に「旧情報―新情報」が記述文法から援用されたりもするようですけど、実際、どのレベルで規範文法的な構文理解に援用されてるのか、僕はよく知らない。"the charge"が出てきた瞬間は新情報かもしれないけど、"away...(後置修飾語)"などの「追叙」まで行けば旧情報とも言える、みたいな。

そもそもとして記述文法的としては「情報の新旧」を「焦点の有無」に重ねているだけで、「メタ構造の指摘」だったのに、何ベタに冠詞の用法的なベタレイヤーで援用してんのよ?な話かもしれん。

談話文法のtheme-rhemeに近いのに、一段ズレてんだよ!って話なんだって気がしてきた。

書き手からすればゼロ冠詞で「人格化」してものは存在論的な「結晶」であり、多面的で既に知っている、旧情報的。

読み手からすれば新情報で「液状で一面的で形容詞化(イェスペルセン)」した認識論的なモノ。だから追叙する。意味を重ねる。面の色合いは再帰的に変化する。

書き手が読み手に、どのレイヤーで情報を完結させて欲しいと望んでいるか。存在論レイヤーの狂言回しでしかないのか。認識論レイヤーで同定する必要がある情報なのかetc...

だから、「既に話が出ている概念」だから「旧情報」で、「未だ話しに出てない概念」だから「新情報」ってのは、ちょっと違う。古い情報なのか、それとも新しい情報なのか――その「不確定性」こそが、(談話文法的な)「新情報」なのではないのか?

談話文法的新情報―記述文法的新情報(ただのメモ1)

少なくとも僕は、「情報構造」というものを「規範文法的な英文解釈」に援用してきた。だが、談話文法の「hypertheme-theme-rheme」というものを知って以来、少し援用の仕方が歪んできたようだ。

つまり、記述文法的な「旧情報―新情報」というのは「意味論的な判定」であり、どちらかと言えば「事後的」に了解されるべき分類法だった。

だが、僕は「旧情報―新情報」という「判定法」を「事前的な道標」として利用していたのではないか?それはつまり、僕の中で「新情報=後方照応」というような図式が成り立っていたと言うことなのだろう。

要は、「新情報=情報が足りない=後方照応」という風な理解を僕はしていたのかも知れない。

記述文法の理念が、規範文法より意味論のほうへ寄っているとは言え、構文論な部分がどちらにもある。だから、このような曖昧なー意味と形式を暗黙裡に斟酌するー部分は、あって当然なのかもしれない。が、ここの「曖昧な部分」は、もう少し明示化できそうな気がする。

不確定情報――旧情報未然・新情報未然(ただのメモ2)

つまり、「旧情報―新情報」というものが元来、意味論的で事後的な分類方法だとするのならば、形式的で事前的な「判定指針」が欲しい。それをとりあえず「不確定情報」としてみる。

でも、結局、これは「後方照応」に回収され、どちらかと言えば「冠詞」の方面から解決すべきなんだと思う。

まぁ、後方照応で新情報っぽいと事前に判定できるにもかかわらず「定冠詞で既出の単語」・・・なんて非制限用法的で旧情報くさい「不確定情報」が存在するのか?

むしろ逆に、後方照応で新情報っぽいと事前に判定できる「定冠詞で新出の単語」であるのに、事後的には旧情報だった・・・という「不確定情報」の方がありうる気がする。

この辺の捩れは、冠詞の用法が「非排他的」であるところに起因するんだろう。「形式からの事前判定」と、「意味からの事後了解」とが真逆の結果になるのは、直読直解の歩みそのものだしな。

というよりは、旧情報的な新情報・新情報的な旧情報という意味論的な転回にこそ、記述文法の「文末焦点」が生きてくるのではないか?情報構造というのは、つまるところ、意味論的なベタではなく、「事後了解された意味」の重要度をメタ的に判定する原理だったのではないか?

全ての「情報」は「文末焦点」に至る

結局、僕が言いたいのは、新出で後方照応くさい不確定情報に出くわした瞬間から、その情報の意味を漸次的に判定し、修飾を追い尽くしたら意味論的に新旧情報を事後了解しましょう。という、伊藤和夫的であり多田正行的でもある・・・「ボトムアップ解釈も大事だね!」な結論なのでした。

更に言えば、冠詞の用法から、旧情報を基点に意味が拡大されている場合もあり、「意味が拡張された」という「結果構文的な部分」―End Focus(文末焦点)―を大事にして、便宜的に新情報と了解しましょう。でも、いちばん大事なのは「拡張された部分」という「結果」であり「End(帰結)」ですピリオド. って感じ。

保管篇:メッタメタにしてやんよ!

copula。being。になる。ネクサス。あえて言うのなら、ネクサスは存在論と認識論を繋ぐ鎖だ。汎用メタってとこか?(イミフ

I'm here. は正しい文だ。 I'm in here. も正しい文だ。 I in here. も通じる文だ。しかし、I here はどうだろうか?ジェスチャー的には通用するのかもしれない。だが、here と in here における構文性の強弱。hereは形容詞化しているのか?いや、in here が形容詞化しているのか?

むしろ、hereは名詞であり、in hereが形容詞化しているからこそ、Iとの間にネクサスが成り立つ後者―I in hereーだけが、通じるのだろうか?

大津栄一郎は、ゼロ冠詞名詞を―正確には人称代名詞だったと思うがー簡単に「人格化」といったが、空間や時間は人格化できるのだろうか?できたとしても、それは人称代名詞とは違い、無色透明なのではないか?むしろ、人ですらない下等生物なのではないのだろうか?

そうだったとして、それが英文解釈に、英文のニュアンスにどんな意味を付随させるのか、知らんけん。

まぁ、頓挫。


でもやっぱり、here は形容詞化で液体で一面的、in here は「空間化」を経た名詞化で結晶で多面的な「擬人化(人格化)」って理解に僕は惹かれる。この「空間化」というのが良い。時間の流れをアウグスティヌス的に空間化(トポロジー化)する結果構文的な文末焦点。。。新情報の連鎖。beingという運動。living grammar。

時間すらもが三次元の結晶的である。という認識論。理性的な者は現実的であり、現実的な者は理性的という大津的な英語理解につながる。

特殊化=固有名詞化=人格化=三次元結晶

イェスペルセンは「一般化―特殊化」=「形容詞化―名詞化」ってかんじで語ってる。二次元で液体な形容詞より、三次元で結晶な名詞の方が、意味が狭い。他方で、固有名詞は人格という形而上属性を表す。

この「人格」ってイメージが曲者だ。脱人格化されてないのだから、人格は限定的で範囲があるはず。でも、人の人格って、深奥で計り知れないようなイメージがある。人格という形而上空間にある「見えない者」。「見えない者」の奥にある「見えないもの」。

こういう「見えない影」を前提にするような発想は、大津的に考えれば日本的なのかもしれない。「見えないもの」なんてのは、どこにも存在しない。むしろ存在し得ない。全部、まるっと見えている・・・もしくは、見ることができるという確信がある。だからこそ、形而上か形而下かに関係なく、三次元的な結晶として逆算固定ができる。――というのが英語的なのかもしれない。

外側に広がると言うよりは、内側に深い。「月の裏側」は存在せず、深くはあるけど、見ようと思えば見ることができる。

オットー・イェスペルセン『文法の原理』

文法の原理〈上〉 (岩波文庫)

文法の原理〈上〉 (岩波文庫)

文法の原理〈中〉 (岩波文庫)

文法の原理〈中〉 (岩波文庫)

文法の原理〈下〉 (岩波文庫)

文法の原理〈下〉 (岩波文庫)

超時空ツンデレラRancourちゃん キラッ★彡

はてなブラックスター - ぼくはまちちゃん!*1

星間飛行-ランカ・リー-中島愛

ポジティヴが揺らぐ♪
ネガティヴが拡がる♪
触れ合った指先の♪
黒い ぶら★すた♪


見つめあうだけで♪
誤読なksk度が♪
一瞬に砕け散る♪
あなたが好きよ♥


腹黒な真珠のように♪
厨に浮く涙♪
悲劇だってかまわない♪
あなたdisりたい♪



キラッ★彡



流星にまたがって♪
あなたは急降下 ah ah♪
jkonの☆空に♪
私たちワナビみたい♪
マウスが怨恨の★放つ♪


会話などなしに♪
内側に潜って♪
考えが読み取れる♪
不思議な夜♪


あなたの名 呪文みたいに♪
F5のリピート♪
憎らしくてコメントに♪
★をつけてみる♪



キラッ★彡



匿名で通りすがり♪
アルファに粘着ぅ uh uh♪
けし粒の生命でも♪
私たち瞬いてる♪
今北にイナゴ 雪崩れてく♪


隆盛にまたがって♪
あなたは炎上昇 oh oh♪
jkonの☆空に♪
私たちワナビみたい♪
マウスが怨恨の★放つ♪


サブアカのIDでも♪
私たち瞬いてる♪
自演にイナゴ 雪崩れてく♪
今北にイナゴ 雪崩れてく♪

星間飛行

星間飛行

分詞・動名詞・意味と形式@英文法と英文解釈

http://cgi35.plala.or.jp/report-b/yybbs/read.cgi?mode=all&list=tree&no=4015

奇策な人さんの訳を叩き台にさせていただきました。(多謝

[With you talking so loudly I cannot concentrate on my study.]

1.「あなたがあまりにうるさく話す状況では、自分の勉強に集中できない」(with を付帯状況と解釈し:、talking は動名詞で you はその意味上の主語)

2.「あまりにうるさく話すあなたのために、自分の勉強に集中できない」(with を理由と解釈:その目的語が you、talking は you を後置修飾する現在分詞)


この間の小原さんのやつ*1もそうだが、大津栄一郎的な英語観の光子に談話文法を乗せて直読直解釈すれば、普通にイメージできるっつーか、伊藤和夫・山口俊治・多田正行・佐々木高政の英文解釈法に至るはずなんだよな、必然として。

草稿〜人格の痕跡

細かい点、奇策な人さんの翻訳感覚が気になったので・・・。

奇策な人さんの「talking は動名詞で you はその意味上の主語となり」ってのに、ひっかります。

まず、動名詞の「意味上の主語」になりうる「文法上の品詞」は、基本的に「所有格」。次点で「目的格」。例外で「主格」。

共通点だけ抽出すれば「意味上の主語」の存在だと、僕は認識しています。つまり、統語的構文というよりは意味・ネクサスを重視している。


talking を「動名詞」と解釈する場合、構文の要素である「目的格」が消費されますよね。となると、you は文法上の品詞では目的格になれないはず。

他方、you-your-you なので、talking が動名詞ならば you は「主格」か「目的格」になるはず。

前置詞は目的語を一つしか取らないのに、文法書的には目的格のyouで、talkingは動名詞って解釈が正しい。「口語的」、という条件がつく例外ですけど。


で、当然、例外なので、中心は前置詞の目的語である動名詞になるーー「あなたがあまりにうるさく話す状況では、自分の勉強に集中できない」。talkingという「状況」がトピックの中心。


他方、talkingを分詞とすると、トピックの中心はyouに移り、「あまりにうるさく話すあなたのために、自分の勉強に集中できない」となる。


この意味の差の原因を「構文の違い」に還元してしまっていいんでしょうか?

というか、そもそもとして、you を中心とする(後者・分詞の)解釈は在り得るんでしょうか?

なんか、違和感があるんですよ。 with you... と切り出してるんですよね。談話文法的には、hyper-theme で一種の「導入」ですよ。しかも人称代名詞を使ってるってことは、話者は「you」の指示対象である「あなた」という「人格」を知悉していることになりませんか?


この場合、「youがうるさく話す」のは、youの性格でしょうか?今回限りの「状況」でしょうか?

youが前者のような「性格」を表すのは、トートロジーで変じゃないですか?「うるさい性格」として「知悉」してる「人格」を「敢えて」言い直している。

もちろん、「敢えて(メタなれトリックとして)」言ってるだけかも知れませんけど・・・。

とりあえず、メタなレトリックはおいといて、ベタな意味で考えるなら、talkingという「今回限りの状況」と解釈するのが英語の原理に適ってる気がするんです。

でも、それは「動名詞だから」というのではなく、youのあとに「置いてあるから」って気がするんです。だからこそ、talkingが中心になる。

「後置修飾」だと、youが中心になるってイメージというか、文の要素を考えればそうなりますよね。

でも、談話を考えれば、文の要素でない「副詞」(修飾語)こそが、最重要な情報だったりしますよね。yesterdayとかの名詞が。副詞的目的格って「意味」を持ちうるのも、get up の up みたいな adverb particle と同じ談話の流れに起因してるのではないか?

記述文法的には、文末焦点でしょうか?

やっぱ投稿するの止めた〜表層構造ー深層構造

「意味上の主語であることが分かれば、文法上の品詞は関係ない」もしくは「5文型では分析しきれない例(だし、意味が分かるからする必要もない)」という反論は個人的にブブーです。大津栄一郎マンセー

ネクサス中心ではなく、談話を中心にすえれば、規範文法的な構文解釈が可能になるってこと。youは目的語、talkingは分詞っつーか後置修飾。

動名詞の意味上の主語が文法的に主格になるのは、談話的に主格な流れだから。マスター英文法の例文みりゃ分かる。目的語になるのは、英語の流れに引っ張られるから。流れってのは談話の流れよ。直読直解よ。

そーいや、個々の品詞と、意味上の品詞(文の要素)の乖離を専門用語でなんて言うんだっけ?なんか、それぞれに名前がついてた気がするなー。なんか微妙に、ズレてる気もするけど。

ボキャビル難易度@BNCに垣間見る英語の語感

小説で覚えるボキャビル本の単語リストがあったので、「http://www.lextutor.ca/vp/bnc/」で測定。

ピノキオを多読してボキャビルな英単語帳

The Pinocchio Intermediate Vocabulary Builder

The Pinocchio Intermediate Vocabulary Builder

Freq. Level Families Types Tokens Coverage%
K1 Words : 9 9 9 0.90 0.90%
K2 Words : 31 31 31 3.10 4.00%
K3 Words : 52 53 53 5.31 9.31%
K4 Words : 70 70 70 7.01 16.32%
K5 Words : 93 93 93 9.31 25.63%
K6 Words : 93 93 93 9.31 34.94%
K7 Words : 99 99 99 9.91 44.85%
K8 Words : 99 99 99 9.91 54.76%
K9 Words : 79 79 79 7.91 62.67%
K10 Words : 67 67 67 6.71 69.38%
K11 Words : 99 99 99 9.91 79.29%
K12 Words : 51 51 51 5.11 84.40%
K13 Words : 51 51 51 5.11 89.51%
K14 Words : 30 30 30 3.00 92.51%
K15 Words : 18 18 18 1.80 94.31%
K16 Words : 5 5 5 0.50 94.81%
K17 Words : 4 4 4 0.40 95.21%
K18 Words : 2 2 2 0.20 95.41%
K19 Words : 1 1 1 0.10 95.51%
K20 Words : 2 2 2 0.20 95.71%
Off-List: ? 43 43 4.30 100.00%
Total 955+? 999 999 100% 100%

The Pinocchio Intermediate Vocabulary Builder SAT-Level Wordlist

オズの魔法使いを多読してボキャビルな英単語帳

The Wizard of Oz Vocabulary Builder

The Wizard of Oz Vocabulary Builder

Freq. Level Families Types Tokens Coverage% Cum%
K1 Words : 17 17 18 0.97 0.97%
K2 Words : 16 16 16 0.86 1.83%
K3 Words : 28 29 29 1.56 3.39%
K4 Words : 42 42 42 2.25 5.64%
K5 Words : 50 50 50 2.68 8.32%
K6 Words : 76 76 76 4.08 12.40%
K7 Words : 100 100 100 5.36 17.76%
K8 Words : 99 99 99 5.31 23.07%
K9 Words : 97 97 97 5.20 28.27%
K10 Words : 131 131 131 7.03 35.30%
K11 Words : 133 133 133 7.14 42.44%
K12 Words : 138 138 138 7.40 49.84%
K13 Words : 187 187 187 10.03 59.87%
K14 Words : 123 123 123 6.60 66.47%
K15 Words : 180 180 180 9.66 76.13%
K16 Words : 82 82 82 4.40 80.53%
K17 Words : 61 61 61 3.27 83.80%
K18 Words : 29 29 29 1.56 85.36%
K19 Words : 25 25 25 1.34 86.70%
K20 Words : 15 15 15 0.80 87.50%
Off-List: ? 230 233 12.50 100.00%
Total 1629+? 1859 1864 100% 100%

The Wizard of Oz Vocabulary Builder SAT-Level Wordlist

このシリーズは、発音記号が書かれていないから、ボキャビルな英単語暗記をメインにしたい人にはオススメできない。そーいった用途には、KaplanのSAT小説が蝶おすすめ。

英語のボキャビルって『無意味』くさい

最近思うんだけどさ。上位語というか、超難しい単語を覚えても意味無いような気がしてきた。日本語なら「赤」と「紅」は全く違うニュアンスを持つ。だけど、英語の「red」と「crimson」にニュアンスの違いが、日本語の「それ」と同じぐらいあるのだろうか。

英語という言葉は日本語より、もっと記号化されているのではないだろうか。英語を日本語の中に捻じ込んでイメージすると、英語というのは「カタカナ言葉」であり「外来語」のように「記号化」しているんじゃないだろうか――つまり、無意味なバズワード

漢字とルビ、そのどちらが意味なのだろう。歌でも「宇宙」と書いて「ほし」と読ませたり、漫画でも「伸縮自在の愛」と書いて「バンジーガム」と読ませたり。特に後者の例は、記号化が前者より進んでいるように思える、意味が無い分だけ。

辞書に載っている単語を覚えれば覚えるだけ世界が豊かになる。――そーいう感覚は極めて日本語的なのではないのだろうか。日本語は意味と意味を「かけあわせる」ことで新しい意味を製る。英語は無意味と無意味を「くみあわせる」ことで新しい意味を創る。僕は、紙の辞書を暗記するアンチバベル方式より、イッチーのシソーラス方式の方が、英語の感覚に近い世界観を感じることができるようになる気がする。いや、そりゃぁさ、辞書を隅から隅まで暗記してしまえば、ディクショナリーもシソーラスも同値だろうが……。

関連:

ポストモダニストなら理解できてしまう英語冠詞文法のパラダイム

冠詞用法(aとtheの使い方)をプログラミング言語の文法で比喩

冠詞を付けない場合 - クラス/構造体自体
I like books.
これはbookクラス自体を指しているのではなく、bookクラスを複数保持するbooksコレクションクラスを指しているため、本一般のことを指します。

これは面白い喩え。構造というか抽象化される部分も「複数形」にはある。『英語冠詞事典』で言えば「完結以上」。ポモに言えば形而下的でもあり形而上的でもある。だが、「(広義の意味で)総称用法(的なもの)」は book / a book / books / the book / the books のどれでも成り立ってしまうのが困りもの。そう考えると、「aとtheの違い」だけでなく、「aとtheの同じ部分」も文法的に理解しないと大変だね。

冠詞用法(aとtheの使い方)をクラスとインスタンスで比喩

テーマのaとtheの使い分けだが、これは、OOP(Object Oriented Programming)で言うと、aがクラス(class)でtheがインスタンス(instance)だ。Flashだと、aがシンボル(symbol)。説明になってない? ちょっと違う面もある。が、とりあえず冠詞なしのdogがクラスに近い。
 このdogクラスからできたa dogや複数形のdogsがインスタンスともいえるのだが、インスタンスはID(identification)管理するから、できるのはa dogとかじゃなくて、「ハチ公」とか「ポチ」とかだ。名前が付いている。こいつらがthe dogである。theが付くのがインスタンスだ。
 HTMLだと、クラスからの継承(inheritance)という関係ではないのだが、aはclass指定、theはid指定に近い感じ。また、余談だが、HTML要素の属性であるclassやidはCSS(Cascading Style Sheet)のためにあるのではなく、あくまでHTMLの論理構造指定の補足のため。よく「論理構造はHTMLで指定し、見栄えはCSSで指定せよ」と言われる。が、CSSのためにclass指定やid指定するのは本来なら邪道じゃないか? でも、そういう指摘はあまり見かけない。もっとも論理構造とか言うならHTMLではなく最初からXMLCSSを使えばいい。が、歴史的な背景からHTMLやHTMLからできたXHTMLを使っている。理想なんかより、歴史的な理由があるのというのが現実というものだ。
 話を戻す。aとtheの違いは、aはクラス的なものを示すのに対して、theはIDに対応している。っていうことは、「theが付く名詞には固有名が付くのだけど、それがわかんないから、仮にtheを付けておくよ〜ん」という含みがある。

1. book class の instance が a book/ books と考えられる一面と、


<定冠詞の、「同定」>という二つ目のキーポイントを考慮して:

2. book class の instance が the book / the books とする面。


強引に纏めると "function book {} / $a_book = book(); / book() = the"

ッてカンジかな。定冠詞には「記号の記号」というメタ意味な部分もあると僕は思う(放言

英語冠詞の唯名観:a 不定冠詞の存在―the 定冠詞の認識

更に言えば、「the がつく名詞」=「同定可能」という「共通認識が可能」なものだけが「固有名」を「持ち得る」ことになる。つまり、英語の唯名感であり、「形而下で認識できるものしか形而上では存在できない」という『英語の感覚』で大津栄一郎が提示した英語理解に繋がる。と、思う。*1


「a」ってのは「ひとつである」のだけれども「任意」でも「ある」。「個別」であるのに「代替可能」という《意味》。

「the」ってのも「ひとつである」のだけれども「固有」でも「ある」。「固有」であるのだから「代替不可能」という《意味》。

不定冠詞「a」は「存在」であり、定冠詞「the」は「認識」。表されるコトバが「形而上的な概念」であれ「形而下的な物質」であれ、いずれにせよ、『冠詞』の持つ《意味》に内包されている。コトバは「差異の体系」であり、「存在」には≪影≫が付き纏う――そうだからこそ「認識」可能。『冠詞』という《意味》を見極めるには、≪影≫を踏めばいい。

英語冠詞の固有名と定冠詞the

大文字、すなわち固有名詞になっている場合にはtheはつけない。これは the internet と Internet の場合も同様です。これは、プログラマー的な理解にも合致します。theはいわば「固有化オペレーター」なので、すでに固有化されているものに二重にかける必要はない、というわけ。

この喩えも面白いな。つまり、「無意味」から「無意味」は派生しないってことだ。固有名詞を更に固有名詞化することは不可能。

定冠詞(the)と無冠詞(φ)の両者が表す「唯一」の違いは、<「認識論」と「存在論」>・<「共有」と「固有」>というように「同定」のさせ方が違うのかも。

無冠詞(ゼロ冠詞)から冠詞を取ることは可能か?

僕は最近、「"Internet"を"the Internet"と書き換えることへの可能性」を模索している。つまり、英語は、「無意味を無意味のまま」として―「説明はできるが翻訳はできないもの」どころか「説明すらできないもの」として―表現できるのか?という疑問。

一言で言い直せば、「無冠詞から、更にゼロ冠詞をも取る方法」。もしくは同等の効果を得るために「無意味を無意味のままで意味化」―定冠詞による同定―とかとか。たぶん、後者の「定冠詞で意味化する」しかないと思っている。哲学系の話を英語で読めば色々と確認できそうだ。

(*なんでこんなことを考えているのかと言うと、ここが英語の限界くさいから。つまりは、論理的脱構築wを狙うことで英語冠詞への理解が深まる気がするんだ。つまり、realism でも、観念論の対としての認識論的実在論ではなく、唯名論の対としての論理的実在論の方面からのアタックなのか?←自分の言ってることをあまり分かってないwww)

無冠詞(ゼロ冠詞)を定冠詞のように使うメタレトリック用法?

もうひとつは、逆から攻めて、『無意味であるからこそ意味がある』という修辞として――つまりは、"the Internet"もしくは"the the United States"という意味として"the United States"を使うメタレトリックは可能なのか?既に固有名詞化されているものを―存在してしまっている形而上概念を―逆手に取って利用するような修辞法はあるのか?(詳しくは下記の「http://canopus.s31.xrea.com/modules/bwiki/?%E8%8B%B1%E8%AA%9E%E5%AD%A6%E7%BF%92%2F%E7%B2%BE%E8%AA%AD%2F%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%81%A8hell%E3%81%AE%E3%82%BC%E3%83%AD%E5%86%A0%E8%A9%9E関連エントリー

(*これは、英語的なホノメカシ方なんじゃないかって気がして考えてる。)

冠詞と名詞と固有名詞化:総称用法・総括用法

ちなみに、前述の「総称」5パターンだが、あれは全部、「固有名詞化してる」って点では共通してるんだよ。無冠詞―つまりはゼロ冠詞が付いてる―だから抽象とか、有冠詞―冠詞が付いている―だから具体とは言えないんだな。

ピーターセンも言ってるけどさ。冠詞が付いたままでも固有名詞化・符牒化・無意味化は可能なんだよ。(たぶん…

例としては最近の英語同好会BBSでの "red lines" という複数形の固有名詞化(だと僕は思う)がある:「http://cgi35.plala.or.jp/report-b/yybbs/read.cgi?mode=all&list=tree&no=3753」 (ちなみにGilderoy=id:nash-bridges

そうなると、「aとtheの違い」ってのは「aとthe」の本体を見れば違う形をしているが、「本体の作る影」は同じ形をしている。もしくは、「aとthe」は同じことを違うようにしているだけ。――というような側面・一面もあるようだ。

英語冠詞とは共時的な意味論のパラダイム

換言すれば、定冠詞は認識論的。無冠詞は存在論的。不定冠詞(複数形)は形而下的。そして、これらが固有名詞化されると、ハイデガー的な意味で実存的になる。ここに学校英文法的な「抽象―具体」軸を重ね合わせると、冠詞のグラデーションを単純に理解することができる…はず。つまり、『意味論的』な側面と『構造的な側面』のサンドイッチで英語冠詞を理解するってことだな。ま、詳しくは以下で紹介する書籍かエントリーを読んで欲しい。正直、僕自身が勉強中なので全く纏まっていないし、矛盾するところもあるかもしれないし、そもそも放言。

英語冠詞の用法を理解できるようになるオススメ本の紹介

英語冠詞と英文法を相関させて学ぶ おすすめ英語新書
    1. 日本人の英語 (岩波新書)』…マーク・ピーターセンの無自覚な認識論。だが、彼も所詮はネイティブのパラダイムに捕らえられている囚人だったわけだね。
      • 『日本人の英語』で展開されたマーク・ピーターセンの主張:「意図」こそが冠詞の有無を決める――意味の意味。
    2. 英語の感覚〈上〉 (岩波新書)』…日本語と英語の違い(放言)。マーク・ピーターセンが『日本人の英語』で前提としてたもの、さらにその《先》へ。
      • 「意図」に英語的な世界観があることを暴露。形而上に、認識できないものは存在しえない。むしろ、認識できるからこそ形而上に存在できる。<「認識できないものは、どこにも存在しない」のだから「見えないものも見える」>ってのが英語の感覚であり、ピーターセンが前提としてすっ飛ばしてたところ。他方で、日本語は「認識できないものも、認識できない物自体として客観的に自律した存在(見えないもの)として実在できる」――無意味の無意味。
    3. 英語の感覚〈下〉 (岩波新書)』…東浩紀動物化するポモ』・『郵便本』なんかを読むような人で、ピーターセンの初心者向け向け解説なんかじゃ、ぜんぜん物足りない!!!!と、思っている人には『英語の感覚』が蝶オススメ!

ちなみに、大津栄一郎の話はエッセイレベルであり、実証性はない。ただ、ピーターセンの冠詞観は、「書き手の認識」を前面に押し出しているが、それを学校で英語をしっかりと習ってきた人間がちゃんと「書き手にとっての」として読めるのか、「情報の認識」のレベルで理解が留まってしまうのではないか。むしろ、トンデモレベルの話であっても、大津栄一郎のように存在論方面(?)も意識した方が、ピーターセンの見方―「実際にその情報が新しい旧い」ではなく、「そのように書き手が見なしている」―がよく分かり、よく分かるゆえに冠詞を選ぶ「指針」としてはイマイチ役に立たないと思えるようになるのではないか、とか個人的な経験に即して思ったりも。

「a,the,ゼロ冠詞の有無は文脈が全て」と、ピーターセンは『日本人の英語』で言った。だが、これには「まだ《先》が在る」。彼は、その《先》を語らない事で《先にある認識論的なパラダイム》――つまりは、冠詞をポストモダン的に理解できる可能性を示唆した。

大津栄一郎は、ピーターセンが『日本人の英語』で語らなかった《先》を『英語の感覚』で語ってくれた。でも、それでも、まだまだ足りない――≪もっと先≫があるはずだ。英語という言語が、大津の言うようにコンラッドナボコフを産んでしまうほどの〈世界最強〉ならば、さらに拡張できてしまうはず。語り得ないものを、認識する事すらできない虚無を、意味の欠如としての完全な無意味を、無存在であり純潔な無としての絶無を。それを表し得るのは無冠詞だけではなく有冠詞でもあれるはず。ピーターセンが概念を作り、大津が理論を立てたとするなら、技術に落とし込む余地がまだある。大津が導入した時間軸。これに談話文法を重ね合わせれば倒置と文末焦点の一見矛盾する関係―つまりは情報構造―が文脈からすればなんら矛盾してないということ。

英語冠詞の付け方・冠詞用法(aとtheの違い)をポストモダン的学ぶ冠詞解説書籍のオススメ

こういった一般論における使い分けについて、Geoffrey BroughtonはPenguin English Grammar A-Z for Advanced Studentsで、冠詞ナシ+不可算名詞は、その名詞が表すカテゴリーを不可分一体のものと扱い、冠詞ナシ+可算名詞はその名詞が表すカテゴリーに属するもののすべてを表すとした上で、To be safe, use a plural count noun or a non-count noun when speaking generally.(安全を期するなら、一般的な話をするときは、可算名詞の複数形か不可算名詞を使うべきだ)としていますし、また、Mark NettleとDiana HopkinsのDeveloping Grammar in Context (Cambridge University Press)も、To talk generally about something, we use no article + pllural / uncountable noun.(何かについて一般的な話をするときは、冠詞ナシ+複数形/不可算名詞を使う)としています。
――http://tottocobkhinata.cocolog-nifty.com/bizieizakkicho/2005/05/post_ff59.html

結局、英語冠詞(a/the)の使い方の説明になってなくて悪い

だけど、弾さん達*2の比喩のおかげで、僕は自分の考えていることを更に言語化することができた。ありがとう、オジサマ!(多謝

冠詞・制限・非制限・旧情報・新情報・クラインの壷相転移・反転・無意味・意味

定冠詞 the 認識論 2つで1つのルール

第三に、the basement level of this building のように限定句で絞られているときも、モノ・コトが特定しており、相手もわかっているケースに該当するので、定冠詞が必要です。第四に、共通の理解があるときも、「モノ・コトが特定しており、相手もわかっている」ということで定冠詞を入れます。例えば、来日したお客さんが迎えに来てくれた人との雑談で、「ホテルに着いたら、きっと本社からいろんなメッセージが入っていますよ」というケースを考えた場合、そこでの「ホテル」は、「とあるホテル」の話ではなく、予約が入っており、今晩泊まる予定の「あのホテル」に決まっていますから、「モノ・コトが特定しており、相手もわかっている」わけで、定冠詞をつけます。
――http://eng.alc.co.jp/newsbiz/hinata/2007/09/post_404.html

勝手に引用を強調させてもらったが、定冠詞theを使うためには2つの条件が必要だというわけだ。いや、ひとつだ――相互に存在を既知として認識している。これがtheという定冠詞がもつ同定の力。

定冠詞(the)不定冠詞(a/an)―関係詞:旧情報->新情報の談話

We weighed several samples, and we analyzed the sample that had the highest density.
(引用補記:定冠詞×関係詞=新情報
(いくつかのサンプルを計量して,密度の最も高いサンプルを分析した。)

We took a sample of the substance. Later, we analyzed the sample, which had a reddish color.
(引用補記:定冠詞=旧情報+関係詞=新情報
(物質のサンプルを採った。その後,赤みを帯びていたそのサンプルを分析した。)

  ここでは,サンプルが一つしかないから,which had a reddish color という関係節はその意味を制限しているのではない。そのサンプルについての情報を付け加えているだけなのだ。
  一方,制限用法では名詞と関係節の間にカンマを使わないで,関係詞はthat または which にする。非制限用法では, that が不可で,カンマと which を使う(関係節の文法はもっと複雑だが,ここでは詳細を省略する)。
――冠詞と関係節 - 科学英語を考える - 東京大学 大学院理学系研究科・理学部

大津が言うに、英語はエンドレスである。そのエンドレスがどのように談話を成しているか。そのヒントがここにある。掛け算による「追叙」か、足し算による「追叙」か。

前者が無意味と無意味からの創造であり、後者が無意味に意味を付加する敷衍。

結局、制限用法も非制限用法も「追叙」であり、時間が飛んでいることに変わりは無いわけだ。

定冠詞の付く名詞【先行詞】― 関係詞のつくる【節】 を繋ぐ クラインの管

さて,ここで興味深いのは,関係節で修飾されている名詞は読者に知られているかどうかという問題だ。

最初の例では,読者が制限的なthe sample that had the highest density を読むときに,「密度の最も高いサンプル」の存在を初めて知る。そのサンプルのことは新しい情報で,今まで読者に知られていなかったのだ。

一方,非制限的な the sample, which had a reddish color では,そのサンプルが前のセンテンスでも言及されているから既に読者に知られている古い情報なわけだ。

このように,「制限用法=相手に知られていない」「非制限用法=相手に知られている」という傾向が強い。このシリーズを読んできた人はもう気がついていると思うが,この関係節の用法は冠詞の用法とかなり近い。というのは, the sample that had the highest density は不定冠詞の a sample と同じように,読者がどのサンプルなのかわからないことを指している。一方, the sample, which had a reddish color は定冠詞の the sample のように,読者に既に知られている,という意味だ。
――冠詞と関係節 - 科学英語を考える - 東京大学 大学院理学系研究科・理学部

ここは談話文法を前面に出せば、もっとスマートに説明できるのにな。まぁ、結果は、そういう傾向になる。にしても、英語構文を意味論的にネイティブの視点から分析してくれるトム・ガリーのインテリジェンスに感動した!ピーターセンの否定神学流韜晦放言とは大違いだぜ!ガリーの新書の出版マダー?

固有名は述語になれない:既知の先行詞は固有名詞化・符牒化し無意味になる

  「相手に知られているか」、「相手に知られていないか」という違いは,冠詞だけでなく関係節にも深い関わりがあるわけだ。それだけではない。「相手に知られている」という分類には, my book などの所有格も,Japan,Ms. Suzuki などの固有名詞も入っている。これらは,定冠詞が付いている the book や the country, the woman と同じように機能する。例えば, 次の例のように, Japan が関係節で修飾されているときには,非限定用法を用いるのが普通である。
――冠詞と関係節 - 科学英語を考える - 東京大学 大学院理学系研究科・理学部

たぶん、"[the/a/φ] 名詞(A) 前置詞/関係詞 [the/a/φ] 名詞(B)" という型で、Aにはtheが付きやすい。特にofの場合。これは記述文法的にもそうなるらしい。*3逆に言えば、「"the A ..." が使えてしまうような状況では、"the A of B"が往々にして必然の選択になる」とも言えるのだろう。ピーターセンも「限定の度合い」と「冠詞の有無」について『日本人の英語』で言及してたしな。

*(ただ、ピーターセンの「ABとなる場合は、限定が弱くて定冠詞のtheはつかない」という主張も、統辞的なルールであり、ABがCBと対比されるような談話の流れさえあれば、定冠詞theを付けること自体は可能だと僕は理解している。まぁ、イェスペルセンのいうところの「形容詞化」に通じる感覚なんだろうとも思う。)


関係詞が間にある場合は、「新情報かつ照応可能」って条件で"the A which ..."になりそう。むしろ、そんな条件すらも必要無いのか。全ての新情報は照応可能――つまりは認識可能。なぜなら、認識できないモノは形而下の前駆である形而上に存在できないのだから。


<「相手に知られているか」、「相手に知られていないか」>というのは、<新情報―旧情報>の軸と重なるのだろうか?<不定冠詞―定冠詞>とも重なる部分がある。<存在―認識>だと少しズレてる感じだ。myは人称代名詞の所有格。つまりは固有代名詞とも言えよう、大津的には。この固有代名詞は形而下だけでなく、既に形而上の人格へ侵犯している。Japanも同様だ。

だが、このネイティブの解釈だと

「知られている」
  =<「固有名詞」=「共有已然」=「無冠詞φ」>
  =定冠詞
  =「旧情報」

になるんだよな。定冠詞が新旧両方に使用される……うーん、捻れたぞ…。いや、捻れてないか。定冠詞が固有名詞化のレベルまで突き抜ければ―認識から存在へ相転移すれば―等号で結べる、無意味として。ビバ!非排他性!!!

つまり、定冠詞のtheが非排他的に旧情報と新情報を繋げられるケースってのうは、定冠詞のついた名詞が固有名詞化しているってことだ。要は、存在だけが問題になり、狂言回しになる。

どうも、このネイティブ先生の意味では、

「知られていない」
  =「共有未然(認識可能)」
  =「不定(冠詞・代名詞))」
  =「新情報」

ってかんじだ。これは、とてもネイティブ的な唯名観だ、大津的に。「認識が存在に先立つ」ってやつっすね(違 なかなか興味深い。

「定冠詞に二面性」があるというよりは、「新情報に二面性がある」と捉えるべきか。無意味の新情報は不定冠詞。意味の新情報―つまりは旧情報から創発した新しい新情報―は定冠詞。


そう、「知られている」の部分に「定冠詞」の「(石田秀雄が言う)照応における非排他性」の部分が明示化されていない気がするんだな。新情報であり旧情報。新情報が発言された瞬間に旧情報として同定されてしまう反転現象――。一度、言葉によって切り抜かれた意味が、さらに切り抜かれ直すことで旧きを訪ね、新しきを知る。――存在と認識が織り成す実存、みたいな。


どうも冠詞ってのもクラインの壷モデルで攻めないとキツイ部分がある気がする。もしくは、3・4つの二項対立軸を重ね合わせて炙り出す方向か。


ところで、考えてみれば、付加疑問文も使用状況を考えれば非制限用法と言えるな。大津栄一郎的なパラダイムに沿った挙動だな。善哉善哉。

英語冠詞と伝統文法(学校英文法)と意味論的解釈

「theは特定のものを表す」――と、僕らは習う。でも、僕が今もっているシャーペンだって「特定のもの」だ。むしろ、僕にとっては「特別なもの」でもあり、「交換可能」であっても「大事なもの」でもある。

つまり、僕達は英文法や英語冠詞の「意味」を学んでいるようで、実は「分類の仕方」を学んでいるだけだったのではないだろうか。僕達は「英語という言葉」を学習しているようで、実は「英文法という規則」を学習しているだけだったのではないだろうか。

「赤信号がついている」―theがついている―のは、なぜですか?「赤信号はトマレを表しているから」―theは特定のものを表しているから―。

たしかに、これは赤信号の定義であり、赤信号の意味するところのものだ。しかし、本当にそうだろうか?

なにも、赤信号が本当に赤いのか。もしくは、青信号との比較がなければ赤信号と言えない。とか、言うつもりは無い。

存在論的な疑問」「認識論的な疑問」ではなく、「なぜそのような意味が成り立っているのか」。赤信号という「意味」の『意味』。英文法や冠詞への「意味論的な疑問」

学校文法に足りないのは、自身への「意味論的な解釈」なんじゃないかなって思う。部分的にコーパスな記述文法を活かす援用パッチワークも良いと思うけどね。なんかなぁ〜。もうちっと根性みせて欲しいわ、「伝統」ってやつには。文法の「説明」だけでなく、その文法が適応された英文の「意味するところのもの」の解説も欲しいな、ただし自前で!

*1:因みに、この「無意味から意味の派生」というポストモダン創発視点は大津だけではなく、-『例解 現代英語冠詞事典』の樋口&ゴーマン『英文解釈教室』の伊藤和夫『思考訓練の場としての英文解釈』の多田正行『山口英文法講義の実況中継』の山口俊治に共通するパラダイム。ま、明確に「統一理論」を提示したのは大津だけだけどな!多田もけっこう頑張ったけど、厨二病な演説が冗長過ぎたwww

*2:最初のエントリーの方のお名前が分からないので、複数形で^^;

*3:出典:PEU

英語の感覚×日本人の英語:冠詞パラダイム論

マーク・ピーターセン『日本人の英語』:日本人の英語の感覚

「意図」――つまりは「文脈」が冠詞を決定「してしまう」というピーターセンの話は、「文字通りの意味だけ」じゃない。もっと過激な事を言っているんだよ。つまり、無冠詞だから抽象だとか、有冠詞だから具体だとかいった一意的な学校文法的公式の不完全さの暴露なんですよ。日本人の冠詞理解は「ペンギン的な知識ですね」って言われてるんですよ!

しかし、そうであるがゆえに、彼の『日本人の英語』には「まだ先が在る」んですよ!ピーターセンは、その「先」を語らない事で《その先、にある認識論的なパラダイム》――つまりは、冠詞をポストモダン的に理解できる可能性を示してしまっているんです。ピーターセンは「冠詞」という「意味の産出機構」の存在を明かにしたんです。

大津栄一郎『英語の感覚』:英国人の英語の感覚

東浩紀氏の『動物化するポモ』・『郵便本』なんかを読むような人で、マーク・ピーターセン『日本人の英語』の初心者向け英語冠詞解説なんかじゃ、ぜんぜん物足りない!!!!と、思っている人には大津栄一郎英語の感覚』が蝶オススメ!ハートで感じる以前に理性で感じろ!


「実在」という「在るけど触れられ無いモノ」の自律性を華麗にスルーしている(?)大津の踏みこみも未だ足りないんです。「産出機構の構成」だけでは足りないんです。「産出機構が《機構として自律している》部分」を大津は指摘できてると思うんです。でも、機構ソレ自体が「完全に自律運動をしている」わけじゃない。なにか「動力源」があるはず。そうだからこそ、冠詞という「意味の産出機構」が、どのように「使われているか」――つまりは、「機構の《原動力》(エネルギー源)は何であるか?」であり、《「公式をどのように使っているか?」という公式》を僕は談話文法的な情報構造を重ね合わせることで、炙り出せそうって気がする。つまり、英作や英文読解に技術として活かせそうってことだDADADADA!!!


以下は、大津栄一郎英語の感覚〈上〉 (岩波新書)』・マークピーターセン『日本人の英語 (岩波新書)』・石田秀雄『わかりやすい英語冠詞講義』・樋口昌幸『例解 現代英語冠詞事典』のシントピカル思考の垂れ流しポモ。纏まってないよ。

今までの英語冠詞解説における英文法的な流れ

  ↓

  ↓

  • 3. 大津栄一郎『英語の感覚』「英国人の英語感」
    • 一元論・ポストモダン
    • 認識論的実在論(英語:唯名論的 日本語:実念論的)
      • その「意図」に「英語的な世界観」があることを暴露。形而上に、認識できないものは存在しえない。むしろ、認識できるからこそ形而上に存在できる。<「認識できないものは、どこにも存在しない」のだから「見えないものも見える」>ってのが英語の感覚であり、マーク・ピーターセンが『日本人の英語 (岩波新書)』で前提としてすっ飛ばしてた《英国人の感覚》。他方で、日本語は「認識できないものも、認識できない物自体として客観的に自律した存在(見えないもの)として実在できる」――無意味の無意味。
      • 冠詞は『意味』しか表すことができない。無意味など、どこにもないのだから。

ピーターセンが日本語的なパラダイムに支配された英語を脱構築してくるのなら、こちらだって英語的なパラダイムに支配された英語を脱構築してあげますよって感じ。

  ↓
4. オラ

    • 一元論
    • 存在論脱構築(?)w
      • 英語における「意味」がもつ「存在」への特権を脱構築できそうだと考えている。「意味としての無意味・無意味という意味(schoolなどの機能)」ではなく、「日本的な無意味としての無意味(認識不可能な実在)」もしくは「無意味だからこそ意味があるレトリックへの可能性(ポーのhellとゼロ冠詞問題)」という表現が可能ではないかと疑問に思ってる。
      • 冠詞は『どんな意味・無意味』でも表すことができるはずだ

ピーターセンが日本語的なパラダイムに支配された英語を脱構築してくるのなら、大津が英語的なパラダイムに支配された英語を脱構築してくださるのなら、オラだって解して並べて揃えて存在論脱構築を晒してやんよってかんじw

大津栄一郎『英語の感覚』×マークピーターセン『日本人の英語』書評未満感想以前

僕のイメージだと『影』の部分は円・球の外側。時間軸が無かった。この時間が大事。認識と時間で四分割マトリックス。左下の事象は破棄。右上は「形而上―形而下」で更にニ分割。

上の二事象[=存在界]を更に三本の面で分割。これで時制の10次元、法の3つを説明しきれる。(過去未来時制ってのは文法書に無いよな?論理的にはあり得るし、著者のパラダイムの説明には必須なんだが。たぶん、"I wanted to play baseball."は著者の形式の中では「過去未来」になるはず。学校文法的には「ただの過去」だな。著者のパラダイムでは、「不定詞」の部分が「未来」なんだよね。ま、結果として、この文だと「baseball」は<playできなかった「過去」>となるんだろうけど。)


英語の感覚 by 大津栄一郎』をブコフGET!どこぞ池沼は、「岩波は死んだとか」とか言ってるらしいが、ただの死体じゃねーリビングデッドが岩波クオリティー!英語の新書なのに存在界だの自己だの形而上だの二項対立だの…素晴らしい!岩波はこのまま死に続けろ!w

エンドレスワルツ:英語ネイティブ―日本語ネイティブ

あぁ、もうホントにスゴイスゴイスゴイ!ですよ!!!「文末焦点」、「情報構造」。それも英語の「エンドレス」さで捉えられる!

そのpoint of viewから眺めれば、カーの"what is histry"の文が、いかに「動的」で「遠心的」で、「英語的な美しさ」を備えているのか分かる!!!

村上春樹が「英語で書く」ってのは、英語の「エンドレス」な部分を利用しているのではないかって気がしてきた。そのフレームワークだけを拝借して、日本語で英語を書くってやり方はイケルかも。それを後で再構成してるのかな、春樹ッチは。

コイツを現状の冠詞理解に組みこんでポモ風味で、ねるねるねるねすれば「んっまい!」(テーレッテレー♪

大津の爺様は、『わかりやすい冠詞講義』の石田秀雄樋口昌幸(『例解 現代英語冠詞事典』)や織田稔(『英語冠詞の世界―英語の「もの」の見方と示し方』)も追加して、ポストモダン的に英語の感覚を、英冠詞中心に語りなおすべきだね。


齋藤兆史はイシグロの文が好きみたいだけど、グロちゃんの文は「学校文法をはみ出していない」って感じの美しさ。理路整然とした譲歩節に、文法通りの挿入。

それしか、僕には分からんかったけど、挿入が綺麗に行なわれている。つまりは係り関係が明確ってことは、うまくダラダラとエンドレスに綴られていることになるのかも。

そーすると、ポーの書き方もダダ漏れ系。あの圧縮感が少し特徴的だが、他は基本に忠実っぽい。


あと、齋藤兆史は自著の英文法本で『赤毛のアン』をネタに完了形と心理描写の対応みたいな英文読解を解説してた。問題は、「なぜ、そのように解釈することができるのか」を説明できていなかった(ように思われた)ってこと。そーいう「なぜ」に無頓着な分、齋藤兆史の著作はマーク・ピーターセンにも大津栄一郎にも劣っている。

というか学校文法が駄目って言われるのは、伝統文法が自己言及する際に「存在論的」でしかない部分の説明しかないからなのかもしれない。「その規則がどんな意味を持つのか?」という「意味論的」解説が少ない。で、そーいう「意味論的な説明」は教師の力量次第なんだよな。

しかも、その意味論的な補足が記述文法に拠っていたり、まったくもって根性が足りネーな、伝統文法遣いはよ!もっと限界まで、伝統文法の能力を発揮させてほしいものです。

時制軸:共時的―通時的 / 英語人の英語観―日本人の日本語感

だけどよ、フツー時間軸まで考えようとか、あ、これソシュール?通時性・共時性ってやつか?ユングとかも知らんし……。あぁ、でもアーキタイプとか冠詞理解には便利だよな〜。俺も使っちゃったし…。それで総称用法ですよ!俺も所詮は日本人だったか


でも、感慨深いわ。大津栄一郎は僕が産まれた頃に、この難題に直面した。それから10年ほど悩んだ結果、『英語の感覚』という「答え」が提出される。時を同じくして、僕は英語を勉強し始め、著者と同じ10年の歳月を経て、僕は大津に出会った、と。 気分はさながらソシュールを知ったレヴィ=ストロースなかんじ。

finalvent 古英語は少し勉強した。なるほどねと思ったことはある。 go-went-gone の秘密とか。( go の過去形じゃない)*1

finalvent 英語の冠詞って固有名詞を知らないときの代替なのではと思っている。スターウォーズで the force が出てくるのは、それはかつて「※※力」みたいな固有名があったという含み。

ここの指摘はなんとなく分かるような。ちょい消化不良。複数形も不定冠詞の一種だとするならば、冠詞つき名詞も固有名詞化できる。少なくとも、定冠詞にいたっては、普通に固有名詞化する。

「the force…それはかつて「※※力」みたいな固有名があったという含み」ってのは分かるかも。「影」の部分ですよね。大津は二元論的な二項対立が「影」だって言ってるけど、もっと広い意味で「影」を捉えられると思うんですよね。

そこで便利なのイメージが、『英文法解説』にある定冠詞の「総称用法」であり、"the American"なんですよね。これって、「影」にあるのは"another american"じゃない気がするんですよ。

そりゃ、歴史的には"the british"とかが「影」にありそうだけど、むしろ共時的(?)には、ただ単に「別の国の国民」とも言えるんじゃないかって気がするんですよね。弁別的差異ってやつですか? .

江川泰一郎は、「総称用法」をそこまで拡大解釈していないみたいだけど、「できる」って気がするんですよね。もちろん、定冠詞は差異だけではなく相互認識って軸も重要だけど……。無冠詞でも唯一無二を符牒として表せるのなら、無冠詞は存在論

the earth/the heaven に定冠詞はつくがhellにはつかない。これをキリスト教的なパラダイムの名残としてもOKだし、「形而上―形而下」という弁別的差異の無神論でも説明できる。

ちょい暴走。自粛しまふ。(逆に言えば、hellに冠詞を「つけない」ことで自分がプッツンしてないことをメタ的に修辞的に無意味の符牒であることを逆手にとるレトリックの可能性*2とか…(あうあう自重 ><)

finalvent 不定冠詞の有無は、その物に輪郭が見えるかどうかだとうろ思う。羊って輪郭ないじゃないないですか、もわもわしていて。

大津栄一郎『英語の感覚』読書録2:二項対立―脱構築

どうやら400ページで英語の文法事項を全て説明しきる勢い。単純な原則で多岐に渡る問題を説明できてしまう理論体系に脱帽。流石に教授ともなる人の頭はスゲェ。よくもここまで理屈を詰められるもんだ。


@fromdusktildawn 「ポモが壊すバッカ」ってのは大津栄一郎に言わせれば「日本的」らしいです。西洋人というか英語圏だけかもしれないけど、「ある発言」には必ず「影」が付随してしまう。つまりは、二元論的な思考様式の呪い。 *3

@fromdusktildawn ジョン・ミルトンは『失楽園』で神の栄光を称えたはずなのに、ウィリアム・ブレイクにすれば「ミルトンは悪魔のミカタだった」。神の栄光を称えるには、悪にも偉大さが必然として付随してしまう、みたいな…*4

英国人にとって、<「破壊」を徹底する>には、<徹底された「創造」>が不可欠なのかも。こーいうのが否定神学的なのかな?陰陽思想に似ているようで、似ていない。「静」と「動」の違いみたいな

ニーチェが創造に躍起になってたり、ポモな人達がニヒリズムのど真ん中で結構ノーテンキに実存を志向できちゃうのも、モダン的というか英語的二元論にいい意味で呪われているからなのかも。そうならば、東洋思想系なんて「虚無の信仰」でビビルよな。

絶対運命読書録――世界の果てまでの距離

数十日前の自分の問題意識に万雷の拍手喝采。よくぞ、それを言語化しておいた、昔の俺、な気分。大津のじっちゃんが「距離感」に関する答えを一つ提示してたことに、昔の自分の文章を読んでから気がついた。ってか、仮定法の授業で時制と距離感のことは先生に教わったな。

認識の在り様に、ちゃんと時間軸が絡んでるところが大津クオリティー。とりあえず、「単純である」ということは、「簡単である」ということを意味するわけではないということなのだよ。ドゥー ユー アンダースタンンンンッ?


あと知りたいのは、これが「正しい」としても(というか論理的には「正しい」と思う)、それが英語圏の人達にとっても「正しい」のか。ピーターセン、書評してくれよ!!!デーブでもいいっす!ってか、カイヤでも許す!

で、大津のジジイ。貴様は俺が言語化した疑問も、言語化しては消え無意識にループし続けていた疑問も、全て並べて晒して解して一網打尽に解決しちまう気じゃねーだろーな?このままじゃ、俺が英語を極めてしまうではないか!(アンタって人はーーーッ!

英国人の英語の時間の流れ方―日本人の日本語の時間の流れ方

にしても、時間の流れの重要さにどうして着目できなんだんだろう。動詞によって不定詞や動名詞が禁止されているのも時間の流れ。そんなことは学校の先生に習ってたじゃないか...orz しかも直読直解こそが「それ」なのにさぁ。

前置詞のintoは動作を表す。じゃinは?文末焦点って言うが、文末にある副詞は文の要素じゃない。だが、意味論的にはコアだったりそる。なら、副詞はどう扱うべきなんだ?――この長年の疑問さえも時間の流れで解決じゃないかよ!補語の倒置が結果として主語を強調するように――

…Cが文の最後ならネクサス関係のSが結果として強調されるように、Mと係り関係のあるVの『動作性』が結果として強調されるEnd-Weight。さらに前置詞を境に『時間が飛ぶ』。そして『Mという結果』だけが残るEnd-Weight。

静止、動作、状態、観念、視点、関係、時間、法、直接、仮定、命令、相、完了、進行、転換、不定詞、動名詞、冠詞、形而上、形而下、人格的、物質的、精神的、感情的、因果性、存在界、非存在界、未現実、現実、非現実、影、二項対立、遠心性、求心性――

似ている……君と僕の「英語観」――とても似ている。ポモ的という点で。君がくれた…ヒントと、君が「ポストモダンでは、共時的な側面が過度に重視されざるを得ないということ」を気づかせてくれたおかげで…ほんのちょっぴり成長できたようなんだ!

なにかわからないが、この感覚………僕の「英語観」!もっと生まれるような気がするッ!もっと何かが生まれそうだッ!

時間は過去に流れ…時間は右に流れ…時間は品詞で「飛べる」。動作が速過ぎて補足できないのであれば、時を静止させ続ければいい。流れる時間に流されず、絶対的な「私」を観念に潜行させる――時間が飛ばされた瞬間に速過ぎる時の流れを感じられるのだから…逆に、時制で動作を加速させ続ければ感度は上がる

英語において、大切なのは「認識」することですじゃ!存在から非存在の全てを―時間ですらをも―認識するということはできて当然と思うハイデガー力なんですぞッ!プラトンの人差し指をベキッ!とへし折る事のようにッ、できて当然と思うことですじゃ!

イメージ化完了!ディモールト、良し!!!ってか、大津がややポモってるのは文学理論経由かな?

冠詞の照応と談話文法――新情報・旧情報:時間の流れ

ただ、「重要」という言葉の定義が錯綜している?「重要な言葉は前に持ってくる」ってのと「文末焦点」が矛盾する。たぶん、これは談話文法的な視点を導入することで解決できそう。

倒置(Fronting/Inversion)での「強調」ってのはhyper-theme。文末焦点はrheme。う〜ん…大津め!「倒置」だけは華麗にスルーしやがった!!!(談話文法マンセー

補語の倒置も、やっぱり、結果として主語を強調している事になるんだろうな。

デリダ道元が似てるって話も聞いたことあるけど、似てるようで似てない気がしてきたよ、大津の爺様。むしろ、「英語において時間が過去に流れる」のならば、彼はお互いに逆方向へ突っ走ってゴッツンコした感があるな。

冠詞の背後にあった『影』は、二項対立のもう片方……か。二元論的な「対」が例として上がっているが、そこの部分は脱臭できるな。そうすればもっと適用が広くなり、「総称用法」的ってまとめられる。

村上春樹が「英語で書く」ってのは、英語のエンドレスな部分を利用しているのではないかって気がしてきた

更に言えば、冠詞がついていても符牒化するんだから、そういう意味では冠詞の有無「表裏」と言うよりはメビウスの環やクラインの壷のように「両表」とも言えるはず

日本語―存在と認識―英語:無限の扱い方…組み合わせ×有限性

だが、そこは素直に、「形而上のものも形而上のままで認識できる」としてしまえば綺麗に解決しそう。英語はかなり不遜だな。

kusamisusa 英語のReinforced Concrete(補強されたコンクリート)の味気なさに比べると、とても色っぽくて素敵ですよね。>鉄筋コンクリート @MaripoGoda *5

この「味気なさ」こそが英語の「可能性」

日本語は言語ソレ自体が拡張されてしまうのが「可能性」。

英語は既に完成している有限の要素――それらが無味乾燥で「無意味」であるからこそ、無限に組み合わせる事ができる。これが英語という言語が無限という可能性を獲得した方法論。

日本語は意味ばかりで組み合わせる余地が少ない。ならば、組み合わせに利用できるピース自体を、母数自体を増やす。まさに、虚無。腐海が如く世界を侵食していく。そんなイメージ。

英語の感覚(上)(下)」 大津栄一郎 岩波新書
「英語の感覚」というけれど、この本の内容の多くは、あの退屈な大学受験レベルの英文法の域を出ない。そもそも、およそ魅力的でない英語とかいう平凡な一言語をつかまえて、それを深く掘り下げることに何の意味があるんだろう。英文学の先生が受験問題を作るから、日本の英語教育はダメなんだと思ったりした。

I like teaching English.とI like to teach English.の違いなど、ピンポイント的になるほどと思える箇所もあったのだが、全体を通読するのが億劫で、面白い部分が埋もれてしまっているのが残念。('02.1.27)
http://bioinfo.tmd.ac.jp/~niimura/books2002.html#OhtsuE

ワッカンネーかなぁ〜。ワッカンネーだろなぁ〜。英語における、冠詞と名詞の関係に重なる「世界の認識様式」とは何か?それは「見えないもの」をも「見てしまう」西洋的「私」の「絶対性」。「神の視点」をもつ「傍観者」。他動詞的な言語であるのに―いや、だからこそ―名詞構文という圧縮技術が発達した英語、ネクサス。それゆえに、冠詞を理解するという事は、冠詞に付随する名詞を理解する事に繋がり、英語という言語自体の構造をも理解できてしまう可能性へと繋がっている。ま、ルサンチマン乙。

この「形而上のものなのに、語り得ないものなのに、見えるのか?」って疑問がずっとこベリついていた。哲学的な問題としてはありふれているが、それが冠詞という言語にどのように反映されているのか、いまいち掴めなかった。

西洋哲学の発展から考えれば「語れる」はず。

だけど、そもそも、そーいうアプローチこそが日本語的であった。

「語り得ないもの」が「語り得ないもの」として存在するのは日本語の世界観での話。英語に、このような「虚無」は存在し得ない。

なぜなら、英語において「語り得ないものは形而上には存在し得ない」のだから。見えないものは、想像し得ない。観念であるということは、既に「見える」ということであり、「語れる」という事なのだ。(大津流


これで、冠詞における「形而上・形而下」の捻れは半分ぐらい解決した。やはり、英語は不遜な言語だな。


だから、「冠詞の有無」から意味の「形而上・形而下性」を推し量ることはできるんだが、それが必ずしも「公式的に一意的な対を成している」とは限らないって話だな。ポモポモok?

つまりは、無冠詞なら形而上で確定なんだが、有冠詞の場合は純粋な形而下(抽象)で無い場合も(たぶん)あるって話――要は、「意味のとしての抽象(無意味)」「形而下的な形而上概念」である可能性であり、冠詞が付いた状態での固有名詞化・無意味化・符牒。大津っぽくいえば、「見えないものとして見えている」に近い。「見えてしまっている」以上は意味が生まれてしまう。ま、大津は「見えないものとして見えているもの」は「無冠詞」もしくは「冠詞の影」に表現されるとしているみたいだけど。僕には、これだけでは不充分に思える。

大津の言う「無冠詞」に「ゼロ冠詞」と「複数形」が含まれているのなら、必然として「不定冠詞」も含まれる。つまり、大津栄一郎は「無意味―意味」という二項対立のうち、「無意味」(=ゼロ冠詞・複数形・不定冠詞)の方しか語れていないのではないのだろうか。

無冠詞の場合でも、「無意味としての意味」――「意味が無いことに意味がある」って可能性もあるのではないだろうか。つまりこれは、何度も顔を出しているhttp://canopus.s31.xrea.com/modules/bwiki/index.php?%E8%8B%B1%E8%AA%9E%E5%AD%A6%E7%BF%92%2F%E7%B2%BE%E8%AA%AD%2F%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%81%A8hell%E3%81%AE%E3%82%BC%E3%83%AD%E5%86%A0%E8%A9%9Eの話であり、石田秀雄が『分かりやすい英語冠詞講義』で「定冠詞の用法」として提示した「共犯関係」―新情報を旧情報として扱うレトリック―――その修辞法を、無冠詞まで拡張できる可能性はあるのか?という僕の疑問に繋がっている。

英語の世界観――冠詞という唯名論

日本語は表面と内面を即座には結び付けない。「悲しそうな顔」であり、「悲しい顔」だとちょっと違和感。英語は動詞での印象操作はあるけど、基本的には「悲しい顔=sad face」しかない。

日本語では「見えるものしか見えない」、だけど「見えないものは見えないもの」として存在できる。だけど、英語では「見えないものは、どこにも―形而上にも形而下にも―存在できない」
だから、「語り得ぬものを語るには沈黙ウンヌン」ってのは、日本語的に読めば「形而上でしか存在し得ないものを、どうやって形而下で語るのか」ってことになるんだと思う。

だけど、英語的に読めば「語り得ないものだって語ることができるはずなのに、できない。沈黙するしかない」となるのかも。これは、「語り得ないもの」つまりは「見えないもの」が「見えないものとして存在してしまっている」ことになり、恐ろしい事態、英語的には。

「沈黙」ってのは、日本語的には「無としての無のままの無存在」だから常識的なのかもしれない。だけど、英語的には、「なんの因果無しに何かが生成される」ってのは無い。だから、沈黙という否定的な語りを原因にする事で、辛うじて語り得ぬものを語るという結果を得た苦肉の策。

日本語では「無い」という存在を肯定的に認識できる。だけど英語では「無い」という存在は否定的に認識する事で辛うじて認識できた。この辺はデリダとか否定神学だのファルスだの、そーいう発想に繋がると思います。というか、必然っぽい。

だから、英語には極めてモダン的な二元論・二項対立が流れているみたい。まさに、言語は思考を規定するってやつかな。こんなパラダイムで世界を見ていたのなら、ポモまで辿りついてしまうのは必然であったとしか思えませんね。で、フランス語もどうやら英語と世界観が似てる

英語冠詞のパラダイム:認識論―存在論否定神学

「a,the,ゼロ冠詞の有無は文脈が全て」と、ピーターセンは『日本人の英語』で言った。だが、これには「まだ《先》が在る」。つまり、ピーターセンは、「その《先》」を語らない事で《先にある認識論的なパラダイム》――つまりは、冠詞をポストモダン的に理解できる可能性を示唆した。

大津栄一郎は、マークピーターセンが『日本人の英語』で語らなかった《先》を『英語の感覚』で語ってくれた。でも、それでも、まだまだ足りない――≪もっと先≫があるはずだ。英語という言語がコンラッドナボコフを産んでしまうほどの〈世界最強〉ならば、さらに拡張できてしまうはず。語り得ないものを、認識する事すらできない虚無を、意味の欠如としての完全な無意味を、無存在であり純潔な無としての絶無を。それを表し得るのは無冠詞だけではなく有冠詞でもあれるはず。ピーターセンが概念を作り、大津が理論を立てたとするなら、技術に落とし込む余地がまだある。大津が導入した時間軸。これに談話文法を重ね合わせれば倒置と文末焦点の一見矛盾する関係―つまりは情報構造―が文脈からすればなんら矛盾してないということ。

変形・生成・構造主義ーー英語・冠詞とポストモダン

id:ownricefieldさんのブログ読んでイェスペルセンとチョムスキーをなとなく理解した。前者が機能・規範・伝統とかの要素還元とかのモダン志向。後者が数学で言えばトポロジー構造主義的。僕は英文解釈に役立てたいのでやっぱ談話文法が最適かも。

生成文法にインスパイアされた7文型とか8文型も、確かにある意味では5文型より分かり易い。でも、伊藤和夫レベルの参考書が出ないと主流にはなり得ず、精々コラムで扱うレベルっぽ。

下手に扱って初学者を余計混乱させることにもなり得るし、中級者以上の理解の補助にもなり得る、きっと。

チョムスキーのやり方は英文解釈・読解に役立ちそうはない。構文分析に役立つ程度かな、たぶん。もしくは文体論とか?ただ、この文型論争を流し読みして思ったのは、「構文の要素と文法上の品詞」を分けて2段構えで品詞分解&構文分解する必要性はあるかもしれないと思った。

文型の数は問題ではなく、「同一品詞が構文において複数の機能をもってしまう」のは、英語が分からない生徒を混乱させてるのかもしれない。同じ名詞なのにCだったりOだったりMだったりする。

僕はこういう「機能の揺らぎ」を「文法を隠蔽した音による英文暗記・暗唱」で華麗にスルーさせらから、よく分からんのだ。中学までは英語の成績が良かったくせに「文法なんてクソ!読めればイイ!!」と思ってたからな(笑 NHKラジオ講座と教科書暗唱が最強過ぎました!

ま、おかげで高校レベルでは暗唱など通用しないと分かり、フォレストと山口を通読したわけだが。未だに4と5を間違えるぐらいだけど……とりあえず、OCとOOって型があるのは分かってるぜ!

さて、遅配された郵便に方言。メタ視点とはつまり三人称。だけど、言語間において、その三人称自体に既に違いがるとしたら。日本語では時間は流れない。「私」こそが時間。英語では時間は過去に流れる。時間は時間の流れとしてそこに在る。

時間感覚がこうも違うのに、本当に西洋人は日本的な儚さだの、侘び寂びだのが理解できるのか疑わしい。「果て」という「死」が「延々と舞い続ける」ようなイメージ――これがきっと日本語的な人の夢。

対して英語的には、「果て」という「死」が「延々と遠くへ流れていく」ようなイメージ…鴨。日本語の儚さってのは、時制が繋がっているという点では英語的な完了相に近いのかもしれない。

日本語は表面と内面を即座には結び付けない。「悲しそうな顔」であり、「悲しい顔」だとちょっと違和感。英語はlook/seemなどでの印象操作はあるけど、基本的に「悲しい顔=sad face」しかない。

逆に言えば、日本語はコトバ―単語自体―にニュアンスが織り込まれている。他方、英語では、sadというコトバ―単語自体―にニュアンスはない。つまり、敢えて言うのなら「悲しい」という断定しかなく、「悲しそう、悲しげ」といったニュアンスは文脈で表現するのが英語流。

英語において、「形而上的なもの」も「見えてしまう」感覚は nothing とか i have no money とかに見れるのかも。*no money は、意味的には文否定だから語否定の例+否定=「無」の所持 としてはちょっと不適の部分もある

日本語では「見えるものしか見えない」、だけど「見えないものは見えないもの」として存在できる。だけど、英語では「見えないものは、どこにも―形而上にも形而下にも―存在できない」

無意味の無意味―意味の意味 (形而上―形而下)

「沈黙」ってのは、日本語的には「無としての無のままの無存在」だから常識的なのかもしれない。だけど、英語的には、なんの因果無しに何かが生成されるってのはない。だからこそ、沈黙という否定的な行動を原因にする事で、かろうじて語り得ぬものを語るという結果を得た苦肉の策。否定神学

日本語における人称代名詞(?)って英語で言えば指示代名詞的であり、形而下的な意味をもってる。i know that man=あの人、知ってる と i know him=彼がどういう人物であるか(人格)をしってる の違い。

母親に"Hey, you!" と呼びかける幼児。"No, Mr Lockwood"っと言えてしまうこと。これらの類似性。人格という「見えないものが見えている」――これが無冠詞の無意味であり、ゼロ冠詞の意味

つまり、「脱人格的自我の個別性」の解決法が日本語と英語とでは違うということだ。日本語は魂の存在を認める。それは個別性を失い精霊と化す。これは昇華であり、消滅ではない。英語は、「私」という形而下的な固体―物質―に固有名の代わりである人称代名詞(存在)で形而上的(脱人格的)に呼ぶことで、『私という人間』に「脱人格的自我の個別性」を与えているのではないだろうか。因果の鎖は存在の力。


無冠詞による名詞が形容詞に近づくのであれば、副詞も形容詞に近い。むしろ、名詞も副詞も動詞の変形ですらあるのでは?さらにいえば、「冠詞」などというものが付いていること自体が特殊であり、名詞も動詞も形容詞も副詞も代名詞も、無冠詞であるとすることができるのではないか。

意味の無意味―無意味の意味

ピーターセンは<「意味」の意味>を語り、大津は<「無意味」の意味>を語った。残るは、<「意味」の無意味><「無意味」の無意味>――つまりは、「見えないものを見えるものとして扱う」もしくは「見えるものが見えないものを指し示す」方法「見えないものは見えないのだからこそ意味がある」というレトリックへの可能性。

前者は、差異を創ればいくらでも可能、the united states のように。後者は、可能なのだろうかポー?
正直、英語をポモ的に認識しなおす作業が楽し過ぎて困るwww 次はイェスペルセンとチョムスキーやろな。

大津の方言に騒いでる暇あったら、ピンカーとかチョムスキーとかイェスペルセン読めよって話。w

日本語的な無意味――認識はできないが実在はしている虚無。こんなものを英語で表すのは不可能なのかもしれない。 もちろん、説明することはできるはずだが。むしろ、無意味であることに意味を見出そうとするとメタ意味になり、「ポーのレトリック問題」に移行してしまうのかもしれない。

まぁ、つまりはこういうことだ。英語では、なんでも「擬人化」する。日本語では、なんでも「萌えキャラ化」する。これは言語特性に沿った傾向だ。英語は見えないものでも見える。日本語は見えないものは見えないものとして存在できる。登場人物とキャラの違い!グゥレイトだぜ!

このように冠詞を使い分ける上で、名詞が可算か不可算かは大きなポイントなのに、最近多く見かける冠詞本の中で、この問題を正面から取り上げているのは少数派です。ところが、この少数派に属する本をこそ買うべきです。「こういう場合は、この冠詞、ああいう場合は、あの冠詞」と、よく言えば網羅的、悪く言えば行き当たりばったりのアプローチは役に立ちませんから、買う価値がありません。きちんとしたアプローチで冠詞を扱っているのは、これまで読んだ範囲では、石田秀雄著「わかりやすい英語冠詞講義」(大修館書店)と織田稔著『英語冠詞の世界」(研究社)ぐらいでしょうか。

それでは、良心的な少数派の本は何と言っているのでしょうか。上で挙げた石田本によれば「ある名詞が表象しているものを境界線によって明確に仕切られた有界的な存在として話者がとらえている場合には可算名詞の形が用いられ、他方、境界線が明白でない非有界的な存在として認識している場合には、不可算名詞の形が用いられる」のです(同書68頁)。例えば、不可算名詞の例としてよく挙げられるワインを考えた場合、もともと「境界線が明白でない非有界的な存在として認識」されているわけですから、一杯のワインを二杯に分けても観念的には同一のワインであり、逆に二杯のワインを一杯にまとめても、一緒にしてしまう前のワインと一緒になってからのワインとで区別はつかないということです。
――http://eng.alc.co.jp/newsbiz/hinata/2005/04/post_11.html

個人的には、「前方照応と後方照応は排他的ではない」っていう石田の指摘(『わかりやすい英語冠詞講義』)が、ポモ的に英語の冠詞を理解する上では、とても重要だと思う。

おすすめ英語冠詞関連書籍(a/the 違い・使い方の解説)

*1:勝手に引用させていただきました>id:finalventさん

*2:http://canopus.s31.xrea.com/modules/bwiki/index.php?%E8%8B%B1%E8%AA%9E%E5%AD%A6%E7%BF%92%2F%E7%B2%BE%E8%AA%AD%2F%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%81%A8hell%E3%81%AE%E3%82%BC%E3%83%AD%E5%86%A0%E8%A9%9E

*3:これはid:fromdusktildawnさんの発言ではなく、id:nash-bridgesの発言です(id:fromdusktildawnさんへの返信としての)

*4:これもid:fromdusktildawnさんの発言ではなく、nash_bridges@twitterの発言です(id:fromdusktildawnさんへの返信としての)

*5:勝手に引用させていただきました>id:kusamisusaさん

返信(TEMP):複数形の固有名詞化

http://cgi35.plala.or.jp/report-b/yybbs/read.cgi?mode=all&list=tree&no=3753

Kikuさんへ
>such as 以下の説明は言葉の説明と言うより、内容の説明


う〜ん…では、その説明されている「内容」とは、具体的にどの単語の内容なんでしょうか?それとも、これらの「説明」は全て既に「内容の説明」であり、単語なんかでは書かれていない「何か」を直接語らずに間接的に炙り出しているんでしょうか?

僕はas以下はareasを補足説明していると解釈しています。such A as B で、BなどといったAで、"areas=as..." となる。で、事の発端は"opt-outs"。ここが発火点のはずです。

だから、 "opt-outs/red lines/areas/as..."の4つは同義語なんですよ。同義ってことは、主語と述語で同時に使ったら反復になるってことですよね。「お湯は熱い」みたいに。

ってことは、「敢えて」説明してる。「みんな知ってるだろうけど、とりあえず説明しとくわ〜」みたいなかんじ。で、「どれを、とりあえず説明てるの?」と僕は疑問に思っているわけです。

意味で考えれば、「opt-outs/redlines/両方」それぞれの「内容を敢えて説明している」。だとすれば、どれに係っても意味の観点からは問題ない。それなら、「文の型」から考えてみる。文の型なら「違い」が見つけられるかもしれない。

僕は、ここに定冠詞でみられるようは「照応の重なり」――「前方・後方照応は排他的でない」ってルールというか、まぁ、フツーに考えれば言葉という記号が当たり前に備えているはずの機能が見えるような気がします。

本当に、英語の全名詞が「そんな機能」を備え得るのかは知りません。が、まぁ、できなきゃ不便だろうし。前後が排他的でないのなら、言語外照応だって同様の事が言えるだろうし。そもそも照応の三方向を完全に分けることに意味があるのかも微妙って気がします。その路線で考えれば、限定詞は冠詞だけじゃないし。


Tadさんへ
>ご指摘の通りこれは非制限用法です。カンマ+〜ingが関係代名詞で置き換えられる場合は全て非制限用法だと思います。


いえ、僕の方が酷い間違いばかりしてますし…。^^;


>opt-outはたぶんEUの中で使われている特別なtermsだと思います。一般的なものではないのでより一般的なred linesという言葉で説明した


はい。EU内部でのジャーゴンって可能性は高いですね。でも、ジャーゴンであり「一般的なものではない」ってことは、「新情報」として扱われるべきってことになるのではないかと思うんですよね。つまり、修飾を引きつける力がある。

僕自身、この話題には疎いので確かなことは言えません。が、「red lines の方がより一般的」ってのは確定っぽいですね。ってことは、red lines は「旧情報」かつ「言語外照応」になり、修飾を引きつける力は弱くなる。また、言語外照応であるのならば、複数形のもつ「不定性」は弱められ、既に固有名詞と同等の「指示語」でしかない。つまりは、「無意味」であり、制限用法を使うことは無いはず。

だから、非制限用法なら、たしかにred linesも有り得ると思うんですが……。


Takaさんへ
>確かに、or redlinesもallegedly safeguarding以下もopt-outsを明確にする為の補足説明のように読めます


それを言うなら、「or redlinesにallegedly safeguarding以下が係って、連鎖的にopt-outsに係る」でもOKなんですよね。だから、「意味が通る」では理由になり得ないんですよ。

だから、Takaさんも補足しているけど、red lines の後ろに置かれたカンマの「文法上の役割」をはっきりさせれば、少しは答えに近づくだろうと踏んでるわけです。で、Tadさんの仰るように、「safeguarding... は red lines を非制限用法的に修飾する」という路線から考えれば、is のままでも「倒置」とすればいいのではないか?とか思ったりもしたわけです。

で、inのミスプリだろうって話になって。それなら「opt-outsへの制限用法的な修飾+挿入」の方が綺麗な型なんじゃないのか?って話になるわけです。

逆に、red lines が係り先とするなら、非制限用法的に追叙しないと「or や so-called の機能」と矛盾しないかって気がするんですよね。だから、制限用法的に "red lines safegurading..."とする線はボツ。


(オフトピ:でも、個人的には so called があるからといって即座に「より一般的」とは言いきれないと思うんですよね。だって、わざと新情報を so called で呼び出すレトリックかもしれないし。それなら制限用法だってアリ。というか、そもそも定冠詞では成り立つような「新情報レトリック」(前のポーのやつで言えば「共犯関係」)が不定冠詞・複数形、さらには抽象度が上がって固有名詞的ですらある状態でも、それが可能なのか。つまりは、「新情報を旧情報的に扱うレトリックは定冠詞の専売特許なのではないか?」という問題もあるし…以前のポーのやつから続いているオフトピです。^^;)


他方、テンポの問題や、既知の情報である red lines に新情報を重ねるのなら非制限用法で"red lines, which is/are safeguaring..."ってすればいいのに、何故かしてない。見た目が悪いからでしょうか?


繰り返しになるけど、「"safeguarding..."が"red lines"に係る」とするならば、「非制限用法的に red lines を修飾している」と解釈しないとおかしい。これは辞書に「safegurad以下」と同じ意味が定義として載っているくらいなのだから、更に同様の意味で二重に説明するのは変です。「お湯は熱い」と言っているようなものに思えます。

ということは、辞書のように、「敢えて説明している」はずです。ならば、「opt-outs/red lines/両方」のどれかひとつが修飾先である、と。「敢えて」であるのならば、読み手が辞書の意味を知っていようが知っていまいが関係ないですね。更に言えば、これらの単語がどんな意味を持っていようが、またはいずれの意味を持っていなくても、書き手の説明で意味はしっかりと伝えることができる。

そういった意味で、僕は「辞書で意味を調べてもしょうがない」と言いました。要は、書き手がどんな意味で使っているかって話です。で、僕は "opt-outs"だと解釈してます。

なぜなら――

1. <「, or so called red lines,」は単純な挿入句であり、「by special "opt-outs" allegedly safeguarding...」 が主節である>


とする構文解釈は、


2-1.「カンマだけで非制限用法的つまりは『red lines を換言する or』として働く」

2-2.「red lines を説明する意図とテンポ的な問題でわざわざカンマを置いた」

3.「換言のor以降の要素は『重囲接続詞?』みたいに、接続詞or以前の部分に係ることはできない、というようなルールがある」


というような解釈より、余計なルールを考慮せずに済む分、文の型が整っているからです。


また、「換言された言葉を修飾して情報密度を徐々に上げる」(=red linesに係る)というような「連鎖」の方が、「換言された言葉と換言する言葉」(=両方)を同時に修飾するパターンより論理的であると思います。で、連鎖の方は既に否定されてる。(僕の中では)

以上の2つの理由から、「red lines/両方」に係るとするより、「opt-outs」に係ると解釈しました。もちろん、so called が既出の情報を呼び出す言葉であり、普通に考えれば、red lines の方が一般的であることも考慮するべきだと思います。


さらに言えば、<「opt-outs/red lines」のどちらに"safeguarding..,"が係るかを考える意味があるのか>という問題以前に、「どちらに係っているかを判別することは、そもそも可能なのか」という問題があります。文によっては、文法で明確に分解・分類することに意味が無いような場合があるので。(たとえば、分詞構文とか動名詞・分詞の問題など。)

今回の場合、「判別可能である」と僕は考えています。まず、「opt-outs/red lines」ともに辞書に載る程度には普遍性がある単語であり、一般名詞(?)の複数形なのだから既に固有名詞的である。

ならば、僕がさっきから言っているように、これらの単語を"safeguarding..."で修飾するのは反復になってしまうと言えます。( "I like my favorite games."なんて言いませんよ。)

現に、これらの二つの単語に「定冠詞」はついていません。つまり、特別な意味は生じておらず、「完結以上」の「複数形」で、無冠詞的な「無意味」として機能しているに過ぎない「符牒」になるはずです。

しかしながら、opt-outs にはquotationsがあり、「"opt-outs"となっています。つまり、「カッコがある」ということは、「意味が辞書通りじゃない」ってわけです。さすがに、僕のように見やすさや強調目的(というか気分)で、引用符をジャーナリストが使うことはないと思います。

また、引用符には、so-calledと同じ働きもあるようですが、specialで限定された時点で既に新情報であり追加説明が必要。または、非排他的に新旧情報が重なっているとできるかもしれません。(こういった「重なり」が定冠詞以外の限定詞などで可能なのかは分かりませんが。)


逆に、"pot-outs"と so called red lines が同等の一般性(新規性)を持っているとどうなるか。文の流れは左から右。つまり、 or so called red lines は "opt-outs" を「修飾してしまっている」わけです。この時点で、「同等の一般性」がたとえあったとしても、既に同等とは言えないはずです。

ここでつけられた「差」をどう解釈するかですよね。opt-outs にはもっと修飾が必要なのか。はたまた、red lines を非制限用法で補足説明するだけで十分なのか。


個人的には、そもそも "red lines, safeguearing..." が「カンマ+〜ingが関係代名詞で置き換えられる場合」なのかがアヤシイと思っているんですよ。

僕のヘッポコ英語暦を参照しても、そーいう例が思い浮かばないんですよね。だけど、「カンマ+〜ingが関係代名詞で置き換えられる」ってのは、便利な書き方ですよね。できないと不便だし、できるっぽいですよね、論理的には。この例で、", which"を使うのは「重い」って感じですし。(なんとなくですけど

ここまでの話を総合すると、「by special "opt-outs" safeguarding ...」とするのは妥当であると考えているんですよ。


逆に、「カンマ+〜ingが関係代名詞で置き換えられる」ならば、「red lines, safeguarding..」って可能性もありますね。ただ、この場合は、旧情報を補足することになってしまうんですよね。まぁ、「補足」が必要だと書き手が思っている時点で、既に純然たる旧情報とは言えないのだから、半分は新情報的でもあるってかんじですか。

この辺は、定冠詞のにおける前方照応と後方照応が排他的でない以上、同様の限定詞においても言語外照応と後方照応は排他的ではないとしていいはず。結局、照応も情報の新旧も完全に排他的である必要は無いってだけの話ですね。

このことへの追加説明として、換言の「or」がどれくらい文を切断してしまうか知ることができればいいですね。これが分かれば、同様の型・同様の抽象度をもつパターンでの修飾先の操作ができますね。意外と、換言で使われる場合は切断されてしまうのかも。

そう考えれば、そもそも「A, or B, A'」というような型(制限用法的な修飾関係の真中に換言が挿入)がよくある型なのかってのも考えないといけないですね。


TODO:カンマの非制限用法的な使い方&換言の挿入と修飾先の関係の調査ってかんじですか。

http://cgi35.plala.or.jp/report-b/yybbs/read.cgi?mode=all&list=tree&no=3753