紅蓮の詐欺師

世界のこの部分全体、この半分全体が、ごまかされ、黙殺されている。……だが、この人工的に引き離された、公認された半分だけではなく、全世界を、いっさいをあがめ重んじるべきだ、と僕は思うんだ。


■ - Something Orange」で始まったネタ。

キャラを通じて作品群をインテグラルに見る読者性=萌え - 萌え理論ブログ

  • 登場人物
    • 作品ごとのプライベート単位。一つの作品の外部に適用することはない。二つ以上の作品で同じ登場人物は出ない。ただし、シリーズものは連続した作品と見なすことができる。なお、人格(行為の主体)を有していれば、人間でなくても構わない。
  • キャラクター
    • 二次創作が成立するローカル単位。複数の作品で別々の登場人物だが同じキャラクターだということが可能になる。二次創作系の外部にまで適用することはない。つまり違うキャラクターを描いてしまったら、ここでは新しい一次創作のキャラクターと見なす。
  • キャラ
    • ジャンル全体で流通するグローバル単位。作品や二次創作の外部に適用できる。レイヤーのように一人の人物に対して重層的に構成することができる。この概念によって「違うキャラが入っている」という指摘が可能になる。

「物語派」と「キャラ萌え」と「属性萌え」の対立[絵文録ことのは]2006/12/13」での分類でいくと

  • 登場人物
    • 物語派
  • キャラクター
    • キャラ萌え派
  • キャラ
    • 属性萌え派

って対応みたい。「シチュエーション萌え」ってのは「キャラ萌え」と「属性萌え」のハイブリッドで説明できる。基本的には「属性萌え」に分類される<メタ萌え>だろうな。だから「キャラクター」は飽くまで「シチュエーション」に追加される要素。つまりは、ここでも読み手が勝手に物語を創造しているわけか。

キャラを通じて作品群をインテグラルに見る読者性=萌え - 萌え理論ブログ

確かに作品をトータルに見てはいないだろうが、キャラを通して作品群をインテグラルに見ているのである。一つの作品を違う角度で見るのではなく、むしろ多くのレイヤー(作品群)を一つの面(キャラ)で見ているのだ。さらに、作品をトータルに見るというときに、実は作品だけしかみておらず、二次創作も含めた作品間のインタラクティブな作用までは見ていなかった、ということなのだ。

この論法で言うと、「キャラ=食玩のおまけ」ってことかな?本当はお菓子なのだけれども、実質はビックリマンシール、みたいな?要は、キャラという属性に特化した「シントピカル読書@モーティマー」(『本を読む本 (講談社学術文庫)』)ってことんだと思う。

そしてシントピカルの結果、キャラはどんどんと細分化していき、データベースと化す。そのデータベース化も、シールを集めて「コレクション」することが目的になってしまうかもしれない可能性を孕む。つまりは、「キャラを楽しんでいたはずなのに、キャラを集めることに価値を求めてしまう」という倒錯への危険性。

例えるならば、「彼女は欲しいけど好きな女の子はいない」みたいな?

まぁ、この辺の危険性は「トータルな読書」をしている人にも言えることだろうさ。ビブロマニアとか自称している人は本当に「読んでいる」のか?「読むため読んでいる」読書中毒――つまりはアルコール中毒となんら変わりない可能性だってあるわけだ。

ならば、トータル・インテグラルのいずれの方法をとれど、数々の読書術を駆使して複眼的に読むことは可能だし、「倒錯の危険性」という同様の問題構造を抱えていると言うことができるはずだ。

ただ、「トータル読み」が「インテグラル読み」を批判する時、それはインテグラルという方法が気にくわない、というだけではない。むしろ、インテグラルな<彼ら>を批判することによって、トータルな「私」たちが彼らと共有する≪危険性≫を指摘しているのではないだろうか?

普通の人が自ら毎日を過ごしながら、はっきりと捕えることのできないで過ごしている自分たちの時代の自分の生命の味、その実質、それを純粋にして味わせるものが芸術であり、その一種としての文芸作品、小説がある。
――伊藤整『小説の方法』

ツンデレだの何だのをデータベース化して遊んでいる人って、作品もしくは作品群で遊んでいるわけではないよね?キャラというものを祭り上げて、それを祀っている人達と一緒に「祭」を楽しんでいる。


だけど、これって本当の意味で<祭>なのかな?<祭>って特別な日なわけでしょ?本当に大事な普通の日が普通に素晴らしい日々であるために、神様にお祈りをする特別な日。特別という≪特殊性≫は普通という≪普遍性≫があって初めて成立する対概念。それがなければ、祭という≪特殊性≫は≪普遍性≫を獲得することができない。

なるほど、トータルな読み手は書き手である著者と、インテグラルな読み手は読み手である著者達と対話することによって普遍性・特殊性を交換しているのだろう。

しかし、「萌え」が批判されている時、それはデータベースという普遍性にゆらぎがない、ということを意味しているのではないだろうか?


つまり、「萌え」という≪特殊性≫は「物語」という≪普遍性≫に開放されていない、と言っているのではないだろうか?


いや、「萌え」というキャラがもつ≪普遍性≫は個々の物語のもつ≪特殊性≫を必要としていないのかもしれない、と言い換える事もできるはずだ。

「萌え」は開放的なんだろうか?キャラクターや登場人物――その記号が紡ぐ固有の物語なしでは存在できないはずのキャラが、それらから「解離」して一人歩きしていないと、はたして、言うことができるのであろうか?

おそらく、「萌え」に嫌悪を感じるのは、それが「プロフェッショナル」として<公>に開放されておらず、「ヲタク」という<セカイ>で閉鎖している可能性に根があるからではないだろうか?<公>の視線に晒されている読み手は、その恐怖に常に「抑圧」されている。抑圧されているからこそ、神経質に「萌え」に反応する――恐怖する。それが「抑圧」という『葛藤の病理』。

だけど、「私」の<セカイ>に安住する読み手に、「抑圧」という恐怖を知ることはできない。世界を鳥瞰する≪鷹の目≫をもたないキンブリーは、自分の≪特殊性≫が≪普遍性≫を持たないことを決して知ることはないし、知ろうとも思わない……ただ、己の狂気を満たすために物語を錬成し続ける≪紅蓮の錬金術師≫。


開いているからこそ抑圧に鎖され収束し、閉じているからこそ解離に放たれ発散する倒錯。


「萌え」は作品群をメタ的に評価する≪鷹の目≫という視座をもたなければ成立しないシントピカルな愉しみ方だったはずだ。しかし、<他者性>を孕んでいたシントピカルな開放系の中での交流から、いつのまにか<セカイ>という閉鎖系のなかでの循環へと移行してしまっている可能性はないのだろうか?

作品群のなかにある<他者性>の「統合」に起因するはずの「解離」から、<因>が欠落し、<果>だけしか残っていない可能性――。


いや、そもそも、「萌え」なんてものは「統合」ではなかったのではないだろうか?


(作品群)をひとつの(面)で見ていた帰納インテグラルなんかではなく、自己の中にある(データベース)から演繹的にインテグラルして読んでいたのではないだろうか。

こんな演繹は『本という<他者>を読んでいる』のではない。そうではなく、『自分という「私」を読んでいる』のだ。そこに他者は「存在」しておらず、溶媒として<読み>を「媒介」しているにすぎない。

もちろん、これも立派な読書術さ。ヘルマン・ヘッセが言うところの<第5の読書術>だ。*1自分を読まずにして、他人を読むことはできない。また、その逆も然り。


でも、その大事な自分がデータのインテグラルなんかでいいのだろうか?そんな代替可能なオルタナティブで我慢できるのだろうか?


僕は我慢できない。もし、僕という物語が代替可能な物語であったとしても、僕は代替を許容しない。たとえ、僕と全く同じ初期条件―キャラ―をもつキャラクターが、僕を登場人物とする物語の中に登場ところで、僕は彼ではない。彼も僕ではない。僕には彼にない―彼には僕にない―初期値に対する鋭敏性をもっているのだから。

と、啖呵を切ってみたんだが……考えてみれば、僕が許容しようが、彼が拒絶しようが、そんなのは関係ないんだよな。なぜかって?そんなの単純明快!『キャラは決して被ってはならない』からだよ!それが物語を律する、たった一つの冴えた真実。

結局、「萌え」は「統合」なんかではないのさ。固有の物語という特殊性の完成――そんな完全なる普遍というトータルな理想に「抑圧」されるだけの「神経質さ」すら持ち合わせていない別の病理……『葛藤なき病理』だった。なんにも乗り越えてなんかいない、ただトータルにインテグラルされた「解離」にすぎなかった。

僕は、この「解離」がちょっと恐ろしい。*2 いろんな物語を劣化であろうと自己再生産できるなら、まだいいさ。その乱造される物語が、結局は「同一の物語」だということに陥ってしまったらどうなるのだろう?

違う物語を紡ぐことができないと悟ってしまったらどうしたらいいのだろうか?それが希望に満ちた運命ならいい。だけど、それが絶望に満ちた宿命であったら、他者からの手助けなしに、そこから這い出すことなんて可能なんだろうか?変わらないことを知ってしまった「私」が、なりたい「他者」に変われるということを望めるのだろうか?

そんなもの誰も望んでなんかいないのかもしれない……。絶望的な今が変わってしまうことこそ、希望に満ちた明日も変わってしまうことを証明する絶望への道なのだから。

変えることができないという宿命への絶望と変わってしまうという運命への絶望。

絶望は人生を彩る――黒黒と。

*1:個人的には「シントピカル読書」の次に位置する「我侭読書」と呼んでいる

*2:関連エントリ:連鎖といっても精々100人程度 - Nash Bridgesの始末書