『現代思想の冒険』

構造主義からもポスト構造主義から抜け落ちるもの - finalventの日記

竹田青嗣の『現代思想の冒険 (ちくま学芸文庫)』は読んだ事がある。finalventさんの構造主義に「私」は存在しないようだが、主観/客観という近代的な名残は構造主義には未だあった、と竹田は言っている。僕もそう理解していた。つまり、現象の背後に<ありのまま>の構造が潜んでいたってことだったっけな?(自信なし…


で、ポスト構造主義に至っては、ポイントが三つ。

  1. 「私」が消滅する――ニヒリズム
  2. 記号が<ありのまま>を表せない以上、世界も奇蹟とか永遠とか言った、人には触れる事ができ無いモノになっちまった――懐疑論
    • 世界という欲望のコードは資本主義の段階で脱コード化されちゃったから、革命することもできない。
  3. で、多分、もう一個がfinalventさんが言う(というか浅田?)「逃げまくる」(竹田は「自殺」っつてたな)――システムへの反逆心(力への意志かな?)。

んでさ、思うんだけど、グーグルちゃんは、「私」の無価値化を逆手にとってシステムの裏をかいたんじゃないかな?

無数の「私」をいくらコピーしても「0」のままであるはずなのが、どこかにあるオリジナルを絶対視する理性マンセーヒューマニズム。でも、総和が個々の集積以上のものになってしまうのがポモポモな複雑系なんだっけ?

ある意味、ビッグバンだよなぁ〜。何もないとこから色んなものが生まれてきた。でも、そもそも宇宙の器はいつできたんだろう?広がり続ける宇宙の外には、世界の果てには何があるんだろう?

神様のパズル (ハルキ文庫)』(★★★★)では、けったいな装置を使って宇宙を創ろうとしてた。

でも、グーグルはそこらに偏在するコモンな安いもので宇宙を創っちゃったんじゃないのかなぁ?もちろん、世界という器はグーグルにも変える事はでき無いけど、ネットワークのありかたはグーグルが創発しちゃったんじゃないんかなぁ〜?

まぁ、そんな妄言はどーでもいいんだ。

知の欺瞞関連だかなんだか忘れたけど、竹田のポストモダン理解はロートルな頑固親父レベルだ、みたいな評をネットで読んだから敬遠してたんだ。

該当箇所は直ぐに分かったけど、言い掛かりだと思った。「反-知性・反-権力」がポモの源泉?みたいな記述があったんだよ。(竹田の意図とは、すげー違う引用になってる気がするけど…詳しく覚えてないんだ^^;)

多分。、「反〜」ってとこが近代的イデオロギーっぽくて、大きな物語として理解してんじゃネーよ、爺!と、ネットの誰かさんは理解しちまったんだと思う。

それくらいは、竹田のオジチャマだって分かってるさ。でも、語り得ぬ事を語っちまおうとしたら、そーいう言葉で説明するしかなかったんだと思うよ。僕は竹田青嗣に惚れたぜ、ただし永井均の次に好き、み・た・い・な!(笑


何に惚れたかっツーとさ。加藤諦三とかいう、自他共に認めるヴァカ(@20代の時の著作内容)なバリバリ神経症だったオジイチャンがさ、「思想は救済にならない」みたいなこと言ってたんだ。

それに対して、竹田のジー様はよ、「思想は武器だ」みたいなことを言ってるわけよ。

<知>という権力に対抗するための唯一の手段だって言いきってんだよね。


そーだなーって思うよ。コレだけ社会が複雑になれば、どの<知>がどれだけ正しいかなんて判断しきれないよ、個人の力じゃね。それにどうやって対抗しよう?

僕はクリティカルシンキングに落ちつくんじゃないかなって思う。で、クリシンの中にはロジカルシンキングや思想も含まれてるんじゃないかな〜って気がする。

ほかにもイロイロ含まれてんだろうけどサ!