茂木は模擬なのか?

書籍出版 双風舎:【連載】「脳は心を記述できるのか」

 ここで興味深いのは、特講を経験した人びとの感想です。かなりの数の人が特講を終えたあとで、「風景が生き生きと見えた」「新緑が眼に染みた」などという感想を口にする。茂木さん的な表現でいえば、クオリアへの感度が向上しているのです。
 ならば、彼らの感じているクオリアは「邪悪なクオリア」なのでしょうか? いや、経験に至るまでの過程はどうあれ、天才の感ずるクオリアと、カルト信者の感ずるクオリアとに、本質的な区別があろうはずがない。まさか「そんなのはニセのクオリアだ」とか「脳の品格が違う」などとはおっしゃらないでしょう? 
 こういう経験は、ヤマギシに限らず、さまざまなカルト経験者が述べていますね。興味深いのは精神療法のひとつとして知られる森田療法でも、同様の現象が起こることです。これはある意味では当然で、森田療法は自意識の悪循環、すなわち精神交互作用の暴走を解除するために、やはり懐疑的な自意識を抑圧する技法です。これをカルトと呼んではさすがにまずいでしょうけれど、ここにひとつの共通点がある。それは、懐疑を捨てれば捨てるほど、クオリアへの感受性が高まる、という臨床的事実です。

神経症者とカルト信者の共通点は<「私」という実存を渇望している>ことだと思う。そして、両者の違いは「私」がどのように損なわれているかだと思う。<「私」の圧力に耐えられなくて潰れている>のが神経症者で、<「私」を繋ぎとめるだけの引力がなくて発散している>のがカルト信者なのかな?

つまり、前者は「私」がナルシスト過ぎて他者が視野から消える、後者は「私」が希薄すぎて「他者」と同化し≪我々≫となる。で、結局、「他者」が消えれば「差異」が無くなり「私」も消えるのさ。

だから、森田療法は「疑うことを抑圧する技法」であることは確か。だけど、「懐疑」を「忘れる」のでもなければ、「無視する」のでもないし、「懐疑などなかったものとする」ような破壊的なアプローチじゃないことは分かって欲しいな。*1

森田療法は方法的懐疑へのカウンターとしての方法的抑圧であり、「疑うことが行き過ぎて身動きが取れない状況」を打破するために、とりあえず「疑いはそのまま」で「行動すること」を強調する。今まで行動できなかったのだから、行動することによって相対的に『懐疑的な自意識を抑圧する』ことになる。

もうひとつ、「森田療法」と「カルト」の違いがあるとすれば「私」の扱い方だ。森田は「私」であることを受け入れる。いや、むしろ≪希薄な私≫でしかない「私」未満の≪私≫をも受け入れるのかもしれない。それが、森田正馬の言う『あるがまま』なんだと思う。

一方、「カルト」は「私」であることを認めない。重要なのは≪我々≫であること。そして≪我々≫に対峙するのは≪彼ら≫であり、別の「私」ではない。

どちらもグループエンカウンターを利用して他者との関わりを求めるもの。だけど、カルトには本当の意味での「他者」との関わりは存在していない。≪我々≫という肥大化したナルシシズムを膨張させるための方便に過ぎないんだと思う。

で、茂木センセーですよ

ほんらい茂木さんは、随所でポストモダン的な発想に違和感を表明されてきたはずです。これはある意味では当然のことで、そのこと自体の当否を、今は問いません。ただ、ポストモダンへの嫌悪と、ラカンの思想の肯定的評価とは、けっして両立し得ないものです。その意味で茂木さんがラカン入門書などに向けてとるべき態度は、「まだそんなことをいっているのか!」と一喝後、本はくずかごに直行、というものであったはずです。
 ポストモダンとされる思想に共通のものがあるとすれば、それは「主体への懐疑」にきわまるでしょう。ラカンをポストモダニストに位置づけるかどうかは議論のあるところですが、それを準備した「思想家」のひとりであることは間違いない。ラカンの思想は、欠如と逆説の思想です。「人間」とは、欠如した主体の周囲に構成された幻想の一種であると見なすのが、ラカン派です。
 それゆえラカンは、デカルトのコギトを一蹴します。「我思う、ゆえに我在り」ではなく、「我思う、または、我は在る」だ、とはラカンの有名なジョークです。これは簡単にいえば、思う「我」と在る「我」とが、すでに同一物ではないことを意味しています。そのように、実感的に理解された「我」なるものは、シニフィアンの連鎖がもたらした想像的効果にほかならない。これがラカンの主張であって、それゆえラカニアンにとっての「クオリア」なる概念は、典型的なナルシシズムの徴候、ということになります。証明ができず、「あるとしか言えない(糸井重里)」場所にこそ、ナルシシズムは強く滞留するでしょう。

茂木先生のポッドキャスト*2を聴いたんだよ。正直、つまらない講義だった。女生徒の茂木マンセー具合にゲンナリした……のはドーデモイイ。むしろ、茂木先生以外の先生達の問題意識の方が断然に興味深そうだった。そっちの先生たちの講義を聴きたかった。

だってさ、茂木先生、何も新しいことなんて言ってなかったんだもん。「脳科学2.0」みたいなことをフザケて言ってたけど、茂木先生が日本でもできたら良いなと思っている研究形態ってさ、複雑系で有名なサンタ・フェ研究所のソレだったんだもん。普通のポストモダンパラダイムだったんだもん。

だからね、たぶんさ、茂木先生は最近になってポストモダンに目覚めたんだと思う。それでこその「ポストモダンへの嫌悪と、ラカンの思想の肯定的評価」の両立なんじゃね?


まぁ、茂木先生の本も齋藤先生の本もまったくさっぱりきっぱりばっちり読んでないんですけどね! :-P


茂木関連:Romanticism in the Google-State Society - Nash Bridgesの始末書

*1:もちろん、齋藤先生は分かっているんでしょうけどね。(だからこそ、「これをカルトと呼んではさすがにまずいでしょうけれど」とことわった上で、共通点を指摘してるんですよね。)

*2:件の梅田さんがウキュ♪ウキュ♪言ってたやつね