このオヤジ、頭おかしいんちゃう?

若者はなぜうまく働けないのか? - 内田樹の研究室

どうして自分の努力の成果を他人と分かち合わなくてはいけないのか?
だって、それオレのもんでしょ?
違うのだよ。
『スイスのロビンソン』という、今ではほとんど読まれることのない児童文学作品がある。
これはスイス人一家が無人島に漂着して、そこでロビンソン・クルーソーのような暮らしをするという物語である。
その冒頭近く、漂着したあと、海岸でみんなで魚介類を集めてブイヤベースを作るという場面がある。
スープができたはいいが、皿もスプーンも人数分ないから、みんなでわずかな食器を使い回ししている。すると、子どもの一人がおおぶりの貝殻をとりだして、それでずるずるスープを啜り始めた。
なかなか目端の利く子どもである。
それを見た父親が子どもに問いかける。
「お前は貝殻を使うとスープが効率よく食べられるということに気づいたのだね?」
子どもは誇らしげに「そうです」と答える。
すると父親は厳しい顔をしてこう言う。
「では、なぜお前は貝殻を家族の人数分拾い集めようとせずに、自分の分だけ拾ってきたのだ。お前にはスープを食べる資格がない」
私は9歳くらいのときにこのエピソードを読んで「がーん」としたことを覚えている。
そうか〜、集団で生きるときには、「そういうルール」に従わないとご飯が食べられないんだ・・・
これはメモしとかなくちゃね、と私は思ったのである。
でも、今の若い人の多くはこのエピソードの意味を理解できないだろう。
このオヤジ、頭おかしいんちゃう?
限られたリソースを競争的に分配するときに、自分だけが有利になるように動いたことがどうして罰されなければいけないのか?
このルールを受け容れたら、例えば株の取り引きなんかできないことになる。
しかし、社会のルールは「複数の人間が無人島でも暮らせる」ことを基準に作られている。
そのことを覚えておこう。
そのルールでやったら「無人島では生きられない」ようなルールは「例外的な状況でだけ許される特例」なのである。
そして、現代の若者たちはそのような「特例」だけしか知らない。
「個人の努力の成果は個人が占有してよい」というのは生存競争がほとんどない時代、リソースの分配競争に負けても餓死することのない安全な時代にだけ適用できる「特別ルール」なのである。
それ以外のすべての場合において、努力の成果は占有してはならず、つねに他者と分かち合わなければならない。
現代日本のような安全で豊かな時代でも、親族やコミュニケーションや交換のような、人間存在の本質にかかわる活動では依然として人類学的惰性が効いているので、この「一般ルール」が生きている。

嗚呼、なんて素晴らしくもマーヴェラスに破壊的な愛(もどき)なんでしょう!わたくしめは、卑しくも感動し過ぎて病的興奮のあまりにヒステリーとトゥギャザーしてしまいそうなのです!「スープ」という≪愛≫を得るためには「貝殻」という<条件>が必要だったなんて!なんたる悲劇でしょうか!!

そういえば、「児童文学とは子供の視点で書かれた物語だ」とどこかの高貴なお方が仰っておりました。子供が我侭なのは当たり前なのです。そんな子供の自己中心的な好奇心による発見を誉めずに、「他人に尽くす」という<条件つきの愛>を強要する神経症野郎(などと下賎な言葉をついうっかり正直に使ってしまって申し訳ありません)が立派な父様としてでてくる神経症全開100%中の100%な病的物語が児童文学なのでしょうか?

どうして、このオヤジ殿は素直に子供を誉めて、「お父さん達にも貝殻を貸してくれないか?」・「みんなの分もあれば、とても助かるから今度はみんなの分も拾ってきてくれないか?」もしくは「今度、いっしょに拾いに行こう」と教育的なパワートークができないのですか?


ところで、人間の記憶ってのは当てにならないのですね。

「スイスのロビンソン」懐しいなあ

リンク先に該当箇所のホンモノが引用されています。この文脈なら納得がいきます。完璧ではないのかもしれませんが、素晴らしいパパ様ではありませんか!!これこそが、児童文学で示されるべき『無償の愛』なのです!!!*1

記憶に歪められたとはいえ、大学の先生が「こんな歪んだもの」を『愛』だと信じて疑っていないのだろうと思われるところに僭越ではありませんが恐怖を覚える次第であります。

「ルールに従わなければ生きていけない」

たしかに、真理と認めぬわけにはいきません。だけど、子供心というマインドフルな好奇心を忘れ、「ルールに従うことしかできない」大人なんて死んでいるも同然じゃないですか!いえ、それどころか、死んでるより性質が悪い<腐ったリンゴ>ですよ、先生?そんな腐ったガップリンに、イノセントな赤いリンゴは熟した先からナイフで割かれてもぎ取られていくのですね――。

「個人的努力は集団を構成するほかの人々が利益を得るというかたちで報われる。」

はは、とんだ偽善だ。「唇にはキスを、胸には短剣を!」ってやつですね、カラマーゾフの爺さん?最後の語尾が違うんだよなぁ〜。「報われる」じゃなくて「報われないこともある」ですよね。

これだから、嫌なんだよね。<「報われる」べき>とかいう強迫的なルールに縛られてるジジイはさ!大人であるべき子供をガキ扱いするオヤジがイチバン≪焦げついてる≫くせにさ。腐ったリンゴは焼いても腐ってるわけだね。

そのルールでやったら「無人島では生きられない」ようなルールは「例外的な状況でだけ許される特例」なのである。
そして、現代の若者たちはそのような「特例」だけしか知らない。
「個人の努力の成果は個人が占有してよい」というのは生存競争がほとんどない時代、リソースの分配競争に負けても餓死することのない安全な時代にだけ適用できる「特別ルール」なのである。
それ以外のすべての場合において、努力の成果は占有してはならず、つねに他者と分かち合わなければならない。

けっ!一億分の一という「ちっぽけな個」であることがそんなに恐ろしいのか?欲しけりゃ、『成果』なんかジジイにくれてやるよ!それでも、努力という≪プロセス≫は「私」のものだ。『成果』という「結果」が、被害者ぶった加害者―庇護者の皮を被った殺し屋―そんな幼児的でずるいアンタに搾取されてしまうことなんて、みんな知ってるんだ!――世界は善良という名の邪悪に満ちている!!「ちっぽけな若者」なんていくらでも交換可能な消耗品なんだよ!だから、≪プロセス≫という「生きがい」を「若者」は求めているんじゃないのか?≪プロセス≫ならば、たとえ切られて、どんなに搾取されたとしても「私」に残るのだから――。

ゆえに、「若者」は結果を求めない。「成果」なんか誰も認めてくれないから――。「プロセス」なんて誰も評価してくれないから――。だからだ!それだから、たとえオヤジに骨の髄まで搾取されようとも、たとえソレが認知的不協和によって「捏造された好き」であったところで、僕らは『生きがい』を求めて世界の果てで孤独に野垂れ死ぬんだ!!

それなのに、もし、アンタが説く「偽りの愛」という「ルール」を「おかしい」と思わない「若者」がいたとすれば、そいつはもう、「若者」なんかじゃない!ただの奴隷だ!!搾取されることを許容した操り人形だ。アンタみたいな卑怯なガキにいいように利用されて、搾取されて、捨てられるだけの惨めな存在――。

それでも、彼らはやはり「粘っこい若葉」なんだ。だから、自己中心的に振る舞う。「私」という存在が「アンタ」という人買に脅かされているから。アンタに利用してもらわなければ殺されるから。そこにあるのは「恐怖」だから!

だから、他人の成果をも占有しようとするんだ。「私」だけの成果では足りないから侵略しなければならないんだ!アンタが恐怖で「私」の存在を侵略し続けるから、「私」は人を殺さなければならない――殺さなければ殺されてしまうから。

だけど、殺すことなんてできるはずがない。本来、「私」は不可侵であるのだから。だから「私」を過大評価することで過大な評価を求める。アンタに「私」は肥大化され、肥えるだけ肥えたらブッ殺される豚となる――そんなのはまっぴらゴメンだ!

だから、僕らは「私」という存在を魂に刻みつける。アンタなんかに奪われてしまわないように、「私」の努力による「私」の成果は「私」が占有する。それが「私」の≪しるし≫だ。「私」は「私」が定義する。「私」の魂の印章は「私」にのみ彫ることがゆるされたものであり、アンタなんかに「恐怖」を刻むことはできない!

そうさ、他人の成果をも搾取するアンタなんかに施してもらわなくても、僕らは僕らの成果を自らの力で勝ち取ることができるんだ。だから、僕らは施さない。アンタと違って、僕らは奴隷なんかじゃない。僕らは≪個別の一人≫だ。僕らはアンタが勝手に定義する<ロンリーなスダンド・アロン>なんかじゃない。僕らは≪スタンド・アロン・コンプレックス≫だ。僕らは一人で立てる。だからこそ、僕らは支え合うことができるんだ。それだからこそ、僕らは同志を信頼できるんだ。僕らは「私」を信じているからこその≪コンプレックス≫であり、アンタみたいに「私」を信じられない「コンプレックス」なんかと一緒にするな!

僕らは≪コンプレックス≫だ。僕がいま勝ち得た成果は彼らの助けなしではありえなかった。たとえ、彼らの助けが直接的にも間接的にも関わっていなかったとしても、僕は彼らに感謝する。僕という存在を祝福し、僕という存在がたまたま有する権利を行使することをたまたま許容してくれた人達に感謝する。


ただ、それだけだ。


ただ、各々が所有する権利への対価を分配しているだけだ。努力という『プロセス』も、成果という『結果』も、全て「私」が独占する以外にない責任だ。もし、そこに「他者性」と呼ばれるような≪差異≫や「偶有性」と呼ばれるような≪連帯≫も無いのだとすれば、そんなとこに「私」なんてものは、端から存在していないのだ。


アンタは、そんなことも忘れてしまったのだろうか。雛鳥はすでに産まれているのに、アンタは目の前にいる<嘴の黄色いヒヨッコ>を認めない。世界は既に革命されてしまったのに、アンタにはそれが分からない。だから、産まれてしまった雛鳥を再び<ハンプティーの殻>に閉じ込め殺すんだ。そしてアンタは世界の果てに向かって嘆くのさ――卵の殻を破らねば、雛鳥は産まれずに死んでいく。

「これは複数のファクターの総合的な効果であるから、単一の原因を探してもダメである。」

よく言ってくれるよ!単一の原因は無い?つまりは、何事にも安易に因果を求め、二分法的な分かりやすい物語に飛びつく175ライダーで近代的な二元論を批判してるわけですね?

それなのに、「総合的な効果」の行きつく先はニヒリズムから退行した「教養主義」――いや、こんな破壊的なマンドコントロールに道徳も倫理もありはしない。こんなマガイモノこそが、腐ったリンゴの大好きな≪強要主義≫さ。熟したイノセントなリンゴを片っ端から腐らせる呪詛だよ!成果という結果至上主義者は若者なんかじゃなくて、アンタ自身じゃないか!いったい何なんだ、アンタって人はぁぁぁ!!*2

日本内の何処に「腐ったリンゴが産まれて来る樹」があるのか、妖魔の産まれる樹が十二国のどこにあるのかと同じぐらいに謎なわけだけれども……もうじき風の谷も腐海に沈んでしまうようだ――≪「腐田樹以外全部沈没」ただし「内田樹は庶民の王ってゆ〜か人身御供(?!)」≫み・た・いな〜〜〜!

*1:上橋菜穂子の「守り人」シリーズでも読みやがれ!

*2:君の瞳の騎士「シン・アスカ」(濁りません!)なかんじで!w