英語の感覚×日本人の英語:冠詞パラダイム論

マーク・ピーターセン『日本人の英語』:日本人の英語の感覚

「意図」――つまりは「文脈」が冠詞を決定「してしまう」というピーターセンの話は、「文字通りの意味だけ」じゃない。もっと過激な事を言っているんだよ。つまり、無冠詞だから抽象だとか、有冠詞だから具体だとかいった一意的な学校文法的公式の不完全さの暴露なんですよ。日本人の冠詞理解は「ペンギン的な知識ですね」って言われてるんですよ!

しかし、そうであるがゆえに、彼の『日本人の英語』には「まだ先が在る」んですよ!ピーターセンは、その「先」を語らない事で《その先、にある認識論的なパラダイム》――つまりは、冠詞をポストモダン的に理解できる可能性を示してしまっているんです。ピーターセンは「冠詞」という「意味の産出機構」の存在を明かにしたんです。

大津栄一郎『英語の感覚』:英国人の英語の感覚

東浩紀氏の『動物化するポモ』・『郵便本』なんかを読むような人で、マーク・ピーターセン『日本人の英語』の初心者向け英語冠詞解説なんかじゃ、ぜんぜん物足りない!!!!と、思っている人には大津栄一郎英語の感覚』が蝶オススメ!ハートで感じる以前に理性で感じろ!


「実在」という「在るけど触れられ無いモノ」の自律性を華麗にスルーしている(?)大津の踏みこみも未だ足りないんです。「産出機構の構成」だけでは足りないんです。「産出機構が《機構として自律している》部分」を大津は指摘できてると思うんです。でも、機構ソレ自体が「完全に自律運動をしている」わけじゃない。なにか「動力源」があるはず。そうだからこそ、冠詞という「意味の産出機構」が、どのように「使われているか」――つまりは、「機構の《原動力》(エネルギー源)は何であるか?」であり、《「公式をどのように使っているか?」という公式》を僕は談話文法的な情報構造を重ね合わせることで、炙り出せそうって気がする。つまり、英作や英文読解に技術として活かせそうってことだDADADADA!!!


以下は、大津栄一郎英語の感覚〈上〉 (岩波新書)』・マークピーターセン『日本人の英語 (岩波新書)』・石田秀雄『わかりやすい英語冠詞講義』・樋口昌幸『例解 現代英語冠詞事典』のシントピカル思考の垂れ流しポモ。纏まってないよ。

今までの英語冠詞解説における英文法的な流れ

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  • 3. 大津栄一郎『英語の感覚』「英国人の英語感」
    • 一元論・ポストモダン
    • 認識論的実在論(英語:唯名論的 日本語:実念論的)
      • その「意図」に「英語的な世界観」があることを暴露。形而上に、認識できないものは存在しえない。むしろ、認識できるからこそ形而上に存在できる。<「認識できないものは、どこにも存在しない」のだから「見えないものも見える」>ってのが英語の感覚であり、マーク・ピーターセンが『日本人の英語 (岩波新書)』で前提としてすっ飛ばしてた《英国人の感覚》。他方で、日本語は「認識できないものも、認識できない物自体として客観的に自律した存在(見えないもの)として実在できる」――無意味の無意味。
      • 冠詞は『意味』しか表すことができない。無意味など、どこにもないのだから。

ピーターセンが日本語的なパラダイムに支配された英語を脱構築してくるのなら、こちらだって英語的なパラダイムに支配された英語を脱構築してあげますよって感じ。

  ↓
4. オラ

    • 一元論
    • 存在論脱構築(?)w
      • 英語における「意味」がもつ「存在」への特権を脱構築できそうだと考えている。「意味としての無意味・無意味という意味(schoolなどの機能)」ではなく、「日本的な無意味としての無意味(認識不可能な実在)」もしくは「無意味だからこそ意味があるレトリックへの可能性(ポーのhellとゼロ冠詞問題)」という表現が可能ではないかと疑問に思ってる。
      • 冠詞は『どんな意味・無意味』でも表すことができるはずだ

ピーターセンが日本語的なパラダイムに支配された英語を脱構築してくるのなら、大津が英語的なパラダイムに支配された英語を脱構築してくださるのなら、オラだって解して並べて揃えて存在論脱構築を晒してやんよってかんじw

大津栄一郎『英語の感覚』×マークピーターセン『日本人の英語』書評未満感想以前

僕のイメージだと『影』の部分は円・球の外側。時間軸が無かった。この時間が大事。認識と時間で四分割マトリックス。左下の事象は破棄。右上は「形而上―形而下」で更にニ分割。

上の二事象[=存在界]を更に三本の面で分割。これで時制の10次元、法の3つを説明しきれる。(過去未来時制ってのは文法書に無いよな?論理的にはあり得るし、著者のパラダイムの説明には必須なんだが。たぶん、"I wanted to play baseball."は著者の形式の中では「過去未来」になるはず。学校文法的には「ただの過去」だな。著者のパラダイムでは、「不定詞」の部分が「未来」なんだよね。ま、結果として、この文だと「baseball」は<playできなかった「過去」>となるんだろうけど。)


英語の感覚 by 大津栄一郎』をブコフGET!どこぞ池沼は、「岩波は死んだとか」とか言ってるらしいが、ただの死体じゃねーリビングデッドが岩波クオリティー!英語の新書なのに存在界だの自己だの形而上だの二項対立だの…素晴らしい!岩波はこのまま死に続けろ!w

エンドレスワルツ:英語ネイティブ―日本語ネイティブ

あぁ、もうホントにスゴイスゴイスゴイ!ですよ!!!「文末焦点」、「情報構造」。それも英語の「エンドレス」さで捉えられる!

そのpoint of viewから眺めれば、カーの"what is histry"の文が、いかに「動的」で「遠心的」で、「英語的な美しさ」を備えているのか分かる!!!

村上春樹が「英語で書く」ってのは、英語の「エンドレス」な部分を利用しているのではないかって気がしてきた。そのフレームワークだけを拝借して、日本語で英語を書くってやり方はイケルかも。それを後で再構成してるのかな、春樹ッチは。

コイツを現状の冠詞理解に組みこんでポモ風味で、ねるねるねるねすれば「んっまい!」(テーレッテレー♪

大津の爺様は、『わかりやすい冠詞講義』の石田秀雄樋口昌幸(『例解 現代英語冠詞事典』)や織田稔(『英語冠詞の世界―英語の「もの」の見方と示し方』)も追加して、ポストモダン的に英語の感覚を、英冠詞中心に語りなおすべきだね。


齋藤兆史はイシグロの文が好きみたいだけど、グロちゃんの文は「学校文法をはみ出していない」って感じの美しさ。理路整然とした譲歩節に、文法通りの挿入。

それしか、僕には分からんかったけど、挿入が綺麗に行なわれている。つまりは係り関係が明確ってことは、うまくダラダラとエンドレスに綴られていることになるのかも。

そーすると、ポーの書き方もダダ漏れ系。あの圧縮感が少し特徴的だが、他は基本に忠実っぽい。


あと、齋藤兆史は自著の英文法本で『赤毛のアン』をネタに完了形と心理描写の対応みたいな英文読解を解説してた。問題は、「なぜ、そのように解釈することができるのか」を説明できていなかった(ように思われた)ってこと。そーいう「なぜ」に無頓着な分、齋藤兆史の著作はマーク・ピーターセンにも大津栄一郎にも劣っている。

というか学校文法が駄目って言われるのは、伝統文法が自己言及する際に「存在論的」でしかない部分の説明しかないからなのかもしれない。「その規則がどんな意味を持つのか?」という「意味論的」解説が少ない。で、そーいう「意味論的な説明」は教師の力量次第なんだよな。

しかも、その意味論的な補足が記述文法に拠っていたり、まったくもって根性が足りネーな、伝統文法遣いはよ!もっと限界まで、伝統文法の能力を発揮させてほしいものです。

時制軸:共時的―通時的 / 英語人の英語観―日本人の日本語感

だけどよ、フツー時間軸まで考えようとか、あ、これソシュール?通時性・共時性ってやつか?ユングとかも知らんし……。あぁ、でもアーキタイプとか冠詞理解には便利だよな〜。俺も使っちゃったし…。それで総称用法ですよ!俺も所詮は日本人だったか


でも、感慨深いわ。大津栄一郎は僕が産まれた頃に、この難題に直面した。それから10年ほど悩んだ結果、『英語の感覚』という「答え」が提出される。時を同じくして、僕は英語を勉強し始め、著者と同じ10年の歳月を経て、僕は大津に出会った、と。 気分はさながらソシュールを知ったレヴィ=ストロースなかんじ。

finalvent 古英語は少し勉強した。なるほどねと思ったことはある。 go-went-gone の秘密とか。( go の過去形じゃない)*1

finalvent 英語の冠詞って固有名詞を知らないときの代替なのではと思っている。スターウォーズで the force が出てくるのは、それはかつて「※※力」みたいな固有名があったという含み。

ここの指摘はなんとなく分かるような。ちょい消化不良。複数形も不定冠詞の一種だとするならば、冠詞つき名詞も固有名詞化できる。少なくとも、定冠詞にいたっては、普通に固有名詞化する。

「the force…それはかつて「※※力」みたいな固有名があったという含み」ってのは分かるかも。「影」の部分ですよね。大津は二元論的な二項対立が「影」だって言ってるけど、もっと広い意味で「影」を捉えられると思うんですよね。

そこで便利なのイメージが、『英文法解説』にある定冠詞の「総称用法」であり、"the American"なんですよね。これって、「影」にあるのは"another american"じゃない気がするんですよ。

そりゃ、歴史的には"the british"とかが「影」にありそうだけど、むしろ共時的(?)には、ただ単に「別の国の国民」とも言えるんじゃないかって気がするんですよね。弁別的差異ってやつですか? .

江川泰一郎は、「総称用法」をそこまで拡大解釈していないみたいだけど、「できる」って気がするんですよね。もちろん、定冠詞は差異だけではなく相互認識って軸も重要だけど……。無冠詞でも唯一無二を符牒として表せるのなら、無冠詞は存在論

the earth/the heaven に定冠詞はつくがhellにはつかない。これをキリスト教的なパラダイムの名残としてもOKだし、「形而上―形而下」という弁別的差異の無神論でも説明できる。

ちょい暴走。自粛しまふ。(逆に言えば、hellに冠詞を「つけない」ことで自分がプッツンしてないことをメタ的に修辞的に無意味の符牒であることを逆手にとるレトリックの可能性*2とか…(あうあう自重 ><)

finalvent 不定冠詞の有無は、その物に輪郭が見えるかどうかだとうろ思う。羊って輪郭ないじゃないないですか、もわもわしていて。

大津栄一郎『英語の感覚』読書録2:二項対立―脱構築

どうやら400ページで英語の文法事項を全て説明しきる勢い。単純な原則で多岐に渡る問題を説明できてしまう理論体系に脱帽。流石に教授ともなる人の頭はスゲェ。よくもここまで理屈を詰められるもんだ。


@fromdusktildawn 「ポモが壊すバッカ」ってのは大津栄一郎に言わせれば「日本的」らしいです。西洋人というか英語圏だけかもしれないけど、「ある発言」には必ず「影」が付随してしまう。つまりは、二元論的な思考様式の呪い。 *3

@fromdusktildawn ジョン・ミルトンは『失楽園』で神の栄光を称えたはずなのに、ウィリアム・ブレイクにすれば「ミルトンは悪魔のミカタだった」。神の栄光を称えるには、悪にも偉大さが必然として付随してしまう、みたいな…*4

英国人にとって、<「破壊」を徹底する>には、<徹底された「創造」>が不可欠なのかも。こーいうのが否定神学的なのかな?陰陽思想に似ているようで、似ていない。「静」と「動」の違いみたいな

ニーチェが創造に躍起になってたり、ポモな人達がニヒリズムのど真ん中で結構ノーテンキに実存を志向できちゃうのも、モダン的というか英語的二元論にいい意味で呪われているからなのかも。そうならば、東洋思想系なんて「虚無の信仰」でビビルよな。

絶対運命読書録――世界の果てまでの距離

数十日前の自分の問題意識に万雷の拍手喝采。よくぞ、それを言語化しておいた、昔の俺、な気分。大津のじっちゃんが「距離感」に関する答えを一つ提示してたことに、昔の自分の文章を読んでから気がついた。ってか、仮定法の授業で時制と距離感のことは先生に教わったな。

認識の在り様に、ちゃんと時間軸が絡んでるところが大津クオリティー。とりあえず、「単純である」ということは、「簡単である」ということを意味するわけではないということなのだよ。ドゥー ユー アンダースタンンンンッ?


あと知りたいのは、これが「正しい」としても(というか論理的には「正しい」と思う)、それが英語圏の人達にとっても「正しい」のか。ピーターセン、書評してくれよ!!!デーブでもいいっす!ってか、カイヤでも許す!

で、大津のジジイ。貴様は俺が言語化した疑問も、言語化しては消え無意識にループし続けていた疑問も、全て並べて晒して解して一網打尽に解決しちまう気じゃねーだろーな?このままじゃ、俺が英語を極めてしまうではないか!(アンタって人はーーーッ!

英国人の英語の時間の流れ方―日本人の日本語の時間の流れ方

にしても、時間の流れの重要さにどうして着目できなんだんだろう。動詞によって不定詞や動名詞が禁止されているのも時間の流れ。そんなことは学校の先生に習ってたじゃないか...orz しかも直読直解こそが「それ」なのにさぁ。

前置詞のintoは動作を表す。じゃinは?文末焦点って言うが、文末にある副詞は文の要素じゃない。だが、意味論的にはコアだったりそる。なら、副詞はどう扱うべきなんだ?――この長年の疑問さえも時間の流れで解決じゃないかよ!補語の倒置が結果として主語を強調するように――

…Cが文の最後ならネクサス関係のSが結果として強調されるように、Mと係り関係のあるVの『動作性』が結果として強調されるEnd-Weight。さらに前置詞を境に『時間が飛ぶ』。そして『Mという結果』だけが残るEnd-Weight。

静止、動作、状態、観念、視点、関係、時間、法、直接、仮定、命令、相、完了、進行、転換、不定詞、動名詞、冠詞、形而上、形而下、人格的、物質的、精神的、感情的、因果性、存在界、非存在界、未現実、現実、非現実、影、二項対立、遠心性、求心性――

似ている……君と僕の「英語観」――とても似ている。ポモ的という点で。君がくれた…ヒントと、君が「ポストモダンでは、共時的な側面が過度に重視されざるを得ないということ」を気づかせてくれたおかげで…ほんのちょっぴり成長できたようなんだ!

なにかわからないが、この感覚………僕の「英語観」!もっと生まれるような気がするッ!もっと何かが生まれそうだッ!

時間は過去に流れ…時間は右に流れ…時間は品詞で「飛べる」。動作が速過ぎて補足できないのであれば、時を静止させ続ければいい。流れる時間に流されず、絶対的な「私」を観念に潜行させる――時間が飛ばされた瞬間に速過ぎる時の流れを感じられるのだから…逆に、時制で動作を加速させ続ければ感度は上がる

英語において、大切なのは「認識」することですじゃ!存在から非存在の全てを―時間ですらをも―認識するということはできて当然と思うハイデガー力なんですぞッ!プラトンの人差し指をベキッ!とへし折る事のようにッ、できて当然と思うことですじゃ!

イメージ化完了!ディモールト、良し!!!ってか、大津がややポモってるのは文学理論経由かな?

冠詞の照応と談話文法――新情報・旧情報:時間の流れ

ただ、「重要」という言葉の定義が錯綜している?「重要な言葉は前に持ってくる」ってのと「文末焦点」が矛盾する。たぶん、これは談話文法的な視点を導入することで解決できそう。

倒置(Fronting/Inversion)での「強調」ってのはhyper-theme。文末焦点はrheme。う〜ん…大津め!「倒置」だけは華麗にスルーしやがった!!!(談話文法マンセー

補語の倒置も、やっぱり、結果として主語を強調している事になるんだろうな。

デリダ道元が似てるって話も聞いたことあるけど、似てるようで似てない気がしてきたよ、大津の爺様。むしろ、「英語において時間が過去に流れる」のならば、彼はお互いに逆方向へ突っ走ってゴッツンコした感があるな。

冠詞の背後にあった『影』は、二項対立のもう片方……か。二元論的な「対」が例として上がっているが、そこの部分は脱臭できるな。そうすればもっと適用が広くなり、「総称用法」的ってまとめられる。

村上春樹が「英語で書く」ってのは、英語のエンドレスな部分を利用しているのではないかって気がしてきた

更に言えば、冠詞がついていても符牒化するんだから、そういう意味では冠詞の有無「表裏」と言うよりはメビウスの環やクラインの壷のように「両表」とも言えるはず

日本語―存在と認識―英語:無限の扱い方…組み合わせ×有限性

だが、そこは素直に、「形而上のものも形而上のままで認識できる」としてしまえば綺麗に解決しそう。英語はかなり不遜だな。

kusamisusa 英語のReinforced Concrete(補強されたコンクリート)の味気なさに比べると、とても色っぽくて素敵ですよね。>鉄筋コンクリート @MaripoGoda *5

この「味気なさ」こそが英語の「可能性」

日本語は言語ソレ自体が拡張されてしまうのが「可能性」。

英語は既に完成している有限の要素――それらが無味乾燥で「無意味」であるからこそ、無限に組み合わせる事ができる。これが英語という言語が無限という可能性を獲得した方法論。

日本語は意味ばかりで組み合わせる余地が少ない。ならば、組み合わせに利用できるピース自体を、母数自体を増やす。まさに、虚無。腐海が如く世界を侵食していく。そんなイメージ。

英語の感覚(上)(下)」 大津栄一郎 岩波新書
「英語の感覚」というけれど、この本の内容の多くは、あの退屈な大学受験レベルの英文法の域を出ない。そもそも、およそ魅力的でない英語とかいう平凡な一言語をつかまえて、それを深く掘り下げることに何の意味があるんだろう。英文学の先生が受験問題を作るから、日本の英語教育はダメなんだと思ったりした。

I like teaching English.とI like to teach English.の違いなど、ピンポイント的になるほどと思える箇所もあったのだが、全体を通読するのが億劫で、面白い部分が埋もれてしまっているのが残念。('02.1.27)
http://bioinfo.tmd.ac.jp/~niimura/books2002.html#OhtsuE

ワッカンネーかなぁ〜。ワッカンネーだろなぁ〜。英語における、冠詞と名詞の関係に重なる「世界の認識様式」とは何か?それは「見えないもの」をも「見てしまう」西洋的「私」の「絶対性」。「神の視点」をもつ「傍観者」。他動詞的な言語であるのに―いや、だからこそ―名詞構文という圧縮技術が発達した英語、ネクサス。それゆえに、冠詞を理解するという事は、冠詞に付随する名詞を理解する事に繋がり、英語という言語自体の構造をも理解できてしまう可能性へと繋がっている。ま、ルサンチマン乙。

この「形而上のものなのに、語り得ないものなのに、見えるのか?」って疑問がずっとこベリついていた。哲学的な問題としてはありふれているが、それが冠詞という言語にどのように反映されているのか、いまいち掴めなかった。

西洋哲学の発展から考えれば「語れる」はず。

だけど、そもそも、そーいうアプローチこそが日本語的であった。

「語り得ないもの」が「語り得ないもの」として存在するのは日本語の世界観での話。英語に、このような「虚無」は存在し得ない。

なぜなら、英語において「語り得ないものは形而上には存在し得ない」のだから。見えないものは、想像し得ない。観念であるということは、既に「見える」ということであり、「語れる」という事なのだ。(大津流


これで、冠詞における「形而上・形而下」の捻れは半分ぐらい解決した。やはり、英語は不遜な言語だな。


だから、「冠詞の有無」から意味の「形而上・形而下性」を推し量ることはできるんだが、それが必ずしも「公式的に一意的な対を成している」とは限らないって話だな。ポモポモok?

つまりは、無冠詞なら形而上で確定なんだが、有冠詞の場合は純粋な形而下(抽象)で無い場合も(たぶん)あるって話――要は、「意味のとしての抽象(無意味)」「形而下的な形而上概念」である可能性であり、冠詞が付いた状態での固有名詞化・無意味化・符牒。大津っぽくいえば、「見えないものとして見えている」に近い。「見えてしまっている」以上は意味が生まれてしまう。ま、大津は「見えないものとして見えているもの」は「無冠詞」もしくは「冠詞の影」に表現されるとしているみたいだけど。僕には、これだけでは不充分に思える。

大津の言う「無冠詞」に「ゼロ冠詞」と「複数形」が含まれているのなら、必然として「不定冠詞」も含まれる。つまり、大津栄一郎は「無意味―意味」という二項対立のうち、「無意味」(=ゼロ冠詞・複数形・不定冠詞)の方しか語れていないのではないのだろうか。

無冠詞の場合でも、「無意味としての意味」――「意味が無いことに意味がある」って可能性もあるのではないだろうか。つまりこれは、何度も顔を出しているhttp://canopus.s31.xrea.com/modules/bwiki/index.php?%E8%8B%B1%E8%AA%9E%E5%AD%A6%E7%BF%92%2F%E7%B2%BE%E8%AA%AD%2F%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%81%A8hell%E3%81%AE%E3%82%BC%E3%83%AD%E5%86%A0%E8%A9%9Eの話であり、石田秀雄が『分かりやすい英語冠詞講義』で「定冠詞の用法」として提示した「共犯関係」―新情報を旧情報として扱うレトリック―――その修辞法を、無冠詞まで拡張できる可能性はあるのか?という僕の疑問に繋がっている。

英語の世界観――冠詞という唯名論

日本語は表面と内面を即座には結び付けない。「悲しそうな顔」であり、「悲しい顔」だとちょっと違和感。英語は動詞での印象操作はあるけど、基本的には「悲しい顔=sad face」しかない。

日本語では「見えるものしか見えない」、だけど「見えないものは見えないもの」として存在できる。だけど、英語では「見えないものは、どこにも―形而上にも形而下にも―存在できない」
だから、「語り得ぬものを語るには沈黙ウンヌン」ってのは、日本語的に読めば「形而上でしか存在し得ないものを、どうやって形而下で語るのか」ってことになるんだと思う。

だけど、英語的に読めば「語り得ないものだって語ることができるはずなのに、できない。沈黙するしかない」となるのかも。これは、「語り得ないもの」つまりは「見えないもの」が「見えないものとして存在してしまっている」ことになり、恐ろしい事態、英語的には。

「沈黙」ってのは、日本語的には「無としての無のままの無存在」だから常識的なのかもしれない。だけど、英語的には、「なんの因果無しに何かが生成される」ってのは無い。だから、沈黙という否定的な語りを原因にする事で、辛うじて語り得ぬものを語るという結果を得た苦肉の策。

日本語では「無い」という存在を肯定的に認識できる。だけど英語では「無い」という存在は否定的に認識する事で辛うじて認識できた。この辺はデリダとか否定神学だのファルスだの、そーいう発想に繋がると思います。というか、必然っぽい。

だから、英語には極めてモダン的な二元論・二項対立が流れているみたい。まさに、言語は思考を規定するってやつかな。こんなパラダイムで世界を見ていたのなら、ポモまで辿りついてしまうのは必然であったとしか思えませんね。で、フランス語もどうやら英語と世界観が似てる

英語冠詞のパラダイム:認識論―存在論否定神学

「a,the,ゼロ冠詞の有無は文脈が全て」と、ピーターセンは『日本人の英語』で言った。だが、これには「まだ《先》が在る」。つまり、ピーターセンは、「その《先》」を語らない事で《先にある認識論的なパラダイム》――つまりは、冠詞をポストモダン的に理解できる可能性を示唆した。

大津栄一郎は、マークピーターセンが『日本人の英語』で語らなかった《先》を『英語の感覚』で語ってくれた。でも、それでも、まだまだ足りない――≪もっと先≫があるはずだ。英語という言語がコンラッドナボコフを産んでしまうほどの〈世界最強〉ならば、さらに拡張できてしまうはず。語り得ないものを、認識する事すらできない虚無を、意味の欠如としての完全な無意味を、無存在であり純潔な無としての絶無を。それを表し得るのは無冠詞だけではなく有冠詞でもあれるはず。ピーターセンが概念を作り、大津が理論を立てたとするなら、技術に落とし込む余地がまだある。大津が導入した時間軸。これに談話文法を重ね合わせれば倒置と文末焦点の一見矛盾する関係―つまりは情報構造―が文脈からすればなんら矛盾してないということ。

変形・生成・構造主義ーー英語・冠詞とポストモダン

id:ownricefieldさんのブログ読んでイェスペルセンとチョムスキーをなとなく理解した。前者が機能・規範・伝統とかの要素還元とかのモダン志向。後者が数学で言えばトポロジー構造主義的。僕は英文解釈に役立てたいのでやっぱ談話文法が最適かも。

生成文法にインスパイアされた7文型とか8文型も、確かにある意味では5文型より分かり易い。でも、伊藤和夫レベルの参考書が出ないと主流にはなり得ず、精々コラムで扱うレベルっぽ。

下手に扱って初学者を余計混乱させることにもなり得るし、中級者以上の理解の補助にもなり得る、きっと。

チョムスキーのやり方は英文解釈・読解に役立ちそうはない。構文分析に役立つ程度かな、たぶん。もしくは文体論とか?ただ、この文型論争を流し読みして思ったのは、「構文の要素と文法上の品詞」を分けて2段構えで品詞分解&構文分解する必要性はあるかもしれないと思った。

文型の数は問題ではなく、「同一品詞が構文において複数の機能をもってしまう」のは、英語が分からない生徒を混乱させてるのかもしれない。同じ名詞なのにCだったりOだったりMだったりする。

僕はこういう「機能の揺らぎ」を「文法を隠蔽した音による英文暗記・暗唱」で華麗にスルーさせらから、よく分からんのだ。中学までは英語の成績が良かったくせに「文法なんてクソ!読めればイイ!!」と思ってたからな(笑 NHKラジオ講座と教科書暗唱が最強過ぎました!

ま、おかげで高校レベルでは暗唱など通用しないと分かり、フォレストと山口を通読したわけだが。未だに4と5を間違えるぐらいだけど……とりあえず、OCとOOって型があるのは分かってるぜ!

さて、遅配された郵便に方言。メタ視点とはつまり三人称。だけど、言語間において、その三人称自体に既に違いがるとしたら。日本語では時間は流れない。「私」こそが時間。英語では時間は過去に流れる。時間は時間の流れとしてそこに在る。

時間感覚がこうも違うのに、本当に西洋人は日本的な儚さだの、侘び寂びだのが理解できるのか疑わしい。「果て」という「死」が「延々と舞い続ける」ようなイメージ――これがきっと日本語的な人の夢。

対して英語的には、「果て」という「死」が「延々と遠くへ流れていく」ようなイメージ…鴨。日本語の儚さってのは、時制が繋がっているという点では英語的な完了相に近いのかもしれない。

日本語は表面と内面を即座には結び付けない。「悲しそうな顔」であり、「悲しい顔」だとちょっと違和感。英語はlook/seemなどでの印象操作はあるけど、基本的に「悲しい顔=sad face」しかない。

逆に言えば、日本語はコトバ―単語自体―にニュアンスが織り込まれている。他方、英語では、sadというコトバ―単語自体―にニュアンスはない。つまり、敢えて言うのなら「悲しい」という断定しかなく、「悲しそう、悲しげ」といったニュアンスは文脈で表現するのが英語流。

英語において、「形而上的なもの」も「見えてしまう」感覚は nothing とか i have no money とかに見れるのかも。*no money は、意味的には文否定だから語否定の例+否定=「無」の所持 としてはちょっと不適の部分もある

日本語では「見えるものしか見えない」、だけど「見えないものは見えないもの」として存在できる。だけど、英語では「見えないものは、どこにも―形而上にも形而下にも―存在できない」

無意味の無意味―意味の意味 (形而上―形而下)

「沈黙」ってのは、日本語的には「無としての無のままの無存在」だから常識的なのかもしれない。だけど、英語的には、なんの因果無しに何かが生成されるってのはない。だからこそ、沈黙という否定的な行動を原因にする事で、かろうじて語り得ぬものを語るという結果を得た苦肉の策。否定神学

日本語における人称代名詞(?)って英語で言えば指示代名詞的であり、形而下的な意味をもってる。i know that man=あの人、知ってる と i know him=彼がどういう人物であるか(人格)をしってる の違い。

母親に"Hey, you!" と呼びかける幼児。"No, Mr Lockwood"っと言えてしまうこと。これらの類似性。人格という「見えないものが見えている」――これが無冠詞の無意味であり、ゼロ冠詞の意味

つまり、「脱人格的自我の個別性」の解決法が日本語と英語とでは違うということだ。日本語は魂の存在を認める。それは個別性を失い精霊と化す。これは昇華であり、消滅ではない。英語は、「私」という形而下的な固体―物質―に固有名の代わりである人称代名詞(存在)で形而上的(脱人格的)に呼ぶことで、『私という人間』に「脱人格的自我の個別性」を与えているのではないだろうか。因果の鎖は存在の力。


無冠詞による名詞が形容詞に近づくのであれば、副詞も形容詞に近い。むしろ、名詞も副詞も動詞の変形ですらあるのでは?さらにいえば、「冠詞」などというものが付いていること自体が特殊であり、名詞も動詞も形容詞も副詞も代名詞も、無冠詞であるとすることができるのではないか。

意味の無意味―無意味の意味

ピーターセンは<「意味」の意味>を語り、大津は<「無意味」の意味>を語った。残るは、<「意味」の無意味><「無意味」の無意味>――つまりは、「見えないものを見えるものとして扱う」もしくは「見えるものが見えないものを指し示す」方法「見えないものは見えないのだからこそ意味がある」というレトリックへの可能性。

前者は、差異を創ればいくらでも可能、the united states のように。後者は、可能なのだろうかポー?
正直、英語をポモ的に認識しなおす作業が楽し過ぎて困るwww 次はイェスペルセンとチョムスキーやろな。

大津の方言に騒いでる暇あったら、ピンカーとかチョムスキーとかイェスペルセン読めよって話。w

日本語的な無意味――認識はできないが実在はしている虚無。こんなものを英語で表すのは不可能なのかもしれない。 もちろん、説明することはできるはずだが。むしろ、無意味であることに意味を見出そうとするとメタ意味になり、「ポーのレトリック問題」に移行してしまうのかもしれない。

まぁ、つまりはこういうことだ。英語では、なんでも「擬人化」する。日本語では、なんでも「萌えキャラ化」する。これは言語特性に沿った傾向だ。英語は見えないものでも見える。日本語は見えないものは見えないものとして存在できる。登場人物とキャラの違い!グゥレイトだぜ!

このように冠詞を使い分ける上で、名詞が可算か不可算かは大きなポイントなのに、最近多く見かける冠詞本の中で、この問題を正面から取り上げているのは少数派です。ところが、この少数派に属する本をこそ買うべきです。「こういう場合は、この冠詞、ああいう場合は、あの冠詞」と、よく言えば網羅的、悪く言えば行き当たりばったりのアプローチは役に立ちませんから、買う価値がありません。きちんとしたアプローチで冠詞を扱っているのは、これまで読んだ範囲では、石田秀雄著「わかりやすい英語冠詞講義」(大修館書店)と織田稔著『英語冠詞の世界」(研究社)ぐらいでしょうか。

それでは、良心的な少数派の本は何と言っているのでしょうか。上で挙げた石田本によれば「ある名詞が表象しているものを境界線によって明確に仕切られた有界的な存在として話者がとらえている場合には可算名詞の形が用いられ、他方、境界線が明白でない非有界的な存在として認識している場合には、不可算名詞の形が用いられる」のです(同書68頁)。例えば、不可算名詞の例としてよく挙げられるワインを考えた場合、もともと「境界線が明白でない非有界的な存在として認識」されているわけですから、一杯のワインを二杯に分けても観念的には同一のワインであり、逆に二杯のワインを一杯にまとめても、一緒にしてしまう前のワインと一緒になってからのワインとで区別はつかないということです。
――http://eng.alc.co.jp/newsbiz/hinata/2005/04/post_11.html

個人的には、「前方照応と後方照応は排他的ではない」っていう石田の指摘(『わかりやすい英語冠詞講義』)が、ポモ的に英語の冠詞を理解する上では、とても重要だと思う。

おすすめ英語冠詞関連書籍(a/the 違い・使い方の解説)

*1:勝手に引用させていただきました>id:finalventさん

*2:http://canopus.s31.xrea.com/modules/bwiki/index.php?%E8%8B%B1%E8%AA%9E%E5%AD%A6%E7%BF%92%2F%E7%B2%BE%E8%AA%AD%2F%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%81%A8hell%E3%81%AE%E3%82%BC%E3%83%AD%E5%86%A0%E8%A9%9E

*3:これはid:fromdusktildawnさんの発言ではなく、id:nash-bridgesの発言です(id:fromdusktildawnさんへの返信としての)

*4:これもid:fromdusktildawnさんの発言ではなく、nash_bridges@twitterの発言です(id:fromdusktildawnさんへの返信としての)

*5:勝手に引用させていただきました>id:kusamisusaさん