イェスペルセン『文法の原理』:ネクサスと英文法の論理

前提図書w

文法の原理(岩波文庫)

最近は、訳者の安藤貞雄にも興味が!きっと、イェスペルセンのネクサスの「深さ」を僕より遥か奥まで理解しているに違いない。

一般的にというか高校英語的には、山口俊治が大学受験レベルの英文解釈に使うネクサスが、有名だろうけど。本家のNexusは意味を排除した上での文法から、ネクサスという存在論を扱う……というような方向であるような気がしたような誤読(イミフw

アメリカ気分でネクサス♪

英語を学習する過程で僕が身につけた「実在」のイメージは、ゼロ冠詞(無冠詞)という「完結未満」、不定冠詞という「完結」、複数形という「完結以上」。イェスペルセンは名詞を「結晶」と言い、形容詞を「液体」と比喩した。形而上概念と言えど、名詞である以上、それは多面性を持つ「結晶」なのだろう。

完結未満は形而上。完結は形而下。完結以上は形而下と形而上を跨ぐ。catという機能の抽象化であり、a cat は具体的に触ることのできる物体の抽象化であり、catsは群れの抽象化。実詞の形容詞化ってのは、多分、be(である)から削られたbeing(になる)の鎖を意識してるのだと思う。

つまり、そのbeing(になる)こそがイェスペルセンの言う「ネクサス」。彼の「ネクサス」は受験英語のネクサスなんかより遥かにスコープが広い。「ネクサス」ってのは、チョムスキーが言うところの普遍文法なのかもしれない。構文として表れないメタ構文。

ネクサスに、強弱を、構文性という観点から、導入できれば、the english writing がOKで、the writing english がダメというピーターセンの冠詞観も近似的に・相似的に理解できる気がする。

ネクサスがつなぐ文法――規範・談話・記述・生成

英語の線条性、英文における時間の流れ、品詞の連鎖は「同格的」・「結果構文的」。だからこそ、スラッシュリーディングとか直読直解なんて芸当が可能。

一般動詞はどうだか分からないけど、少なくともbe動詞は「境界線」であり、存在論と認識論を隔てるエッジだ。そして「ネクサス」は境界線を越えない。「ネクサス」のbeingは境界線―「である」と「になる」のエッジ―ではない。

「動作」・「〜になる(copula)」は、「メタ機構」なんだ。たとえば、"charge" という単語に動作のニュアンスが辞書的にはあるとか、そういう話ではない。「品詞を構文で繋ぐ」というアタリマエの文章の連なり―単語の連鎖―こそが、「になる」の「象徴」。

「品詞が変わる」ってことは、「時間が飛んでる」ということだ。変化しているってことだ。 stand up は stand から up という状態へ「時間」が変化しているのだ。重要なのは up という「結果」。stand は up へと変化した。

なにも、この連鎖は上述の stand up の up のような adverb particle だけの「連鎖」ではない。adverb particle・同格・結果構文、これらは全て「ネクサス」によって担保されている構文だ。(放言

ネクサス――見えてはいけない・・・のかもしれないメタ構文

イェスペルセンの「ネクサス」は「ベタ」じゃなくて、「メタ」なんじゃないのか?むしろ、構文が既に「メタ」であるのならば、構文に「パラレルなメタ」でもあり、構文に対する「メタ構文」(メタメタ)でもあるのではないか?

とりあえず、「ネクサス」はメタ構文だとする。「動詞」ってのが、個々の go / have / get などを纏める「メタ概念」であるのならば、動詞自体のメタ概念。go / have / get / be の「メタ・メタ概念」が「イェスペルセンの being(〜になる)」なんじゃないのか?

ネクサスがSVという「意味」を「表す」からって、「動詞を想定する」必要なんて、ない。全てはbeingで「既に」繋がっている。その「既に」が「イェスペルセンのネクサス」なんじゃないの?彼のネクサスは、SVを「示している」だけなのではないか?


「結晶」の多面性を一面一面、「形容」していく「連鎖」、「運動」。この同格的な線条性がネクサスという「流れ」ならば、ネクサスは結果構文や談話文法―hyper-theme/theme/rheme―に「繋がる」。

「イェスペルセンのネクサス」を、さらに徹底してネクサスさせる。むしろ、徹底するまでも無く、「既に徹底されているネクサス」が「イェスペルセンのネクサス」なのではないか?

SVというtheme-rhemeな関係性だけではなく、theme内部、rheme内部での関係性をも規定する力があるのではないか?


「文脈に隠された『文脈』を見出す方法論」としてのネクサスなんかではなく、「文脈自体を規定している構文未満の構文」・「文脈という意味自体を生成する原動力としてのメタ原理」。

イェスペルセンの「ネクサス」は、むしろチョムスキーのように、普遍文法ー『文法の原理』ーを求めていたのではないか?

だから、イェスペルセンの「ネクサス」は、「ネクサスという意味―主述関係だの意味上の主語だの―を作る」っていうのだけではない。むしろ、「意味の生成」を規定する背景原理であり、意味を意味として成立させている文法――その文法自体の成立を担保している原理。


単語に内在するニュアンスは、ネクサスの成立に無関係。彼のネクサスは、「構造」なのだから。ネクサス構文というべきか・・・イメージ的には、構文ですらない構文というか・・・・・・形式を必要としない構文。むしろ、どんな形式でも成り立ってしまってるがゆえに、形式を定める意味が無い。と、言うべきか。



文法に沿って、左から右に、「読み込んで<繋げられてしまう>」部分が、「受験英語的でベタなネクサス」を逸脱してるんじゃないか?じゃ、ソレって何?「ベタな動詞」すら必要としないメタ構造って何?

杉原厚吉が談話文法で言うような 「theme-rheme」 が「ベタなネクサス」であるのならば、themeだけで(もしくはrhemeだけでも)成り立ってしまうネクサス。――これが「メタなネクサス」じゃないの?

何でそんなのが可能かと言えば、結果構文的だから、adverb particle的だから。

kindnessが「ネクサス詞」になれるってのは、kindnessが「結晶(イェスペルセン)」だから。「人格化されている(大津栄一郎)」から。

「起承転結(hypertheme-theme-rheme)」のそれぞれにだって起承転結ある。そして、その起承転結にも・・・・・・と、続けていき、文章、文、節、句、単語のレベルまで切り込んでいく。そして、kindnessという「1つの単語」の中にさえ「ネクサス(詞)」という「起承転結」が見つかる。

being(になる)というcopluaは、語りえぬ構文なのだ。これぞ文法の原理!文法の存在論!強引に纏めた。燃え尽きた!!

冠詞篇:結晶という一次語(存在)を、液体という二次語(認識)で語る

ゼロ冠詞名詞が、大津栄一郎が言うところの「形而上人格を表す」ということであるのならば、話者から見た時、名詞を関係詞や分詞で後置修飾するのはトートロジーと言える。

しかし、話者にとって「ある名詞」が、存在論的に自明であるからといって、読者にとって、その名詞の「形而上人格」が自明の存在として認識されるとは限らない。


つまり、「存在論―認識論」という「結晶―液体」という軸以外に、「書き手―読み手」つまりは「冠詞」という軸も導入しなければ英文解釈はままならない・・・・・・わけではあるんだろうけど、ここの領域はイェスペルセンの「ネクサス」とは関係ない。

ここは悪までネクサスの基点である「一次語」に関する「冠詞問題」。ネクサスは鎖であり、単語自体の意味論的な部分とは関係なく成立するんだと思われる。

情報篇:一段ずらされ仲間――記述文法の「情報構造」

受験英語的に「旧情報―新情報」が記述文法から援用されたりもするようですけど、実際、どのレベルで規範文法的な構文理解に援用されてるのか、僕はよく知らない。"the charge"が出てきた瞬間は新情報かもしれないけど、"away...(後置修飾語)"などの「追叙」まで行けば旧情報とも言える、みたいな。

そもそもとして記述文法的としては「情報の新旧」を「焦点の有無」に重ねているだけで、「メタ構造の指摘」だったのに、何ベタに冠詞の用法的なベタレイヤーで援用してんのよ?な話かもしれん。

談話文法のtheme-rhemeに近いのに、一段ズレてんだよ!って話なんだって気がしてきた。

書き手からすればゼロ冠詞で「人格化」してものは存在論的な「結晶」であり、多面的で既に知っている、旧情報的。

読み手からすれば新情報で「液状で一面的で形容詞化(イェスペルセン)」した認識論的なモノ。だから追叙する。意味を重ねる。面の色合いは再帰的に変化する。

書き手が読み手に、どのレイヤーで情報を完結させて欲しいと望んでいるか。存在論レイヤーの狂言回しでしかないのか。認識論レイヤーで同定する必要がある情報なのかetc...

だから、「既に話が出ている概念」だから「旧情報」で、「未だ話しに出てない概念」だから「新情報」ってのは、ちょっと違う。古い情報なのか、それとも新しい情報なのか――その「不確定性」こそが、(談話文法的な)「新情報」なのではないのか?

談話文法的新情報―記述文法的新情報(ただのメモ1)

少なくとも僕は、「情報構造」というものを「規範文法的な英文解釈」に援用してきた。だが、談話文法の「hypertheme-theme-rheme」というものを知って以来、少し援用の仕方が歪んできたようだ。

つまり、記述文法的な「旧情報―新情報」というのは「意味論的な判定」であり、どちらかと言えば「事後的」に了解されるべき分類法だった。

だが、僕は「旧情報―新情報」という「判定法」を「事前的な道標」として利用していたのではないか?それはつまり、僕の中で「新情報=後方照応」というような図式が成り立っていたと言うことなのだろう。

要は、「新情報=情報が足りない=後方照応」という風な理解を僕はしていたのかも知れない。

記述文法の理念が、規範文法より意味論のほうへ寄っているとは言え、構文論な部分がどちらにもある。だから、このような曖昧なー意味と形式を暗黙裡に斟酌するー部分は、あって当然なのかもしれない。が、ここの「曖昧な部分」は、もう少し明示化できそうな気がする。

不確定情報――旧情報未然・新情報未然(ただのメモ2)

つまり、「旧情報―新情報」というものが元来、意味論的で事後的な分類方法だとするのならば、形式的で事前的な「判定指針」が欲しい。それをとりあえず「不確定情報」としてみる。

でも、結局、これは「後方照応」に回収され、どちらかと言えば「冠詞」の方面から解決すべきなんだと思う。

まぁ、後方照応で新情報っぽいと事前に判定できるにもかかわらず「定冠詞で既出の単語」・・・なんて非制限用法的で旧情報くさい「不確定情報」が存在するのか?

むしろ逆に、後方照応で新情報っぽいと事前に判定できる「定冠詞で新出の単語」であるのに、事後的には旧情報だった・・・という「不確定情報」の方がありうる気がする。

この辺の捩れは、冠詞の用法が「非排他的」であるところに起因するんだろう。「形式からの事前判定」と、「意味からの事後了解」とが真逆の結果になるのは、直読直解の歩みそのものだしな。

というよりは、旧情報的な新情報・新情報的な旧情報という意味論的な転回にこそ、記述文法の「文末焦点」が生きてくるのではないか?情報構造というのは、つまるところ、意味論的なベタではなく、「事後了解された意味」の重要度をメタ的に判定する原理だったのではないか?

全ての「情報」は「文末焦点」に至る

結局、僕が言いたいのは、新出で後方照応くさい不確定情報に出くわした瞬間から、その情報の意味を漸次的に判定し、修飾を追い尽くしたら意味論的に新旧情報を事後了解しましょう。という、伊藤和夫的であり多田正行的でもある・・・「ボトムアップ解釈も大事だね!」な結論なのでした。

更に言えば、冠詞の用法から、旧情報を基点に意味が拡大されている場合もあり、「意味が拡張された」という「結果構文的な部分」―End Focus(文末焦点)―を大事にして、便宜的に新情報と了解しましょう。でも、いちばん大事なのは「拡張された部分」という「結果」であり「End(帰結)」ですピリオド. って感じ。

保管篇:メッタメタにしてやんよ!

copula。being。になる。ネクサス。あえて言うのなら、ネクサスは存在論と認識論を繋ぐ鎖だ。汎用メタってとこか?(イミフ

I'm here. は正しい文だ。 I'm in here. も正しい文だ。 I in here. も通じる文だ。しかし、I here はどうだろうか?ジェスチャー的には通用するのかもしれない。だが、here と in here における構文性の強弱。hereは形容詞化しているのか?いや、in here が形容詞化しているのか?

むしろ、hereは名詞であり、in hereが形容詞化しているからこそ、Iとの間にネクサスが成り立つ後者―I in hereーだけが、通じるのだろうか?

大津栄一郎は、ゼロ冠詞名詞を―正確には人称代名詞だったと思うがー簡単に「人格化」といったが、空間や時間は人格化できるのだろうか?できたとしても、それは人称代名詞とは違い、無色透明なのではないか?むしろ、人ですらない下等生物なのではないのだろうか?

そうだったとして、それが英文解釈に、英文のニュアンスにどんな意味を付随させるのか、知らんけん。

まぁ、頓挫。


でもやっぱり、here は形容詞化で液体で一面的、in here は「空間化」を経た名詞化で結晶で多面的な「擬人化(人格化)」って理解に僕は惹かれる。この「空間化」というのが良い。時間の流れをアウグスティヌス的に空間化(トポロジー化)する結果構文的な文末焦点。。。新情報の連鎖。beingという運動。living grammar。

時間すらもが三次元の結晶的である。という認識論。理性的な者は現実的であり、現実的な者は理性的という大津的な英語理解につながる。

特殊化=固有名詞化=人格化=三次元結晶

イェスペルセンは「一般化―特殊化」=「形容詞化―名詞化」ってかんじで語ってる。二次元で液体な形容詞より、三次元で結晶な名詞の方が、意味が狭い。他方で、固有名詞は人格という形而上属性を表す。

この「人格」ってイメージが曲者だ。脱人格化されてないのだから、人格は限定的で範囲があるはず。でも、人の人格って、深奥で計り知れないようなイメージがある。人格という形而上空間にある「見えない者」。「見えない者」の奥にある「見えないもの」。

こういう「見えない影」を前提にするような発想は、大津的に考えれば日本的なのかもしれない。「見えないもの」なんてのは、どこにも存在しない。むしろ存在し得ない。全部、まるっと見えている・・・もしくは、見ることができるという確信がある。だからこそ、形而上か形而下かに関係なく、三次元的な結晶として逆算固定ができる。――というのが英語的なのかもしれない。

外側に広がると言うよりは、内側に深い。「月の裏側」は存在せず、深くはあるけど、見ようと思えば見ることができる。

オットー・イェスペルセン『文法の原理』

文法の原理〈上〉 (岩波文庫)

文法の原理〈上〉 (岩波文庫)

文法の原理〈中〉 (岩波文庫)

文法の原理〈中〉 (岩波文庫)

文法の原理〈下〉 (岩波文庫)

文法の原理〈下〉 (岩波文庫)