なぜなら、彼は魚雷だからギョラ!

加藤典洋よ、お前は既に死んでいる - 猫を償うに猫をもってせよ
まず、引用されている文章について一言。批評に関する加藤の文章は『言語表現法講義 (岩波テキストブックス)』に収録されている。どういう文脈で使われているかを知りたい方はそちらを参照して下さい。

とりあえず、僕は現物を読んでいない。だから、加藤が如何に的外れなのかは判断できません。されど、加藤の言説に対する的外れな批判を問うことは出来ます。

最後に余計なことが書いてある。ストーカー規制法制定以後ならば、作者は犯罪者として処罰されていただろうなどとあるのだが、これまた平然と作者と主人公を同一視しているのはともかく、「悲望」の主人公がしたことは、拒絶の意思表明の前に手紙九通、意思表明のあとで手紙一通、あとちょっと手を掛けたほかは、同じ大学へ留学したことと、普通の葉書一枚と、お詫びの手紙二通を出しただけなのだから、逮捕などありえない。一般にストーカー規制法で逮捕されるのは、拒否の意思表明のあとにも、二十回以上にわたって電話するとか脅迫するとか、何度も待ち伏せするとかそういうケースである。だいたいが文学者たるもの、ストーカー規制法などというものは、文学の敵である可能性もあると考えるべきで、

なるほど。『悲望』ってのは「電車男は実話である」と著者が主張するフィクションであり、「痴漢男がストーカーに間違われハッピーエンドを迎えた」という売れ筋構造の逆を逝く「フィクションである」と著者が実話性を否定する、ストーキングでデッドエンドな物語らしい。かはは、傑作だぜ――ただしキモイ且つネタにマジレスカコワルイみたいなーーーー!w ハハキトクスグカエレ

引用の前半は場合によるだろうな。一通の手紙でも、死の宣告カウントダウン開始な可能性だってある。もちろん、量がなければ警察は動かない。されど、逮捕されなければ問題ない、というわけでもないだろう。後半は理解可能。文学に配慮もヘッタクレもネーよ。ただし、多少でも実話風味ならば当時者間でなんらかの意思疎通はあって然るべき。そして、合意があるならば、そんなのは他人にとやかく言われる問題ではないのだろう。(ただ、この類の毒薬小説で作者がどのように書き手としての責任を果たすことが出来るのか、僕にはさっぱり分からない。その点、『恥辱』なんかは上手く責任を果たしている気がする。)ってゆーか、あなたがこうやって予防線を張って自己弁明をしてくるであろうことを私はあらかじめ予測していました。これぞ想像力!(違

蛇足なんだけどさ、加藤が「配慮」という結論に至ったのって、やっぱり誠意が感じられなかったんじゃないかな?暴露私小説として思いつくのは『こころ』の先生と『友情』の大宮なんだ。いや、どちらも小説内部での暴露というか懺悔みたいなものなんだけど……。ちょっと、現物に興味が湧いてきました。


以下、本論となる加藤擁護。

「本を100冊読む人の批評と、全く読まなくても自分の考えで生み出す批評とはサシで勝負できると思う。そうでないと批評が死んでしまう」

そもそもこんな時評を書く時点で、加藤の批評など死んでいる。このような反知性主義的な言葉に若者が惑わされると迷惑だし、学問を軽蔑しているなら大学教授など辞職してもらいたい。

これは勘違いだよ。加藤のオジサマは学問重視とか軽視とかいうことを主張しているんじゃない。「学問っていう筋肉でムキムキしているマッチョな人しか出来ないのが批評ならば、それは不健全だ」と言っているのだと僕は解釈しました。現に、『言語表現法講義 (岩波テキストブックス)』ではヘタだけど味のある元パンピーというか、ガキんちょの書いた文章が載っています。

だから、加藤典洋に「教授を辞めちまえ!」って言ったら「はい、よろこんで、大宮さま」みたいな返事がくるのではないか、と勝手に想像しています。ただし、文学的視点において、という条件付ですけどね。(そりゃぁ、現実的にみれば辞める人はいないでしょうよ。)だってさ、加藤典洋の目指すものって草の根的なものなんじゃないの?ゴツイ権威とか、マッチョな知識なんて関係なしに率直に感じたままの意見を述べる。そう、モーティマーが言うところの「分析読書」一本勝負なわけ。もちろん、「シントピカル」じゃない読書なんて真の批評に値しないって言われちゃえば、そうだろうさ。でもね、そんな批評未満の感想にだって偽りは無いでしょ?

たとえば、ブギーポップを絶賛する12歳と地雷認定を下す70歳がいたとする。批評としてはどちらに価値があるんでしょうか?爺さんにとっては、過去の古典の縮小再生産に過ぎない作品なのかもしれない。だけど、12歳の子供に届くことが出来たのはブギーポップなわけだ。だから、たとえ爺さんがどんなに豊富な知識やどんなに巧みな術をもって批評したところ、12歳のたった一言「サイコーに面白かった」に勝つことは出来ない、と思う。もちろん、だからといって爺さんの見解に価値が無いわけでもないし、間違っているわけでもない。むしろ全面的に正しいはず。しかし、そのうえで、学の無いヒョロイもやしっ子の批評に価値を見い出そうとするのが加藤流なんだよ。と、僕は理解しています。

加藤が言うような「恐怖と不安」は、そもそも作の冒頭に掲げられた手紙その他で当人が表明しているわけで、ではどう書けばその「想像力」とやらが欠落していないことになるというのだろうか。主人公兼語り手が、激しい懺悔の言葉でも連ねればよいのだろうか。それとも、女の側からその内面を書けというのだろうか。

加藤本で学んだところによると、「恐怖と不安」を描写せずに描写するという手段が残っています。でも、これって当たり前のことだよね。「空気を読め」ではなく、「空気で描け」ってこと。(やりすぎると途端にマッチョ化するのが危いところ)

つーわけで、大塚英志加藤典洋も小数精鋭で紡ぐ私小説文学なんてサッサと終わらせて、国民総私小説家化を利用して近代をソッコーで締めくくっちまいたい、と思っているのかもしれない。あれ、コレなんてポストモダン?ww

本を読む本 (講談社学術文庫)

本を読む本 (講談社学術文庫)

例によって、未読な輩で申し訳ありません。話も見えていないのでズレまくっている可能性も高いです。