仮定法し〈イェスペルセン・ブレイカー〉――その現在をぶちす!

英語の動詞には未来形はない: 極東ブログ
わたくし上条当麻はハテナ村一の以下略。


そんなこんなで、"I thought I would help him when he does his homework later." は仮定法とは関係ないと(して実用上は問題ない程度には十全に他の方法で説明できると)思うのです。KGVさんの「大抵は〜」以前の部分だけは確実に同意です。通常、仮定法現在は「動詞の原形」のはず。(だから、仮定法と言いたいのなら「does」ではなく「do」でないとダメ、ゼッタイ。な感じだけど、とりあえず方法的スルーみたいな。)

これは単に「時制の一致」の問題で、"I think I will help him when he does his homework later."の主節を過去へずらし、なおかつ条件節が「発話時点において未だに『未来』」だった、ゆえに条件節だけ時制が変化せず、現在形で「過去においても、発話時点においても未来」な未来を表す。って話なのかな、と思います。ロイヤルレベルの英文法書なら、補足事項あたりに載ってそうです。


また、"I think I will help him when he does his homework later."を全部過去へ移すなら、"I thought I would help him when he did his homework later."でOKだと思う。「過去における未来」は、「発話時点において既に『過去』」だった、ゆえに条件節も過去形に時制が変化し、過去形で「過去における未来であり、発話時点における過去」を表す、と。

(『Practical English Usage』等の英文法書が拠っている)記述文法では「時制の簡略化(Tense Simplification)」―主節で未来の話と分かるから従属節では省略―で「現在形で未来の内容を表すこと」を説明するよう。となれば、「主節が未来の内容でない」ときは、「副詞節も未来の助動詞などを使って未来の内容を表す」として、こっちのケースも説明できる。


それと、有川清八郎がなんとなく副島隆彦くさくトンデモじゃね?というのは分かるのだけど、思うに、「有川清八郎の問題意識」は「条件節の分類」で解決できるから、ここで「有川版 仮定法現在」というのを新たに持ち出す必要はないと思うんですよね。

つまり、「開放条件」と「仮定条件」で説明できちゃう*1と思うんです。この辺、学校英語では「副詞節・名詞節・形容詞節で未来の内容をどのように表すのか」、それにプラスして「時制の一致が、これらの節ではどのように処理されるのか」という風に、<直説法―仮定法>とは別ラインで微妙に交差しつつもパラレルな感じで学習することになっている気がします。

これって要は副詞が文の要素でないから特別扱いみたいなかんじで、英文法におけるイェスペルセン的なネクサス原理の理解とか形容詞化の方向で考えると、ちょっとキモチワルイ部分とかもあるんじゃないかなーとは思ったりもしますが、僕もよく分かりません。なんなんでしょうね、副詞って。



ここで再度脱線するが、日本語を英語に翻訳できる外国人ってなんなんですかね。more importantly, たまに仮定法に訳し間違えているようなときもあるけど、案外、間違ってないのかなー。仮定法の感覚かー。ここもなー、あんま語ってくれないんだよなー、翻訳業の人たちも。

いや、逆か、「もし〜なことがあれば……」という仮定のもつ修辞上の意味。これは当然、「そんな事態は起こっては困る」になるはず。その点では、意味から考えれば,"if you -ed, ..."という風に仮定法へと訳出されるはず。

でもこの感覚って、日本語にはないんじゃないだろうか。日本語的には、それは「仮定の世界」でありながら「非現実ではない」、ような。英語では非現実ならば仮定の世界。ちょっと違うな。

そうじゃなくて、<直接法の延長にある非現実>と「仮定法の延長にある非現実」の違いみたいな。英語の直接法は演繹なんだろうなー。でも日本語の直接法って帰納じゃね?というような違和感というか。ただの英語力不足なのか。



さて元の流れに戻り、他方に残った「finalventさんの問題意識(と、僕が読み取った)」なのですけど――

現代言語学は嫌う説明だが、英語には言語システム上未来時制がないために、その表現のなかに話者の意識のありようが反映してしまうというのだ。逆に言えば、英語という言語はそれだけ、話者の意識を問うとも言えるだろう。

イェスペルセンがすばらしいと驚嘆するのは、このあたりの言語に対する直感だ。つまり、言語システムとしては(これをラングと言っていいのだろうけど)、未来形に準じるかたちで、willを形式的に使いたいという話者の制度的な無意識を想定しているのだ。が、これが実際の発話(パロールと言っていいだろう)によって、つねに揺り返される。だから、英語には、want, intend, mean, chooseと言った表現が、むしろ言語の運用(パロール)側から言語の組織(ラング)を変動させる要因になりうる…ま、言語学的にはそういう要因はありえないことになっているのだが。」

このあたりは、やはり「時制の簡略化」とか、「仮定法に時制が引っ張られるケース」とか、そっちの方面で「話者の意識」が顕れるんじゃないかなーとか思ったりも。もしくは冠詞とかね。または懸垂分詞とか挿入とか。僕はイシグロの文章を読んで面食らった記憶がありますね。


ところで、冠詞の方は、「冠詞が原理的に表現し得ないこと」と「表現したいこと」とのギャップから冠詞の使い方に変化が出たのでは?みたいな話はあるんだろうか?個人的には、エドガー・アラン・ポーの"Tell-tale Heart"にゼロ冠詞の文法規則を修辞的に逆手利用](エグイ使い方:「定冠詞でだけ同定ができる」ならば「それ以外では同定できない可能性がある」そして、「あなた方は私と同定できてはマズイでしょ?(ここで2段階目へ突入であり、「heaven/hellの二項関係」を更に冠詞に絡めてホノメカシ)*2」みたいな使い方であるような気がする箇所)を発見したような気がする……。(99%誤読幻想御手


あと、この辺の時制操作は、「過去形―過去形」というように「従属節―主節」が連鎖すると因果関係を示せ、「過去完了形―過去形」と連鎖するとただの連続を示せる――というような違いにも似てる気がしますね。

つまり、これを未来へずらせば、I will give you $10 if you stop smoking. <-> I will give you $10 if it will help you to go shopping. というような「条件/結果」の違いを含意できるというような。

といっても、この辺は学校文法の伝家の宝刀「五文型」を意味論的に解釈するというだけで、別段更に上級(?)なネイティブスピーカーの(英文法に対する)英語感覚というわけでもないのだろう。


いずれにせよ、さて、どうでしょう。ウッヒャーこいつトンデモやー!とバッサリ斬らずに、とりあえずトンデモだろうがナンだろうが、その「問題意識」は余すとこなく汲んで解決してやろうじゃんかYO!な勢いで書いてみました。素人ながらね。(だけどドー考えても釈迦に説法だとしか思えない、にもかかわらず訂正もされてない、ということは別の何かを読み落としている、のではないか?という疑問がね!)

まったく関係ないが、はてなの技術力って。。。

htmlspecialcharsなのかサニタイズ言うな!なのか、うはー、ダセーですよね。

*1:この2つの条件がもつリアリティーというか、形而上空間も、英語の感覚と日本語の感覚とではズレがあるんじゃないかなーとか、字幕を見て思うときも。あ、ここ仮定条件にしちゃうの?開放条件じゃないのか!誤訳?いや、感覚がずれてるのか?みたいな疑問とかね。

*2:こういうのって、「名詞―関係詞」の修飾関係に冠詞が星状体のようにフックしている文法関係というか、その関係性と似たようなのが<「左対名詞ー右対名詞」+冠詞>にもあるような……。