24時間テレビの偽善性

身体障害者でもやればできる」ということを証明させるための番組。この番組の思想が如何に独善的で醜悪なのか、多くの方は直感的に理解しておられることだろうよ。

http://www.netwave.or.jp/~m-kenji/page/rousi/rousi034.htm

大道汎兮其可左右。萬物恃之而生而不辭。
功成不名有。衣養萬物辭不爲主。常無欲。可名於小。
萬物歸焉而不爲主。可名爲大。
以其終不自爲大。故能成其大。

大道は汎(はん)として其れ左右すべし。万物、之を恃(たの)みて生じて辞せず。
功なりて名を有せず。万物を衣養(いよう)して主と為らず。常に無欲にして、小と名づくべし。
万物、焉(これ)に帰して主と為らず、名づけて大と為すべし。
其の終(つい)に自ずから大と為さざるを以て、故に能く其の大を成す。

「大」とは何ぞや?車椅子で生活しなければならない―人間の生態から言えば劣った―欠陥製品が、五体満足の人間が登るように富士山に登ることなのか?いや、違うはずだね。僕はね、自分の劣性を個性などと安易に位置付けて逃げるのが大嫌いなんだよ。足が無ければ、その分、劣っているのは事実だ。人それぞれの個性なんていうルサンチマン炸裂メガネで世界の解釈を変えるなんて、僕には堪えられない。そんなチープな個性なんて要らない。髪を染めれば個性なのか?ブランドで身を固めれば個性なのか?僕には障害そのものを個性と見る愚鈍な思考に同じ下劣さを見るね。

健常者と同じように富士山に登るんじゃない。身体障害者が登るように富士山に登り、健常者と同等の達成感を得るのが大道であるはずだ。身体障害者は健常者になる必要は無い。そんなものは「大」でも何でも無い。自身に出来ることを見極め、薫陶し「為さざるを以て成す」ことこそが真の「大」であるはずだ。即ち、個性は劣性などといった性質に属するのではない。個人の生き様、個人が示す道にこそ見て取れる品性だ。

だから思うんだよ。出来ないものは出来ないでいいだろ?サヴァンの人にはサヴァンの生き方がある。日常生活に助けが必要だからって、日常生活が一人で送られるように矯正することの品の無さを認めて欲しい。健常者のやり方で生きさせることが福祉なのではない。そんな独善的な行為こそ、個性の否定だ。むしろ僕達は、まず、彼らの凄さを認め、彼らに彼らの凄さを認識させる必要がある。これはなにもサヴァンのようにある種の有能な疾患をもっている人々に限った事じゃない。知恵遅れだろうが何だろうが彼らには自身の尊厳を獲得できる環境を用意する。それが真の意味での福祉だと僕は考える。

と、日曜の社会福祉セミナーで講じられていた「縦の関係」を聴いて思ったことを書いてみた。これの内容は「同年代グループだと障害者は常にお客さん」だから「自分より発達が送れた子達と遊ばせる」そのことによって「年下・同年・年長者との関係を一段一段と築いていく」といった内容だった。見方によっては発達の遅れた子を馬鹿にした教育方針とみれるかもしれない。だけど、勝つことの出来ない環境に置かれつづけること、輪に入っても同等に扱ってもらえない悔しさ。そこを看過しちゃいけない。

学校ってのは同年代しかいない不思議空間だと言われたりもする。だけど本当は同年代だけじゃないんだよな。先輩もいるし後輩もいる。同程度の年代かもしれないが、そこには確実に層がある。ならば、飛び級を認めるだけじゃなくて下がり級*1だって認めてしかるべきだろ?それでいて、遅れた子が劣等感を抱かないですむような組織であることも必要だ。そんな新しい学校がいつの日かできないものだろうか。

*1:なんかもっと中性的なネーミングはないものか?