偏見なき無理解

前回(正義なき正義感 - Nash Bridgesの始末書)の続き。

シム宇宙の内側にて 【追記あり】 『2ちゃんねる型「正義感」のいやらしさ』 のいやらしさ

あと、個別の点について。まず、下記のページのコメント欄で 「『2ちゃんねらー』 を 『2ちゃんねる帰属意識がある人』 と独自に定義しているので、いわゆる2ちゃんねらー全体を一括して批判したわけではない」、との趣旨の発言をなさっていますが、何でも好きなように定義することが許されるわけではありませんよ。

http://d.hatena.ne.jp/ululun/20070114/1168750345

matsunaga 『そうなんだよね。だから帰属意識というキーワードがなかったら、あの文章は書いてない。
2ちゃんねらーには実体がない」とかいう発言が出てくる人は、私の記事を読んでいない、あるいは読めていない。国語力の問題だ。』 (2007/01/14 22:45)

例えば、私が仮に 「松永」 を 「松永という苗字の人のうち、バカな人たちのこと」 と定義して、「松永は消えて欲しい」 と言ったら違和感を覚える人がいるとは思いませんか?

すでにある程度知られている言葉を下手に定義しなおしては、誤解を招くのは当たり前です。国語力の問題、と言うなら、誤解を招くような身勝手な定義を行った 松永 さんの国語力にも相当問題があります。

「国語力がない人間の文を普通に読解できる人こそ、真に国語力がある人である」と小一時間(略w という、「以外」とtypoしてしまうことを意外と知らない上に母語と母国語の違いには無頓着のくせに日本語の正しさにだけは異常に執着するワープロ音痴な爺の揚げ足とりに相等するぐらいに相当ヴァカで、チームをティームと発音する売国奴なサッカー解説者以上に痛いツッコミは置いといて……。


正直、松永さんがどこまで僕の読んだ通りの意見をお持ちなのか、分かりません。ですが、「帰属意識」というキーワードがなぜ大事なのか id:ululunさんも fw0さんも理解していないような気がします。

お二人とも、「帰属型2ちゃんねらー」という特殊な集団を「2ちゃんねらー全体」から二分法的に定義しているかのように解釈なさっていらっしゃるようです。


でも、これは誤読ではないでしょうか?


松永さんが指摘したいのは、そういう特殊性ではないはずです。そうではなく、2chというシステムを媒介して発生する数々の現象――それらの特殊性が共有する普遍性を「帰属」や「2ちゃんねる型の正義感」という特殊性で定義する。

つまり、「炎上」や「義援金活動」といったさまざまな「祭」が<共有する構造>なのではないでしょうか?その構造を「2ちゃんねる型の正義感」とおっしゃっている、と僕は読解しました。

だから、「死ぬ死ぬ詐欺」も「ブログの炎上」も「寄付活動」も「浜辺のゴミ掃除」も、それがどんな善意・悪意・快楽にもとづく「善い行い」・「悪い行い」でも、<責任のなさ>という共通項がある。異なる特殊性の中に共通する普遍性。それが、松永さんの主旨だと僕は読解しました。


そして、その構造はマスコミの姿勢とも共有される。「公」を盾に「社会正義」や「知る権利」を振りまわすマスコミ。彼等はMASSであり、PUBLICではない――<大衆>。公衆の仮面を被った大衆――それこそが「2ちゃんねる帰属意識をもつ2ちゃんねらー」の正体。


結局、松永さんは「2ch」という特殊性を利用して<大衆>という普遍性を批判しているんですよ。「素朴で正義感の強い人たち - 玄倉川の岸辺」のパクリもなにも、ただの大衆批判じゃないですか。だいたい模倣のないところにオリジナリt(ヴァカなツッコミ略w


一方、「宗教なんて正義感を振りかざすもの」というのはどういう意味なんでしょうか?ヒトリヨガリという意味なんでしょうか?まぁ、そのへんは fw0さんの宗教観の問題なので横においておきます。ただ、「宗教なんて正義感を振りかざすもの」が「宗教とは、『責任』を負わない<大衆>的なものである」という意味であるならば、これは違うのではないかと思います。


たしかに、宗教を信じる多くの人は<大衆>かもしれない。だけど、宗教を創った人は「革命家」だったと思うんです。イエスムハンマド仏陀も「革命家」でしょ?

なら、革命されたセカイに安住するだけではなく、そのセカイを作り上げた「教祖の生き方」に近づく事だって信者にはできるんじゃいだろうか?だからこそ、仏教には解脱というものだってある。


革命されてしまったセカイで革命を起こさずに革命家であることができる可能性。


なにも宗教に限った話じゃない。自分の病気を個性だと言いきる人達がいる。だけど僕は病気や疾患を個性だなんて思わない。それは間違いなく欠陥であり、劣性だ。病気そのものは、決して個性なんかじゃない。でも、それが個性と呼ばれるに値するとすれば、それを通して獲得した「貴方という人格」であり、「貴方の生き方」だ。

だから、貴方が強く生きるために必要な物語であるならば、それがルサンチマンの塊だろうが、偽りの希望であったところで、誰が非難できるって言うのさ?


夢みる少女で何が悪いの?


たとえそれがゴマカシだって、彼女は毎日に実りを感じている。たとえそれが弱さの印だとしたって、彼女は強く生きている。たとえそれが堪えがたい態度だとしても、彼女は毎日を堪えぬいている。


<大衆>的であるかどうかなんて、宗教を信じる・信じないとか何ら関係ないんじゃないの?そんなチンケな話なんかじゃないだろ?


気高き大衆のみる夢物語――。始まりは偽りだったかもしれない……だけど気高く生き続ける態度にゴマカシなんてないはずだ。それが、いつか全身タイツの王子様が助けに来てくれる――なんて本当はどこか信じちゃいないのに、そんな「いつか」を夢みて…ゴマカシもって毎日を生きる大衆に残された希望。

Kyrie eleison