空転絶誤6502

論理的弱者との戯れ - *minx* [macska dot org in exile]
http://takizawanor.seesaa.net/article/23225715.html
論理的弱者との戯れ 最終回(だったらいいのになー) - *minx* [macska dot org in exile]

性役割期待からの自由化を押し進めた結果消去される(可能性が、ずっと先の将来にはある、かもしれない)と考えられるのは、性差そのものではありません。ジェンダーという言葉を単なる性差の存在ではなく性差に関する規範と定義するならば、自由化されたものは論理的に言って「ジェンダー」ではない、すなわちその定義を採用する限りにおいて「自由化」が「ジェンダーの解消」に繋がるという当たり前の論理を言っているだけ。性差そのものが無くなると「認めた」ことは一度もありません。

「性差」と「性差に関する規範」を区別しているが、ジェンダーに関して、そんな区別は意味がない。妊娠の有無、身体的構造の違いといった生物学的性差とは、性格が違う。

macskaさんがジェンフリもう飽きたよで「ジェンダーというのは辞書的には文化的・社会的な性役割や『男らしさ/女らしさ』といったものを指す価値中立的な言葉だけれども、現実にそれは一種の規範として強制力というか圧力を持つわけ。ジェンダーフリーの立場は『性役割の強制はよくない』『男らしさ・女らしさの強制はよくない』というものだけれど、強制力を伴わない『ジェンダー』というのは実質的に考えられない。というか、辞書的な定義はともあれ、現実には強制力を伴う規範的なものが『ジェンダー』として認識されるわけ」と書いているとおり。

社会的性差は自ずと規範性を帯び、そうだからこそ代を次いで文化的に継承されもする。全く的はずれな反論で、言葉遊びの域を出ていない。というか、彼女のブログ活動自体、ただの言葉遊びなんだろうね。そう考えれば納得がいくよ。

確かに、ジェンダーに関する「ジェンダーフリー運動」には「圧力」や「強制力」というものは発生しがち。というか、現にジェンダーを理解していないジェンダーフリー論者はジェンダーを「規範」として利用している。

論理的弱者との戯れ - *minx* [macska dot org in exile]

性役割期待からの自由化」がジェンダーフリーだということに異論はない。一般的な定義としてはだいたいそんなところだろう。

 はい、じゃあ議論終了。

性役割期待という「構造」からの自由化がジェンダーフリー、という点では両者は一致。ただ、現実問題としてジェンダーフリーを推し進める際に必ずイデオロギー化(物語化)して「規範」になってしまう、とbruckner05さんは考えていらっしゃるようだ。それが「自由化は性差のない状態をもたらす」といった必然性を導いている。と、思ったんだけど……どうやら、素でジェンダーを「構造」ではなく「物語」と捉えてるようだ……。

http://takizawanor.seesaa.net/article/23205647.html

座談会で一般読者に向けて「ジェンダーフリーが『ジェンダーレスではなくジェンダーの自由』だとする意見に対し、あるバックラッシュ論者が『自由になったものはもはやジェンダーではない、すなわちジェンダーの自由はジェンダーレスと同義だ』と言っているんですが、それは実は正しいんではないかと思ったりします。そういう意味でジェンダーレスと言うなら、ジェンダーレスで何が悪いとわたしも言いたい」なんて宣言をする必要はなかった。「自由になったものはもはやジェンダーではない、すなわちジェンダーの自由はジェンダーレスと同義だ」は「あるバックラッシュ論者」の私的なつぶやきにすぎないものではなく、普遍的な妥当性を持つと認めたからこそ、座談会という公的な場所で宣言したわけでしょ。それを今さら、相手に合わせただけ、みたいに言うのは、往生際が悪い(笑)。

100歩「譲る」必要はないんです。論理を辿れば誰もが納得せざるを得ない真実なんだから、事実その通りと認めればいいだけです。ジェンダーフリーが画一化(男にも女にも同じことをさせる)をもたらすとき、それが性差否定、性差解消として批判されるのは当然だ。これがジェンダーレスだということは、今やジェンダーフリー論者も認めている。

ここでバックラッシュ論者の使う「ジュンダーレス」が『ジェンダーという「構造」の消失』という「性役割期待からの自由化」であるのに対し、bruckner05さんの使う「ジェンダーレス」は『性差(男らしさ・女らしさ)の消失』という「性差のない状態の強要」になっているクイチマジカル♪(そもそも、その「性差」が生物学的ものなのか、それとも文化的ものなのか、bruckner05さんの使い方からはイマイチ釈然としない印象を受けた。)

そのあとに

性役割期待からの自由化」と「性差のない状態の強要」とでは全然意味が違うわけで、それらを同じ語で表現するのは議論の混乱を招くだけだと思うから。

性役割期待からの自由化」がジェンダーフリーだということに異論はない。一般的な定義としてはだいたいそんなところだろう。しかし私が言っているのは、「性役割期待からの自由化」は「性差のない状態の強要」と同じだということ。

分かっているのか分かっていないのか…??なところだが……。ジェンダーをセックスと混同しているのか?いや、そんな瑣末なレベルでの誤読ではないきがするが……。

浅学ながら意見を述べさせていただくと、構造主義の系譜であるジェンダーというものが構造ではなくイデオロギーに回収され、新たな物語として旧来既存の物語を否定する――そういった大きな物語に回収されてしまう危険性を指摘しているのでしたら、bruckner05さんの反論は的を射たもの。だけど、テキトーに読み流した感じだとジェンダーフリーであるところのもの…というか存在というか定義というか…「それ自体」が新たな物語である、という主旨であるように「性差否定」や「性差解消」といった言葉から読み取れます。そうであるのならば、それは違う。そういった意味で「『ジェンダーフリージェンダーレス』とバックラッシュ論者が認めた」と言いたいのならば、それは貴方の誤読であり甚だしい誤解である。件のバックラッシュ論者は、そんな「物語」を強要してなどいない

2006-09-04

性役割期待からの自由化を押し進めた結果消去される(可能性が、ずっと先の将来にはある、かもしれない)と考えられるのは、性差そのものではありません。ジェンダーという言葉を単なる性差の存在ではなく性差に関する規範と定義するならば、自由化されたものは論理的に言って「ジェンダー」ではない、すなわちその定義を採用する限りにおいて「自由化」が「ジェンダーの解消」に繋がるという当たり前の論理を言っているだけ。性差そのものが無くなると「認めた」ことは一度もありません。

こういう意味でジェンダーレスなんだけどなぁ〜。きっと分かってくれないんだろうな〜。in-genderとかanti-genderじゃねーんだよなぁ〜。gender-lessだとさ、genderという存在に対する否定っぽいから、a-genderって言えばいんじゃね?w ジェンダーの欠如だから反しているわけでも、否定しているわけでも、賛同しているわけでもないwww 皆さん、今度からはジェンダーレスではなく、アジェンダーで参りませう!ま、macskaさんもとんだアヴェンジャー*1に絡まれてますね。

まぁ、論理の飛躍があるし、非論理的な部分も多いように思われるbruckner05さんの論だけど、問題意識は間違っていない。論理、論理、言う前に「何を議論しているのか?」テキトー傍観者としては意味不明。ジェンダーは共通認識されててジェンダーフリーの在り方を論じているのか?ま、bruckner05さんがトンチンカンに3000点。ってか、4月からって……オマエラまだ議論してたの?(笑

コメントも無駄に長文羅列だから、切込隊長に例のイナゴメソッドですっきりばっちりかっきりぽっきりさっくりばっさりざっくりメッタ斬り快刀乱麻して貰いたいところだ。(あのエントリーは爆笑だったな。乙武さんもゴクロー様ですよ、ホント。)

*1:全然、うまくネーYO