ポストモダニストなら理解できてしまう英語冠詞文法のパラダイム

冠詞用法(aとtheの使い方)をプログラミング言語の文法で比喩

冠詞を付けない場合 - クラス/構造体自体
I like books.
これはbookクラス自体を指しているのではなく、bookクラスを複数保持するbooksコレクションクラスを指しているため、本一般のことを指します。

これは面白い喩え。構造というか抽象化される部分も「複数形」にはある。『英語冠詞事典』で言えば「完結以上」。ポモに言えば形而下的でもあり形而上的でもある。だが、「(広義の意味で)総称用法(的なもの)」は book / a book / books / the book / the books のどれでも成り立ってしまうのが困りもの。そう考えると、「aとtheの違い」だけでなく、「aとtheの同じ部分」も文法的に理解しないと大変だね。

冠詞用法(aとtheの使い方)をクラスとインスタンスで比喩

テーマのaとtheの使い分けだが、これは、OOP(Object Oriented Programming)で言うと、aがクラス(class)でtheがインスタンス(instance)だ。Flashだと、aがシンボル(symbol)。説明になってない? ちょっと違う面もある。が、とりあえず冠詞なしのdogがクラスに近い。
 このdogクラスからできたa dogや複数形のdogsがインスタンスともいえるのだが、インスタンスはID(identification)管理するから、できるのはa dogとかじゃなくて、「ハチ公」とか「ポチ」とかだ。名前が付いている。こいつらがthe dogである。theが付くのがインスタンスだ。
 HTMLだと、クラスからの継承(inheritance)という関係ではないのだが、aはclass指定、theはid指定に近い感じ。また、余談だが、HTML要素の属性であるclassやidはCSS(Cascading Style Sheet)のためにあるのではなく、あくまでHTMLの論理構造指定の補足のため。よく「論理構造はHTMLで指定し、見栄えはCSSで指定せよ」と言われる。が、CSSのためにclass指定やid指定するのは本来なら邪道じゃないか? でも、そういう指摘はあまり見かけない。もっとも論理構造とか言うならHTMLではなく最初からXMLCSSを使えばいい。が、歴史的な背景からHTMLやHTMLからできたXHTMLを使っている。理想なんかより、歴史的な理由があるのというのが現実というものだ。
 話を戻す。aとtheの違いは、aはクラス的なものを示すのに対して、theはIDに対応している。っていうことは、「theが付く名詞には固有名が付くのだけど、それがわかんないから、仮にtheを付けておくよ〜ん」という含みがある。

1. book class の instance が a book/ books と考えられる一面と、


<定冠詞の、「同定」>という二つ目のキーポイントを考慮して:

2. book class の instance が the book / the books とする面。


強引に纏めると "function book {} / $a_book = book(); / book() = the"

ッてカンジかな。定冠詞には「記号の記号」というメタ意味な部分もあると僕は思う(放言

英語冠詞の唯名観:a 不定冠詞の存在―the 定冠詞の認識

更に言えば、「the がつく名詞」=「同定可能」という「共通認識が可能」なものだけが「固有名」を「持ち得る」ことになる。つまり、英語の唯名感であり、「形而下で認識できるものしか形而上では存在できない」という『英語の感覚』で大津栄一郎が提示した英語理解に繋がる。と、思う。*1


「a」ってのは「ひとつである」のだけれども「任意」でも「ある」。「個別」であるのに「代替可能」という《意味》。

「the」ってのも「ひとつである」のだけれども「固有」でも「ある」。「固有」であるのだから「代替不可能」という《意味》。

不定冠詞「a」は「存在」であり、定冠詞「the」は「認識」。表されるコトバが「形而上的な概念」であれ「形而下的な物質」であれ、いずれにせよ、『冠詞』の持つ《意味》に内包されている。コトバは「差異の体系」であり、「存在」には≪影≫が付き纏う――そうだからこそ「認識」可能。『冠詞』という《意味》を見極めるには、≪影≫を踏めばいい。

英語冠詞の固有名と定冠詞the

大文字、すなわち固有名詞になっている場合にはtheはつけない。これは the internet と Internet の場合も同様です。これは、プログラマー的な理解にも合致します。theはいわば「固有化オペレーター」なので、すでに固有化されているものに二重にかける必要はない、というわけ。

この喩えも面白いな。つまり、「無意味」から「無意味」は派生しないってことだ。固有名詞を更に固有名詞化することは不可能。

定冠詞(the)と無冠詞(φ)の両者が表す「唯一」の違いは、<「認識論」と「存在論」>・<「共有」と「固有」>というように「同定」のさせ方が違うのかも。

無冠詞(ゼロ冠詞)から冠詞を取ることは可能か?

僕は最近、「"Internet"を"the Internet"と書き換えることへの可能性」を模索している。つまり、英語は、「無意味を無意味のまま」として―「説明はできるが翻訳はできないもの」どころか「説明すらできないもの」として―表現できるのか?という疑問。

一言で言い直せば、「無冠詞から、更にゼロ冠詞をも取る方法」。もしくは同等の効果を得るために「無意味を無意味のままで意味化」―定冠詞による同定―とかとか。たぶん、後者の「定冠詞で意味化する」しかないと思っている。哲学系の話を英語で読めば色々と確認できそうだ。

(*なんでこんなことを考えているのかと言うと、ここが英語の限界くさいから。つまりは、論理的脱構築wを狙うことで英語冠詞への理解が深まる気がするんだ。つまり、realism でも、観念論の対としての認識論的実在論ではなく、唯名論の対としての論理的実在論の方面からのアタックなのか?←自分の言ってることをあまり分かってないwww)

無冠詞(ゼロ冠詞)を定冠詞のように使うメタレトリック用法?

もうひとつは、逆から攻めて、『無意味であるからこそ意味がある』という修辞として――つまりは、"the Internet"もしくは"the the United States"という意味として"the United States"を使うメタレトリックは可能なのか?既に固有名詞化されているものを―存在してしまっている形而上概念を―逆手に取って利用するような修辞法はあるのか?(詳しくは下記の「http://canopus.s31.xrea.com/modules/bwiki/?%E8%8B%B1%E8%AA%9E%E5%AD%A6%E7%BF%92%2F%E7%B2%BE%E8%AA%AD%2F%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%81%A8hell%E3%81%AE%E3%82%BC%E3%83%AD%E5%86%A0%E8%A9%9E関連エントリー

(*これは、英語的なホノメカシ方なんじゃないかって気がして考えてる。)

冠詞と名詞と固有名詞化:総称用法・総括用法

ちなみに、前述の「総称」5パターンだが、あれは全部、「固有名詞化してる」って点では共通してるんだよ。無冠詞―つまりはゼロ冠詞が付いてる―だから抽象とか、有冠詞―冠詞が付いている―だから具体とは言えないんだな。

ピーターセンも言ってるけどさ。冠詞が付いたままでも固有名詞化・符牒化・無意味化は可能なんだよ。(たぶん…

例としては最近の英語同好会BBSでの "red lines" という複数形の固有名詞化(だと僕は思う)がある:「http://cgi35.plala.or.jp/report-b/yybbs/read.cgi?mode=all&list=tree&no=3753」 (ちなみにGilderoy=id:nash-bridges

そうなると、「aとtheの違い」ってのは「aとthe」の本体を見れば違う形をしているが、「本体の作る影」は同じ形をしている。もしくは、「aとthe」は同じことを違うようにしているだけ。――というような側面・一面もあるようだ。

英語冠詞とは共時的な意味論のパラダイム

換言すれば、定冠詞は認識論的。無冠詞は存在論的。不定冠詞(複数形)は形而下的。そして、これらが固有名詞化されると、ハイデガー的な意味で実存的になる。ここに学校英文法的な「抽象―具体」軸を重ね合わせると、冠詞のグラデーションを単純に理解することができる…はず。つまり、『意味論的』な側面と『構造的な側面』のサンドイッチで英語冠詞を理解するってことだな。ま、詳しくは以下で紹介する書籍かエントリーを読んで欲しい。正直、僕自身が勉強中なので全く纏まっていないし、矛盾するところもあるかもしれないし、そもそも放言。

英語冠詞の用法を理解できるようになるオススメ本の紹介

英語冠詞と英文法を相関させて学ぶ おすすめ英語新書
    1. 日本人の英語 (岩波新書)』…マーク・ピーターセンの無自覚な認識論。だが、彼も所詮はネイティブのパラダイムに捕らえられている囚人だったわけだね。
      • 『日本人の英語』で展開されたマーク・ピーターセンの主張:「意図」こそが冠詞の有無を決める――意味の意味。
    2. 英語の感覚〈上〉 (岩波新書)』…日本語と英語の違い(放言)。マーク・ピーターセンが『日本人の英語』で前提としてたもの、さらにその《先》へ。
      • 「意図」に英語的な世界観があることを暴露。形而上に、認識できないものは存在しえない。むしろ、認識できるからこそ形而上に存在できる。<「認識できないものは、どこにも存在しない」のだから「見えないものも見える」>ってのが英語の感覚であり、ピーターセンが前提としてすっ飛ばしてたところ。他方で、日本語は「認識できないものも、認識できない物自体として客観的に自律した存在(見えないもの)として実在できる」――無意味の無意味。
    3. 英語の感覚〈下〉 (岩波新書)』…東浩紀動物化するポモ』・『郵便本』なんかを読むような人で、ピーターセンの初心者向け向け解説なんかじゃ、ぜんぜん物足りない!!!!と、思っている人には『英語の感覚』が蝶オススメ!

ちなみに、大津栄一郎の話はエッセイレベルであり、実証性はない。ただ、ピーターセンの冠詞観は、「書き手の認識」を前面に押し出しているが、それを学校で英語をしっかりと習ってきた人間がちゃんと「書き手にとっての」として読めるのか、「情報の認識」のレベルで理解が留まってしまうのではないか。むしろ、トンデモレベルの話であっても、大津栄一郎のように存在論方面(?)も意識した方が、ピーターセンの見方―「実際にその情報が新しい旧い」ではなく、「そのように書き手が見なしている」―がよく分かり、よく分かるゆえに冠詞を選ぶ「指針」としてはイマイチ役に立たないと思えるようになるのではないか、とか個人的な経験に即して思ったりも。

「a,the,ゼロ冠詞の有無は文脈が全て」と、ピーターセンは『日本人の英語』で言った。だが、これには「まだ《先》が在る」。彼は、その《先》を語らない事で《先にある認識論的なパラダイム》――つまりは、冠詞をポストモダン的に理解できる可能性を示唆した。

大津栄一郎は、ピーターセンが『日本人の英語』で語らなかった《先》を『英語の感覚』で語ってくれた。でも、それでも、まだまだ足りない――≪もっと先≫があるはずだ。英語という言語が、大津の言うようにコンラッドナボコフを産んでしまうほどの〈世界最強〉ならば、さらに拡張できてしまうはず。語り得ないものを、認識する事すらできない虚無を、意味の欠如としての完全な無意味を、無存在であり純潔な無としての絶無を。それを表し得るのは無冠詞だけではなく有冠詞でもあれるはず。ピーターセンが概念を作り、大津が理論を立てたとするなら、技術に落とし込む余地がまだある。大津が導入した時間軸。これに談話文法を重ね合わせれば倒置と文末焦点の一見矛盾する関係―つまりは情報構造―が文脈からすればなんら矛盾してないということ。

英語冠詞の付け方・冠詞用法(aとtheの違い)をポストモダン的学ぶ冠詞解説書籍のオススメ

こういった一般論における使い分けについて、Geoffrey BroughtonはPenguin English Grammar A-Z for Advanced Studentsで、冠詞ナシ+不可算名詞は、その名詞が表すカテゴリーを不可分一体のものと扱い、冠詞ナシ+可算名詞はその名詞が表すカテゴリーに属するもののすべてを表すとした上で、To be safe, use a plural count noun or a non-count noun when speaking generally.(安全を期するなら、一般的な話をするときは、可算名詞の複数形か不可算名詞を使うべきだ)としていますし、また、Mark NettleとDiana HopkinsのDeveloping Grammar in Context (Cambridge University Press)も、To talk generally about something, we use no article + pllural / uncountable noun.(何かについて一般的な話をするときは、冠詞ナシ+複数形/不可算名詞を使う)としています。
――http://tottocobkhinata.cocolog-nifty.com/bizieizakkicho/2005/05/post_ff59.html

結局、英語冠詞(a/the)の使い方の説明になってなくて悪い

だけど、弾さん達*2の比喩のおかげで、僕は自分の考えていることを更に言語化することができた。ありがとう、オジサマ!(多謝

冠詞・制限・非制限・旧情報・新情報・クラインの壷相転移・反転・無意味・意味

定冠詞 the 認識論 2つで1つのルール

第三に、the basement level of this building のように限定句で絞られているときも、モノ・コトが特定しており、相手もわかっているケースに該当するので、定冠詞が必要です。第四に、共通の理解があるときも、「モノ・コトが特定しており、相手もわかっている」ということで定冠詞を入れます。例えば、来日したお客さんが迎えに来てくれた人との雑談で、「ホテルに着いたら、きっと本社からいろんなメッセージが入っていますよ」というケースを考えた場合、そこでの「ホテル」は、「とあるホテル」の話ではなく、予約が入っており、今晩泊まる予定の「あのホテル」に決まっていますから、「モノ・コトが特定しており、相手もわかっている」わけで、定冠詞をつけます。
――http://eng.alc.co.jp/newsbiz/hinata/2007/09/post_404.html

勝手に引用を強調させてもらったが、定冠詞theを使うためには2つの条件が必要だというわけだ。いや、ひとつだ――相互に存在を既知として認識している。これがtheという定冠詞がもつ同定の力。

定冠詞(the)不定冠詞(a/an)―関係詞:旧情報->新情報の談話

We weighed several samples, and we analyzed the sample that had the highest density.
(引用補記:定冠詞×関係詞=新情報
(いくつかのサンプルを計量して,密度の最も高いサンプルを分析した。)

We took a sample of the substance. Later, we analyzed the sample, which had a reddish color.
(引用補記:定冠詞=旧情報+関係詞=新情報
(物質のサンプルを採った。その後,赤みを帯びていたそのサンプルを分析した。)

  ここでは,サンプルが一つしかないから,which had a reddish color という関係節はその意味を制限しているのではない。そのサンプルについての情報を付け加えているだけなのだ。
  一方,制限用法では名詞と関係節の間にカンマを使わないで,関係詞はthat または which にする。非制限用法では, that が不可で,カンマと which を使う(関係節の文法はもっと複雑だが,ここでは詳細を省略する)。
――冠詞と関係節 - 科学英語を考える - 東京大学 大学院理学系研究科・理学部

大津が言うに、英語はエンドレスである。そのエンドレスがどのように談話を成しているか。そのヒントがここにある。掛け算による「追叙」か、足し算による「追叙」か。

前者が無意味と無意味からの創造であり、後者が無意味に意味を付加する敷衍。

結局、制限用法も非制限用法も「追叙」であり、時間が飛んでいることに変わりは無いわけだ。

定冠詞の付く名詞【先行詞】― 関係詞のつくる【節】 を繋ぐ クラインの管

さて,ここで興味深いのは,関係節で修飾されている名詞は読者に知られているかどうかという問題だ。

最初の例では,読者が制限的なthe sample that had the highest density を読むときに,「密度の最も高いサンプル」の存在を初めて知る。そのサンプルのことは新しい情報で,今まで読者に知られていなかったのだ。

一方,非制限的な the sample, which had a reddish color では,そのサンプルが前のセンテンスでも言及されているから既に読者に知られている古い情報なわけだ。

このように,「制限用法=相手に知られていない」「非制限用法=相手に知られている」という傾向が強い。このシリーズを読んできた人はもう気がついていると思うが,この関係節の用法は冠詞の用法とかなり近い。というのは, the sample that had the highest density は不定冠詞の a sample と同じように,読者がどのサンプルなのかわからないことを指している。一方, the sample, which had a reddish color は定冠詞の the sample のように,読者に既に知られている,という意味だ。
――冠詞と関係節 - 科学英語を考える - 東京大学 大学院理学系研究科・理学部

ここは談話文法を前面に出せば、もっとスマートに説明できるのにな。まぁ、結果は、そういう傾向になる。にしても、英語構文を意味論的にネイティブの視点から分析してくれるトム・ガリーのインテリジェンスに感動した!ピーターセンの否定神学流韜晦放言とは大違いだぜ!ガリーの新書の出版マダー?

固有名は述語になれない:既知の先行詞は固有名詞化・符牒化し無意味になる

  「相手に知られているか」、「相手に知られていないか」という違いは,冠詞だけでなく関係節にも深い関わりがあるわけだ。それだけではない。「相手に知られている」という分類には, my book などの所有格も,Japan,Ms. Suzuki などの固有名詞も入っている。これらは,定冠詞が付いている the book や the country, the woman と同じように機能する。例えば, 次の例のように, Japan が関係節で修飾されているときには,非限定用法を用いるのが普通である。
――冠詞と関係節 - 科学英語を考える - 東京大学 大学院理学系研究科・理学部

たぶん、"[the/a/φ] 名詞(A) 前置詞/関係詞 [the/a/φ] 名詞(B)" という型で、Aにはtheが付きやすい。特にofの場合。これは記述文法的にもそうなるらしい。*3逆に言えば、「"the A ..." が使えてしまうような状況では、"the A of B"が往々にして必然の選択になる」とも言えるのだろう。ピーターセンも「限定の度合い」と「冠詞の有無」について『日本人の英語』で言及してたしな。

*(ただ、ピーターセンの「ABとなる場合は、限定が弱くて定冠詞のtheはつかない」という主張も、統辞的なルールであり、ABがCBと対比されるような談話の流れさえあれば、定冠詞theを付けること自体は可能だと僕は理解している。まぁ、イェスペルセンのいうところの「形容詞化」に通じる感覚なんだろうとも思う。)


関係詞が間にある場合は、「新情報かつ照応可能」って条件で"the A which ..."になりそう。むしろ、そんな条件すらも必要無いのか。全ての新情報は照応可能――つまりは認識可能。なぜなら、認識できないモノは形而下の前駆である形而上に存在できないのだから。


<「相手に知られているか」、「相手に知られていないか」>というのは、<新情報―旧情報>の軸と重なるのだろうか?<不定冠詞―定冠詞>とも重なる部分がある。<存在―認識>だと少しズレてる感じだ。myは人称代名詞の所有格。つまりは固有代名詞とも言えよう、大津的には。この固有代名詞は形而下だけでなく、既に形而上の人格へ侵犯している。Japanも同様だ。

だが、このネイティブの解釈だと

「知られている」
  =<「固有名詞」=「共有已然」=「無冠詞φ」>
  =定冠詞
  =「旧情報」

になるんだよな。定冠詞が新旧両方に使用される……うーん、捻れたぞ…。いや、捻れてないか。定冠詞が固有名詞化のレベルまで突き抜ければ―認識から存在へ相転移すれば―等号で結べる、無意味として。ビバ!非排他性!!!

つまり、定冠詞のtheが非排他的に旧情報と新情報を繋げられるケースってのうは、定冠詞のついた名詞が固有名詞化しているってことだ。要は、存在だけが問題になり、狂言回しになる。

どうも、このネイティブ先生の意味では、

「知られていない」
  =「共有未然(認識可能)」
  =「不定(冠詞・代名詞))」
  =「新情報」

ってかんじだ。これは、とてもネイティブ的な唯名観だ、大津的に。「認識が存在に先立つ」ってやつっすね(違 なかなか興味深い。

「定冠詞に二面性」があるというよりは、「新情報に二面性がある」と捉えるべきか。無意味の新情報は不定冠詞。意味の新情報―つまりは旧情報から創発した新しい新情報―は定冠詞。


そう、「知られている」の部分に「定冠詞」の「(石田秀雄が言う)照応における非排他性」の部分が明示化されていない気がするんだな。新情報であり旧情報。新情報が発言された瞬間に旧情報として同定されてしまう反転現象――。一度、言葉によって切り抜かれた意味が、さらに切り抜かれ直すことで旧きを訪ね、新しきを知る。――存在と認識が織り成す実存、みたいな。


どうも冠詞ってのもクラインの壷モデルで攻めないとキツイ部分がある気がする。もしくは、3・4つの二項対立軸を重ね合わせて炙り出す方向か。


ところで、考えてみれば、付加疑問文も使用状況を考えれば非制限用法と言えるな。大津栄一郎的なパラダイムに沿った挙動だな。善哉善哉。

英語冠詞と伝統文法(学校英文法)と意味論的解釈

「theは特定のものを表す」――と、僕らは習う。でも、僕が今もっているシャーペンだって「特定のもの」だ。むしろ、僕にとっては「特別なもの」でもあり、「交換可能」であっても「大事なもの」でもある。

つまり、僕達は英文法や英語冠詞の「意味」を学んでいるようで、実は「分類の仕方」を学んでいるだけだったのではないだろうか。僕達は「英語という言葉」を学習しているようで、実は「英文法という規則」を学習しているだけだったのではないだろうか。

「赤信号がついている」―theがついている―のは、なぜですか?「赤信号はトマレを表しているから」―theは特定のものを表しているから―。

たしかに、これは赤信号の定義であり、赤信号の意味するところのものだ。しかし、本当にそうだろうか?

なにも、赤信号が本当に赤いのか。もしくは、青信号との比較がなければ赤信号と言えない。とか、言うつもりは無い。

存在論的な疑問」「認識論的な疑問」ではなく、「なぜそのような意味が成り立っているのか」。赤信号という「意味」の『意味』。英文法や冠詞への「意味論的な疑問」

学校文法に足りないのは、自身への「意味論的な解釈」なんじゃないかなって思う。部分的にコーパスな記述文法を活かす援用パッチワークも良いと思うけどね。なんかなぁ〜。もうちっと根性みせて欲しいわ、「伝統」ってやつには。文法の「説明」だけでなく、その文法が適応された英文の「意味するところのもの」の解説も欲しいな、ただし自前で!

*1:因みに、この「無意味から意味の派生」というポストモダン創発視点は大津だけではなく、-『例解 現代英語冠詞事典』の樋口&ゴーマン『英文解釈教室』の伊藤和夫『思考訓練の場としての英文解釈』の多田正行『山口英文法講義の実況中継』の山口俊治に共通するパラダイム。ま、明確に「統一理論」を提示したのは大津だけだけどな!多田もけっこう頑張ったけど、厨二病な演説が冗長過ぎたwww

*2:最初のエントリーの方のお名前が分からないので、複数形で^^;

*3:出典:PEU