煩論怪死

西尾維新戯言シリーズ」の本編(『クビキリ』〜『ネコソギ』)と外伝『人間試験』を読んでいない方は読まないことをお勧め致します。ネタバレ全開です。あと、記憶に頼ったものなので、物語の内容と矛盾しているところも多々あるかもしれません。

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読みながら期待していたのは、壊れていく天才の心理描写。 ところがそんな描写は無し。物語は、現代版の「甲賀忍法帳」だった。

作中の「玖渚友」という人物の造形は秀逸。「壊しがい」を感じる。

というか、戯言シリーズは「壊れていく物語」ではなく「壊れてしまった物語」なんですよね。もちろん、クビキリとクビシメは、既に壊れてしまった<いーちゃん>が「壊れていく」物語なわけですけども、玖渚友を始めとする天才たちは全員、壊れてしまった人達なんですよ。それこそいろんな意味で壊れています。

彼らの物語は始まった時点で既に終わっているんです。いわば、「つよくてニューゲーム」みたいなもの。普通なら、絶望的にツマラナイ。でも、誰も絶望していない。絶望に臨んでいる春日井春日ですら、人生を楽しんでいます。

画期的な手術で強制的に天才にされた主人公の孤独

終わってしまったはずのに、始まってしまった<いーちゃん>の物語。凡才のクセにイカレた天才たちに囲まれ、生きているだけで周りを傷つけてしまう運命への絶望。だから、彼は見限るしかなかった。孤独になるしかなかった。それが無為式の孤独。狂言回しには<物語>に関与する資格が無いのです。

せっかく得られた能力がだんだんと失われていく恐怖

天才と称される教授がいましたね。でも、彼も知ってしまったんです。真の天才というものがなんであるかを。自分と≪害悪細菌≫や≪死線の蒼≫との決定的な違いを。彼の絶望はいかほどのものだったのでしょうか。だからこその≪堕落三昧≫。彼もコワレテしまいました。

そういえば、匂宮に属する早蕨がいましたね。彼らは≪最悪≫になりきることができませんでした。だって、≪三位一体≫こそが、彼らを人外の天才にするための能力だったのだから。能力を失えば、彼らは壊れきれていない不完全な紫の混濁。弓矢を失った彼らに、蒼い希望なんて在るはずも無く、コワレテいきました。

最後の最後、「本当に大切なもの」というのは、一体何なのか

天才でなくなった玖渚友が―蒼き精彩を欠いた欠陥製品が―真の意味で≪彼女≫のままでいられたとおもいますか?生来のモノですらない異端中の異端である人識が、「殺しをしないで生きる」なんてことがアリエルと思いますか?<いーちゃん>も哀川潤も、彼らの天才性を殺すことによって、既に終わってしまった物語を始めることに成功したんです。こんなネコソギ犯罪がハッピーエンドだと思えますか?真っ黒もいいところの破壊行為――バッドエンドじゃないですか!

でも、僕はそれこそが、変態兄さんが求めていた「希望」なんだと思います。

クビシメで頂点を極める<いーちゃん>の戯言。彼は絶望を望んでいました。しかし希望を知ってしまった・・・・・・アパートでの明るい日々を楽しんでしまった。でも、やっぱり、それですら偽りであったと感じざるをえなかった姫ちゃんのヒトクイ。絶望に臨み、終に終わってしまった<いーちゃん>を終わらせたのが、剣術家のお姉さん。<いーちゃん>は6回殺されます。上下前後左右。彼女はいーちゃんを閉じ込めるサイコロジカルネコソギ破壊してくれました。

終わってみれば、この物語は誰も絶望していないんですよ。萌太君や崩子ちゃんですら、絶望していません。もちろん、諦めてもいません。萌太君は死ぬ瞬間ですら笑っていた(?)。≪殺し名≫から逃げてきた彼らが人の皮を剥く時ですら、彼らは人であることを諦めてはいなかったと僕は感じます。アノ時点で、彼らの物語に、暗さは微塵もなかったはずです。

人という存在の淵で終わりを臨んでいる、終わった人達が、いちばん終わっていない。それこそが希望。人という因果から追放されてしまった狐さんですら、<物語>に関与することを希望しています。むしろ、壊れてしまうことができなかった天才たちの方が真の意味で終わってしまう物語。零崎一賊だって、一賊の異端であり最も純粋な(?)人織と異端でありながら普通でいられた舞織しか生き残らなかったわけですしね。それは、舞織も人織も壊れてしまった世界の中で、更に壊れることができた-徹底的に零を裂き続けた-モノだったからなのでしょうか?自分の衝動に素直に生き、されど生来の運命に縛られずに自分のあるところの物になろうと希望する。そんな彼らの逝き方が、モノを者たらしめる希望なのかもしれません。

一方、人外の壊れた存在である<天才>斜道卿壱郎や早蕨兄弟などは、壊れてしまうことができなかったゆえにコワレテしまった。

結局、ジョーシキに囚われなかった人達が生き残ったところに、ヒューマニズムを感じます。でも、いーちゃんも友も、何が彼らを惹きつけたんでしょうね?だって二人とも変わってしまったのに、それでも受けいれることができる。天才だろうが、欠陥製品だろうが、存在そのものを受け入れることができるってのが愛なんでしょうかね?

そういった意味では、戯言シリーズは「受容の物語」とも言えるのかな。自己も他者も認め合う。しかも、開き直りとかいうネガティブなものが彼らを突き動かしているわけではない。生来の「私」ではなく、本来の「私」になることができた者ですらないモノ達の物語。衝動という力の「抑制」ではなく、「受容」に可能性をみる零崎一賊や真心に僕は希望を感じました。「壊れてしまった物語」のはずなのに、全く壊れていませんね。

つまり、壊れてしまった人たちにとって「壊れていく」ってのは「恢復していく」と同義なんだと思います。生来の欠陥を修理したり、直したり、穴埋めをするのではなく、その絶望を壊すことによって「恢復していく」――。欠陥は欠陥のままに、それでも、絶望せずに、傲慢に、その欠陥を恢復させようとしていく。そんな、自分探しの迷惑な物語。

伏線未回収多発だったり、終わったはずなのに人間ノックが出るし。しかも、まだ終わっていないし。まったくもって、アチコチ壊れている欠陥物語なのだけれども、そこが大好き戯言痛快!

西尾維新「戯言シリーズ」感想