復讐は罪にあり

アベルを捨てカインを賛美するお手伝いをすることはもうできなかった。また、しようとも思わなかった。私自身がふたたびアベルになったいまは。

痛いニュース(ノ∀`) : 【コラム】 イジメで自殺するくらいなら復讐せよ 死ぬべきは加害者、少年法が君たちを守る - ライブドアブログ
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学校では報復・復讐は道徳的な悪だと教える。しかし、それは嘘だ。人間が本来的に持っている復讐権を近代国家が独占したに過ぎない。大学で法制史を学べばすぐわかる。復讐は道徳的には正しいのだ。現に、ロシヤに抑圧され続けたチェチェン人は果敢に復讐をしているではないか。
 被害者が自ら死を選ぶなんてバカなことがあるか。死ぬべきは加害者の方だ。いじめられている諸君、自殺するぐらいなら復讐せよ。死刑にはならないぞ。少年法が君たちを守ってくれるから。(評論家・呉智英

ブログちゃんねる:私は少年院に行ってました。


いったい、何から守ってくれるというのだろうか?


この預言者少年法が少年を死から守ってくれると教える。しかし、それは欺瞞だ。少年が心から欲した幸せへの渇望を、近代において発明された刑法の枠組みに落としこんだ詭弁にすぎない。刑法は悪事を裁くのであって、悪人を裁くのではない。それゆえの正義の法。

復讐は道徳的に正しいのかもしれない。正義ですらあるのかもしれない。しかし、復讐は罪だ。間違っていようがいまいが、不条理であろうがなんであろうが、復讐とは紛うことなき罪過だ。善悪の如何を問わず、背負わなければならない十字架だ。

だいたい、国家という幻想を否定しておいて、復讐が幸福への手段であるかのような幻想を抱かさせる。この言葉のウソ臭さを僕が本来的にもっている魂の、その根源において拒絶する。

「肉体だけ生きていればいい」などという虚偽を弄するこの預言者こそが、真の殺し屋だ!彼こそが、生ける魂を肉体という死の牢獄へと誘おうとする『自由の簒奪者』だ!!


殺される方に原因があり、罪を背負うのは殺す方。


少年に罪を背負わすのが愛なのか?否、断じて否!罪も悪も正義も法も、道徳ですらも、決して罪を犯した者の幸福を約束してくれはしない!こんな欺瞞を盾に少年をそそのかす、この毒蛇を僕は許さない。義侠を気取る、この偽君子の呉智英こそ、断罪されるべき咎人だ!

たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

エスはユダに敢えて殺されたのだ。イエスは彼を愛していたから。だからこそ、彼がしようと思うことをさせた――愛ゆえに。イエスは知っていた。ユダのイヴへの愛がいかに愛すべきものだったのかを。いかに大いなるものだったのかを。イエスはイヴの罪を赦しはしない。されど、イエスは全ての人を愛していた。原罪に汚れた人の愛の可能性を信じ、愛しんでおられた。

だからこそ、イエスは人の罪を背負い十字架にかけられた。ユダの愛する人がいる、この堕落した失楽園を愛していたから。楽園から追放された人々を愛し、罪を背負いつつも愛を知る人を愛していたから。

預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。

だが、こいつはなんだ?キリスト気取りの偽預言者ではないか!殺人は自殺と同義だ。「殺す価値しかない奴のために、自分の人生が浪費されるから」なんて小賢しい戯言ゆえではない。他人を殺すということは「私」という存在に死を刻みつける罪だからだ。人を殺したものは、その罪ゆえに生きながらにして自分で自分を殺すはめになる。そう、それはまるで蛇に飲みこまれ、じわじわと消化されるかのように・・・・・・あなたを殺さない程度に、あなたが死ぬまで、あなたは殺されつづける、永遠に……。神はいずれ貴方を赦してくださるだろう。阿弥陀仏の慈悲のもと、貴方は救済を得るかもしれない。されど、貴方は決して貴方を赦さないだろう。――これは毒蛇の罠だ!

人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。

僕は、この不法者の愛なき嘘を許容しない。違法だろうが、合法だろうが、人の道ではない。不義だ!ましてや、行き過ぎた復讐から人を守る律法が、あたかも復讐を正当化するかのごとく引用する暴言を、僕は決して許容しない!


そもそも、復讐に力があるのはなぜか?それは憎しみだからだ。

憎しみはナゼ生まれる?それは喪失への怒りだから。

ナゼ怒る?それは恐れゆえに。

ナニを恐れる?それは死。

ナゼ死を恐れる?それはより善く生きたいと望むがために。


善く生きるとは何か?それは恐れという絶望に足を絡め取られずに歩むステアウェイ・トゥ・ヘヴン――幸福への道だ!


人という存在が緩慢なる死への道である以上、憎しみは常に存在する。憎しみは常に人につきまとう、だが愛だけは決して滅びない。僕はそう信じる。僕は愛を信仰する。人を愛するのならば、自分を愛しなさい。「私」を愛するのならば、隣人を愛しなさい。ゆえに、だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。

これは「やりたいようにやらせる」なんて意味ではない。「抗え」ということだ!イエスが説いたものは魂の弱体化や消滅などではない。それは諦めではない抵抗だ!魂の迸りだ!!


だから、僕は看過しない――この魂への背徳を!


虐められた少年・少女の魂の輝きである「肉体強化や殴り返す強さ」を「抵抗」ではなく、「復讐」などという、おぞましい暴力に捻じ曲げた不法者を、僕は決して赦さない。復讐という樹に幸福という実は決して実らない。リヴェンジなんて言葉は、恥知らずだけが使える偽の言葉だ!成すべきは復讐ではなく、抵抗であり、リターンマッチだ!10年かかろうが、一生かかろうが、たとえそれが逃走であったところで、成すべきは決して復讐ではないはずだ。僕は、そう信じている。

僕は、法による救済なんて信じない。だけど、人は信じる。たとえどんなに汚れていようと、人の愛を信じる。だから、復讐なんて「偽の憎悪」を、僕は絶対に信じない。「真の憎悪」は愛だ。愛を説くふりして、死―魂の消滅―を説く呉智英こそ、断罪されるべき裏切り者だ!彼の説く復讐の先に楽園があったとしても、そこに希望も愛もないのであれば、僕は救済などいらない。僕は絶望に満ちた失楽園で愛を希望する。

人は愛ゆえに死してはならず、愛ゆえに苦しまなければならない。それゆえに、死すべきは加害者でも被害者でもなければ、蛇の目をもつ偽預言者でもない。それは、呉智英などという紛い者がいけしゃあしゃあと説く腐った言葉であり、この忌まわしき呪詛だ!腐った林檎は、まわりが腐る前に火に投げ込まれなければならない。

L、知ってるか?死神は人の血で染められた林檎しか食べない。