村上春樹のスピーチに隠された3つの「オヤジギャグ」

以下では、件の春樹スピーチの一文一文を取り上げ、他人の翻訳にケチをつけたり、どうやればこのような翻訳にたどり着けるのか考えてみたり、なんとなく思いついた疑問を、「ある一つの仮定」を軸にして放言してみたりしてみます。

その仮定とは、「英語には、単語がもつ意味以前に、冠詞自体に既に意味がある」という仮定です。*1

仮定についての蛇足:冠詞という普遍性は存在するのか?(英文解釈は下にあります)

なんでこんな仮定が必要なのかと言うと、「メタファーの意味を解釈する以前」の部分に、なにか「普遍性」があるんじゃないかって気がするんです。


その普遍性の「鍵」になるのが、「冠詞」なんじゃないのって気がするんです。


つまり「メタファーの意味を解釈する以前」にある部分というは、「冠詞という体系自体が既にもってしまっている文脈」なのではないか――ということです。

同じ「真実」でも、truth / a truth / the truth がもつ卵の殻って、無冠詞と不定冠詞と定冠詞が持つ機能の差とか、構文機能とか談話機能とか情報構造とかではなく、「冠詞それ自体の存在論的なニュアンス」があるのではないか?a truth と the truth は「別の『真実』」なのだろうか?という疑問。

たとえば、冠詞が卵の殻だとすると、卵の中身が半熟か生か硬いかとか――そういう話以前に、殻の組成が既に違うのではないか?仮に組成が同じカルシウムだとしても、ウズラとニワトリとダチョウでは大きさが既に違う、それと同様に冠詞にも大きさの違いが「既に」あるのではないか?「メタファーの意味」が解釈される前に、<初期値としての「既の意味」>が冠詞によって言明されているのではないだろうか?

冠詞のそれぞれの違いがどんな機能を談話とか統語とか構文とかの観点から持つことができるかってことに必然性は無いのかもしれない。でも、バレーボールの球でバスケットボールはできるけど、ゴルフの球でバスケットボールはちょっと無理だろう――と同じような理由で、冠詞自体の在り様にも、なにか交換不可能なニュアンスがあってしまうのではないか?

僕はそれを知りたい。幸い、僕よりも英語ができるであろう方々、僕よりも村上春樹をよく読んでおられるであろう方々が英文を翻訳してくれました。そこに便乗して英語の勉強をして見ましょう!というのが僕の動機です。

冠詞が持つメタ情報

冠詞が持つ意味とは、メタ情報みたいなものであり、「書き手がイメージする単語の意味内容を理解できるか否か?」という以前に、「そのイメージに読み手がたどり着けるかどうか?」という情報が冠詞に付与されている、と仮定するということ。

パソコンのファイルで例えるのならば、.txtに書かれている文章を開く前に、.txtのファイルサイズは少なくとも分かる。といったかんじ。

定冠詞のもつ同定という機能は3方向に伸びる(前・上・後)

定冠詞には照応という機能があり、それは3方向に向けられている。それらは、「既に出てきた前方・どこにも出てはこないが辞書などに載っている上方・これから出てくる後方」の3つ。要は、前の文か、辞書などか、後ろの文か、この3つの方向をチェックすれば単語の意味が分かっちゃうってことです。

true / a truth / the truth のメタ情報を読み解いてみる

村上春樹のスピーチには3つの「真実」がある。true / a truth / the truth の3つが、彼の「真実」だ。

文中に記された3つの「真実」――これらが実際のところ同じものを指し示しているのか、違うものを指示しているのか、いくつかは同じでいくつかは違うのか?同じ "the truth" でも違う場合もあるのか?そこについては深追いしない。

卵の殻の中に入っているであろう意味を無視する代わりに、この3つの卵の殻に刻まれているメタ情報についてだけ考えてみたい。そのメタ情報はルールに従って書かれている。国語の授業にも、よく注意されるルールがあるだろう。指示語に注意し、指示語が「何を指し示しているのか」理解しろ、と。だが、そのルールを逆に言えば、指示語と言うものは「よく読めば読者にも分かる何かを指し示していること」だけは確かであり、むしろ何かを指し示さずにはいられないわけだ。それがルールなのだから。

ここで言う「指示語」とは、「定冠詞(the)」のことだ。たとえ何を指し示しているかは定かではなくとも、必ず何かを指し示してしまっているはず。そして、何を指しているかは最終的には分かってしまうはず。それがルールなのだから。

そうであるのだから、書き手と読み手は必ず分かりあえる。少なくとも、書き手は読み手にも分かってもらえると一足先に賭けているはずだ。それが定冠詞のルールなのだから、だからこそ、定冠詞の the をその名詞につけたはずなんだ。――という風に、冠詞ルールを逆手に取れないだろうか?

メタファーは解釈しない。代わりに、the systemを使う。the system とは、冠詞のルールだ。そのルールだけで、どこまで読むことが可能なのか試してみたい。

本筋とは関係ない蛇足2:冠詞に意味なんてあるんだろうか?

冠詞自体に意味があるのか、冠詞と名詞の構文みたいなものから発生しているのか、英語の言語特性に沿って文章を書いていると、たまたま冠詞ルールが存在しているかのように解釈できてしまうのか、それとも文脈とかなんか別のところに発生源があるのか。その辺は分からないし、知らない。

「『村上春樹の言う真実』が指し示すもの」なんて同定することはできないのかもしれない。もしかしたら、いつかは照応先を見つけられるのかもしれない。それでも、たとえ言語外照応で、僕には同定することができない『真実』だとしても、『真実』の存在は冠詞が明示してくれる。

冠詞という普遍性

冠詞というルールが持つ普遍性。村上春樹のスピーチにおいて、それは彼の意図したものではないのかもしれない。ただ単に、英語というシステムが、そのように書くことをルールとして要請しているだけであり、なんの意味も無い抜け殻でしかないのかもしれない。

それでもやっぱり、現に目の前に冠詞は存在してしまっている。僕はこの「冠詞というルール」がとてもズルいように思える。僕は日本語もろくに勉強したこともなければ、英語だって日本語以下だ。だからこそ、ありもしないものが見えてしまうのかもしれない。それでも、僕には、このルールが―冠詞というルールがもつ、照応という機能の普遍性が―英語から日本語に翻訳される過程で消えざるをえないのではないかと思えてしまう。

言語への信頼って、実は冠詞が影から担保してたりはしないのだろうか?という疑惑

消えてしまうものは、意味というほどに確かなものじゃないかもしれない。意味を理解するという点からすれば、どうでもいい程の誤差かもしれない。だけど、英語という言葉の根幹にある信頼感が―もちろんそれは嘘であるのだろうけども―冠詞というルールにはあるのではないか?

哲学などでいう理性が、元来どんなもので本来はどんなものであるかは知らない。だけど、英語で理性への信頼を語った時、その背後には、もしくは足元には、冠詞への信頼から溢れ出ている部分もあるのではないだろうか。それは「理性」である必要など無く、「真実」であっても同じではないか。

なんかチート臭いんだよね、英語にある冠詞ってシステムは。(ま、この冠詞、文法なのか語法なのか、イミフだけど。)

「3つの真実」がどのように翻訳されているか「冠詞の有無」を軸に比較する

5つの翻訳を読んでみた。id:shota さん、 id:finalvent さん、 増田の方、47news、bijoux_iris さん。

基本的に、確認する内容は truth が多用される1段落だけ。メインの日英比較には、finalventさんの訳を使わせていただきました。これは個人的な独断と偏見によるベスト翻訳だと判断した結果です。

以下を読んでも、英語に対する個人的な疑問しか書かれておらず、「だからなんだ?」と言う話で、僕も「だからなんでしょう?なんでもないですね!」としか返せない、日英翻訳って不思議だなー。

前準備:定冠詞による同定とは
  1. this is a pen
  2. this is the pen
  3. there is a pen

this は倒置と言ってもいいのかもしれんし、there と同じなのかもしれない。This is a pen. とは、「これはペンです。」という説明ではなく、「ここにペンがある」という存在の主張――と、仮定しておく。

a truth という存在は、どういう意味を持つのかは分からない。しかし、ひとまず、ここに存在していると宣言される。その「存在の宣言」が、a truth のニュアンスだとする。

存在なんてものは緑の悪魔みたいなもんで、ポリゴンの向うにいることは分かっていても、幕府の刺客なので配管工には触れられない。つまり、the という定冠詞で同定(お互いに触れること)はできないのである。

同定できないと言うことは、話し手が「あの本だけどさー」と言っても、聞き手には「どの本」なのか分からないということだ。お分かりいただけたか、西郷どん

そこで、"the truth" と村上春樹が書いている以上、これは「同定可能なもの」―つまりは緑の悪魔のレプリカ―であると書き手である村上春樹が一足先に見込んでいるはず。だからこそ、定冠詞(the)が使われているはず。


とりあえず、The System は江戸幕府ではないようですよ、往壓さん!

翻訳の違いを比べる(true / a truth / the truth の訳し分け)

ヘタレ配管工であるという立場を離れて言う。他人様の翻訳にケチをつけるわけだが、あくまでそのように僕が勝手に理解したと言うだけです。誤読されるのは甚だ不快だと思いますが、ご容赦ください。

  • http://d.hatena.ne.jp/sho_ta/20090218/1234913290
    1. a truth / the truth を区別して訳していない
      • true of me... は「私これは僕にとっての真実であり、皆さんにとっての真実でもあります」
    2. 「本当のこと」は、慣用句として処理されているように読める
  • 村上春樹: 常に卵の側に
    1. a truth / the truth を区別して訳していないのは同上。
      • true of me... も「私にとってほんとうの事であり、あなたにとってもほんとうの事です」。最初の appear to be trueだけが「ほんとうのよう」で、他の truth / true は全て「ほんとうの事」で統一。
    2. truth と let me tell you the truthを「ほんとうの事」で共通させているのは僕の好みです、はい。
  • http://www.47news.jp/47topics/e/93925.php
    1. a truth / the truth を区別して訳していない。むしろ、 true / truth で線を引いている。
      • appear to be true を「現実」と訳している。true of me... も「(私たちはそれぞれ、壊れやすい殻の中に入った個性的でかけがえのない心を持っているのです。)わたしもそうですし、皆さんもそうなのです。」で、ほぼ同様のニュアンスで継続してるよう。
    2. let me...truth を 「真実をお話しします」じゃダイレクトすぎやしないか?これダジャレだよね?
  • 村上春樹、エルサレム賞受賞スピーチ試訳: 極東ブログ
    1. a truth / the truth を区別して訳していない
      • true of me... は「これは私には真実ですし、あなたにとっても真実です。」
    2. ホント(ホラと対比っぽい)。ギャグ臭くもあって、ぼく好み。
  • びじうのログ:村上春樹 受賞スピーチの翻訳 全文
    1. a truth / the truth を区別して訳していない
      • true of me は「(唯一無二でかけがいのない魂を壊れやすい殻の中に宿した卵なのです。)それが私の本質であり、皆さんの本質なのです。」
    2. let me...truth を 「率直に言います」という慣用的な訳なのかも。

英文解釈1(冠詞の普遍性)〜Haaretz原文とfinalvent訳の比較

  • Why should that be?
    • 何でそうなっているんでしょうか?

finalvent さんの訳が精確かも。be の「存在」感*2を前面に出すには、この訳が適していると思う。

また、なぜ"why should it be?" とは書かなかった・書けなかったのかという問題も気になる。

this that と I You She He It はメタ情報のもつニュアンスが違うのではないか?という冠詞のニュアンス差を、指示代名詞や人称代名詞まで広げてみた疑問。

  • My answer would be this:
    • 私はこう答えたいと思います。

ここ、this 以外に定冠詞を使った定型表現みたいなのはあるのだろうか?ちょっと気になった。「村上春樹は、敢えて this を使ったのではないか?」という疑問が成り立つか否かに関係する。

なんでこんなことを気にするかと言うと、どうやら this/that のような限定詞と the(定冠詞)がもつニュアンスには違いがあるようだから。(ただ、これらがそれぞれ持つニュアンスなのか、使われる場面の傾向から生じているニュアンスの差なのかは知らない。本当にそんなものがあるのかも知らない。)

  • Namely, that by telling skillful lies - which is to say, by making up fictions that appear to be 「true」 -
    • つまり、創意のあるホラ話を語ることで、なんていうかな、作り話を「真実」であるように見せることで、

前の文では「writing fiction」と無冠詞で書かれていたが、今回は≪making up fictions≫と複数形になっている。「無冠詞(ゼロ冠詞)」と≪複数形(不定冠詞の派生)≫との違いは、フィクションが「元素」か<単体>かの違いみたいなもんだろう。


同様の違いが 「true」- ≪truth≫ にも成り立つのかが疑問。


つまり、「冠詞の付いてない名詞」は「形容詞」に近くなると仮定すると、≪形容詞を名詞の形に変形すること≫が≪冠詞をつけること≫と等価ではないのか?という疑問に繋がるのです。

  • the novelist can bring <a truth> out to "a new location" and ""shine a new light"" on it.
    • 小説家は新しい場所に<真実>を生み出し、新しい光をあてることができます。

基本的に、不定冠詞のメタ情報は、「同様に確かである任意の1個体」ってかんじのようだ。同じ ipod であるのならば、シリアルナンバーの違いは気にしないでいい。ただ、それはつまり、書き手と読み手が同じシリアルナンバーをもつ ipod を同定することはできないともいえるのかもしれない。

ここは少し言いすぎかもしれない。ammoral とimmoral の違いみたいに、ただ単にシリアルナンバーへの関心が欠如していると言う表明でしかないのかもしれない。

むしろ、不定冠詞は新キャラの紹介みたいなもので、それを定冠詞で受ける時は、やはり前に出た不定冠詞とシリアルナンバーが同定されるのが普通だ。だが、普通でないこともできる。新キャラだが中の人の都合で即死するような狂言回し。村上春樹は a truth のシリアルナンバーを同定させる気なんてないのかもしれない。理屈の上では、the truth が前出の a truth 以外を指し示すことは可能だし(言語外照応で辞書とかか、後方照応で後ろの文か)

このへんは、finalvent さんが a truth と the truth を訳し分けていないことに繋がる部分もあるのかもしれない。

つまり、finalvent さんは、「the truth は a truth を受けている」と解釈したのか、それとも、不定冠詞(a)のもつ「同様な確かさ」と定冠詞(the)のもつ「同定可能性」とに、同じ「普遍性」を見ているからなのか、もしくは別のナニカか……。

  • In most cases, it is virtually impossible to grasp <a truth> in its original form and depict it accurately.
    • たいていは、現実のままのかたちで<真実>を掴むことや正確に描写することは不可能です。

基本的に、不定冠詞はシリアルナンバーの同一性を保証しないが、不定冠詞を使い続ければシリアルナンバーを維持できる場合もレトリックとしては存在するようだ。

  • This is why we try to grab its tail by luring [the truth] from its hiding place, transferring [it] to "a fictional location", and replacing [it] with ""a fictional form"".
    • だから私たち小説家は、[真実]というものの尻尾を捕まえようとして、そいつを隠れた場所からおびき出し、虚構の場所に移し替え、虚構という形に作り直そうとするのです。

ここまでの一連の、appear to be true -> a truth -> the truth という変化(冠詞の使い分け)も気になるが、そこ―シリアルナンバーの継続性―は深追いしない。

んが、a truth という不定冠詞が付いている以上、「同様に確からしい truth」 が他にもメリーさんの牧場に入るはず。そして、the truth は、その中にいるベイブだけを指しているのか?元からバラバラな"a truth"が、「同様に確からしい」という点において、それぞれ備えている普遍性を指しているのか?

もしくは、同じ大きなワタ飴Aから千切られた a truth と、それぞれの a truth が所属していた大きなワタ飴Aを the truth は指しているのか?

なーんて疑問はあったりもする。僕としては、 a truth と the truth は、たとえ同じものを指し示していても、違う単語で訳したいような気もする。

不定冠詞の使い方として a truth を繰り返し使えば、同じシリアルナンバーの truth を指し示し続けること自体はできるらしい。当然、 a truth を the truth で受けることもできる。このとき、 the truth が受け継いだものがシリアルナンバーなのか、mp3プレイヤーという同様な性質なのか、その判断基準は知らないし判断する必要があるのかもわからない。

  • In order to accomplish this, however, we first have to clarify where [] lies within us. This is an important qualification for making up good lies.
    • しかし、これをうまくやり遂げるには、最初に自分たちの内面のどこに[真実]があるのかをはっきりさせておく必要があります。いいホラ話を作るのに重要な才能というのは、これです。

"where the truth lies within us" の "lies" は「村上春樹のオヤジギャグ〜その1〜」

This を最後に持ってきたのは、finalventさんの日本語感覚によるものなのか英語感覚なのかは分からない。

This is a pen とか there is 構文と同じようなもんじゃね?って気もするがなー。Inversion と Fronting の違いというか。(放言

  • So let me tell you [].
    • じゃ、<ホント>の話をしましょう。

"let me tell you the truth" という常套句の部分、finalvent さんは 「ホラ」に合わせて「ホント」にしているんだと思う。 lies と the truth が対比されているくさい部分の処理としては、ここもfinalventさんのが良いと思う。「村上春樹のオヤジギャグ〜その2〜」

  • They cannot genuinely trust anything they have not seen with their own eyes or touched with their own hands.
    • こいつらは根っから、自分の目で見て自分の手で触ってみないかぎり、何も信じないのです。

tru 繋がりで trust ってだけ。意味なしネタなしオチなし。

  • This is true of me, and it is true of each of you.
    • これは私には真実ですし、あなたにとっても真実です。

"true of me" を "kind of you" の要領で「〜の本質@bijoux さん」と訳す より、finalvent さんのように a/the truth の翻訳に合わせて「〜の真実@finalvent さん」にした方が良い気がする。"本質"のようなニュアンスでいくのなら "the truth of me" のような"同格"を使うのではないか?(この文章において、は一種の固有名詞のように扱われているのなら、後方照応的に the truth を新たに使うことは無理かも?という疑問は置いておく)

ここのtrueは、やっぱ "the truth(固有名)"の変形なんだと思うな。me / you という hiding place にlies している"the truth"「真実」。そしてその「真実」は、外から来るものじゃなくて、「私」に「属しているものの分離(of)」なのかな?

英文解釈2(無冠詞の普遍性):a wall / the wall / that wall / an egg / the egg

a / the / that の使い分けに注意したい。(複数形[-s]は不定冠詞[a]の派生とします)

truth の解釈は、不定冠詞(a)や定冠詞(the)のもつ普遍性を仮定して話を進めてきたが、以降では限定詞(this/that)や無冠詞(ゼロ冠詞)のもつ普遍性にも話を進めるつもりです。

2つの普遍性:形而上レイヤー(定冠詞)と形而下レイヤー(限定詞)
  • ここで、以下のような違いがあるということにしてみる――
    • I know that man ... あの男に見覚えがある =外形という殻だけを知っている(形而下的な理解にとどまる)
    • I know the man ... あの男なら、よく知っている =性格も含めて知悉している(形而上的な理解をも含む)
  • Please do, however, allow me to deliver one very personal message. It is something that I always keep in mind while I am writing fiction. I have never gone so far as to write it on a piece of paper and paste it to the wall: Rather, it is carved into the wall of my mind, and it goes something like this:
    • 私の個人的なメッセージになるをお許し下さい。それは私が小説を書くときいつも心に留めていることです。メモ書きして壁に貼っておくとかまでしませんが、それでも私の心のなかの壁に刻み込まれているものです。こんな感じです。

the wall が初出ですね。ここの定冠詞は辞書を参照するようなタイプで、言語外照応で「一般的な壁」でしょう。まぁ、推測できる明意として、言語外照応の指示先は「ガザの壁」と解釈することもできるのかな。

次が、 "the wall of my mind" 。「壁(the wall)」こそが「私の心(my mind)」というような「同格」なのか、finalventさんの訳するように、<「私の心のなか」に属する「壁」>なのか。この辺の of の機微は分からない。

the wall of my mind の the wall が、前出の to the wall の the wall を受けているのかも分からない。

ただ思うのは、たとえこの the wall の元々が「ガザの壁」であり、この後に続く the wall がそれを受け継いでいてもいなくても、定冠詞それ自体の意味を考えれば、やはり「ガザの壁」以上の意味が the wall には付加されていくのだろうし、語らないことよりは語ることを選んだのなら、辞書に載ってる固有名詞ではなく、文章の中にしかない確定記述にこそ、コアになる何かがあるんじゃないかって気もする。そうなれば、the wall がそもそもとしてイスラエルパレスチナのメタファーであるかどうかは関係なく、<「壁」と「私の心」のつながり>のほうが焦点となるのではないだろうか?

無冠詞(ゼロ冠詞)のもつ普遍性

固有名詞って、無冠詞だと思う。もちろん、今回の The System や The Internet のように定冠詞が付いてる場合もあるけど、これは冠詞がキャピタライズされている時点で、定冠詞(the)としての機能は失われていると思う。

無冠詞ということは同定ができない。同じシリアルナンバーをともに触ることはできないと思われているか、確率的に0%ではないが、全く保証されていないのか。むしろ逆に、 Im fine thank you. のように、 fine は形容詞ではあるが無冠詞だ。「名詞は形容詞化する」と言ってたのはイェスペルセンだったか、仮に言ってたとしても、形容詞化という意味が僕にはよく分からない。しかし、形容詞と無冠詞の名詞が同じであるといえるのならば、φfine(φは無冠詞orゼロ冠詞を表す)という意味が通じることと同じ程度に φThe Systmem も通じるのではないか?通じてしまうのではないか?通じると信じているのではないか?

その φbelieve の主体は村上春樹ではなく、英語と言う言葉を使う人の全てではないのだろうか?

a truth と the truth を同じ単語で訳したfinalventさんの感覚は、φfine とか φhappyとかが通じる程度に普遍性がある、無冠詞というゼロ冠詞がもつ普遍性。不定冠詞にも定冠詞にも総称用法みたいな、全体を表す用法がある。同じ総称でも、a と the には違いがあると思う。もちろん、ゼロ冠詞にだって違いはあるだろう。

でも、冠詞自体がもつ普遍性ってなんだろう。本当にそんなものがあるのか?あったとして、ここで機能しているのか?あやしいかぎりではあるが……。

  • "Between a high, solid wall and an egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg."
    • 「私が、高く堅固な一つの壁とそれにぶつけられた一つの卵の間にいるときは、つねに卵の側に立つ。」

ここで初出の"the egg"。この egg についている定冠詞(the)は前方照応(既出のものを指す)なのか?

僕には、この定冠詞の同定というものが、なにを、どのレイヤーで定めているのかよく分からない。

不定冠詞(a)ということは「同様に確かである任意の1つ」なのだろうか?以前、finalvent さんは定冠詞と不定冠詞の違いをクラスーインスタンスで説明していたと思う。

その頃、僕はfinalventさんとは逆の比喩のほうがシックリくると思ってた。どっちが正しいとかはこの際問題ではなく、「不定冠詞が同様に確かである任意の一つ」であるのならば、「不定冠詞でもID管理がされている」ということになるのではないか?

定冠詞によるID管理(同定)との違いを強調するのならば、「シリアルナンバー」とでも言うべきだろうか。このipodも、そのipodも、違いは分からない程度に同様で、ipodのもつ普遍的な性質を代表できる程度には均質である、しかし、製造番号−シリアルナンバー−は違う。

  • Yes, no matter how right the wall may be and how wrong the egg, I will stand with the egg.
    • ええ、壁が正しく、卵が間違っていても、私は卵の側に立ちます。
  • If there were a novelist who, for whatever reason, wrote works standing with the wall, of what value would such works be?
    • でも、理由はなんであれ、小説家が壁の側に立って作品を書いても、それに何の価値があるのでしょうか。

the wall です。

  • What is the meaning of this metaphor? In some cases, it is all too simple and clear. Bombers and tanks and rockets and white phosphorus shells are that high, solid wall. The eggs are the unarmed civilians who are crushed and burned and shot by them. This is one meaning of the metaphor.
    • この例え話の意味は何でしょう? 場合によっては、単純明快すぎることがあります。爆撃機、戦車、ロケット砲、白燐弾が、高く堅固な壁です。卵はそれらによって砕かれ焼かれる非武装の市民です。それがこの例え話の意味の一つです。

ところで、"what is this meaning of..." という形を見たことがあるだろうか? the meaning of の the は後方照応(後ろから来る説明を予告するフラグ)だとしよう。これは、先に行った that man / the man の違いに沿えば、形而上的なレイヤーにアクセスしていると言うことになる。つまり、書き手は読み手にも分かってもらえる―同じものを見ることができる―と期待している。

この書き手の期待を読み手が逆手にとれば、談話分析とかそーいう手法的に、ここが書き手の言いたいことだとか、そーいうやり方にもなるのかもしれない。だが、書き手ー読み手」というのをひとまず置いて、the meaning と this metaphor の違いに焦点を当ててみる。

that man / the man の違いに重ねて考えてみれば、 the meaning は内側までもよく分かるはずの情報で、 this metophor は外側だけしか分からないはずの情報となる。

そしてこの meaning/metapor のレイヤーはブンの最初と終わりで逆転している――

"the meaning of this metaphor" - "one meaning of the metaphor"

記述文法には「文末焦点」という概念がある。そして、これと対比できるであろう概念として「重点」というのがある。この重点は規範文法にあるものなのか、伊藤和夫が作ったものなのかはわからないが、重点とはSVOCという文の要素であるという意味だと思う。

他方、焦点とは、古い情報ほど文の前に、新しい情報ほど文の後ろに来るという傾向から導出されたのかもしれない。僕はよく知らないのだけれども、時として、文末には副詞がきたりもする。基本的に、副詞は文の要素ではない。だが、その重点ではない焦点こそが、大事な情報なのではないか?

「この例え話の意味は何でしょう」という意味が this metaphor に対応し、「それがこの例え話の意味の一つです」という意味が the metaphor に対応する。the meaning は書き手も読み手も同じものを手に入れることができるというフラグだ。one meaning は、シリアルナンバーは違っても、同様なipodを手に入れることはできるというフラグだ。


the meaning of this metaphor = the metaphor と考えれば、 one of the meaning of this metophor と書き換えられるのかもしれない。


このような使い分けが the wall / that wall にもなされている可能性はあるのだろうか?(この疑問の限定として、そもそも that man / the man に形而上・下的なニュアンスの違いが、文脈からではなく統語構造そのものから発生しうるのか?という問題は置いておく)


この段落では、 that wall - the eggs という使い分けがなされている。壁側のことはよく分からないよねーというお話なのかもしれない。

まぁ、もちろん、これはただ単に「文章の書き方」の問題であり、記述文法の言う「情報構造」や、談話文法の「談話構造」に沿って書くには限定詞をこのように使わざるを得ないから、結果として this/that - a - the に違いが出てしまうと言うだけの話かもしれないけど。違いそれ自体に何か原因が内在するというより、違いを作るために任意に選ばれたという結果でしかないのかもしれない。

  • Each of us is, more or less, an egg. Each of us is a unique, irreplaceable soul enclosed in a fragile shell. This is true of me, and it is true of each of you. And each of us, to a greater or lesser degree, is confronting a high, solid wall. The wall has a name: It is The System.
    • 誰でも、多かれ少なかれ、卵なのです。誰もが、薄い殻に包まれた、かけがえのない、取り替えのきかない存在なのです。これは私には真実ですし、あなたにとっても真実です。私たちはみな、程度の違いはあれ、高く堅固な壁に向き合っています。壁には「大いなる制度(ザ・システム)」という名前がついています。

an egg / a wall / the wall ときたわけだが、the wall は a wall を受けているんだろう。

  • The wall is too high, too strong - and too cold. If we have any hope of victory at all, it will have to come from our believing in the utter uniqueness and irreplaceability of our own and others' souls and from the warmth we gain by joining souls together.
    • 壁は高くあまりに堅固で、そして無慈悲極まるものです。もしなんとか勝利の希望があるとすれば、それは、私たちが、自身の存在と他者の存在をかけがえなく取り替えのきかないものであると確信することからであり、心を一つにつなぐことのぬくもりからです。

ここで "believing in"(「確信」) が使われているが、 believe という動詞は前に一回だけ出ている。

"will have to" も二回目の登場。finalvent さん、ここでは軽く流してるよう。(もしなんとか〜)

  • I fully believe it is the novelist's job to keep trying to clarify the uniqueness of each individual soul by writing stories - stories of life and death, stories of love, stories that make people cry and quake with fear and shake with laughter. This is why we go on, day after day, concocting fictions with utter seriousness.
    • 小説家が絶え間なくすることは、かけがえのない人間の存在というものを、生と死の物語、愛の物語、悲しみや恐怖に震える物語、腹がねじれるほど笑える物語、そうした物語を通して丹念に描くことなのだと私は確信しています。だから私たち小説家は日々一生懸命、物語を紡いでいるわけです。

believe と believe in の両方とも「確信」と訳しているよう。一応、ニュアンスは違うらしい。後者の方が根拠レスらしい。この違いが must - have to / can - be able to などにも繋がるのかはよく分からない。英語は get out などのように副詞(adverb particle というらしい)を使って「分析的に」書く方がリアリティーがあるらしい。

それを逆手にとって、英語のできないビジネスマンを勇気付けるとともに、テクニックとして難しい英語より簡単な英語で「分析的に」書こうとアドバイスされることもあるようだが、まぁ、必要悪としてただの仕事だしと割り切るなら有用だが、それで表現される意味って空虚だよなとも思う。

でも、この believe / believe in のニュアンス差って文法的というか、前置詞や統語(でいいのか?)から事前的に(?)発生しているのか、語法のような(で繋げていいのか怪しいが)文脈から事後的に辞書に登録されているのか。そのへんはよくわからない。

  • Someone else will have to decide what is right and what is wrong
    • 何が正しくて何が間違っているか決めずにはいられない人もいます

の willとhave to かな。

「他の誰かが決めなければならないことかもしれない@bijoux さん」と「決めずにはいられない人もいます@finalvent さん」の訳なら、have to 主体の bijoux さんより、 will 主体の finalvent さんの方が、少なくともこの文章の文脈を無視して考えたとき、英語的には正しい気がする。

be going to / be able to / have to とかって、助動詞を重ねられないから存在しているんだろうか? "I will can play" とか言いたいがために、"I will be able to play" なんて存在しているんだろうか?

have to と must の違いが、状況が要請するか主観的な思いなのか...そーいう違いが連語と助動詞になるのならば、やはり、will have to の will も、単純未来ではなく「意思」として解釈するのが、少なくとも構文から見た確率上では正しい可能性が高いのではないか?

その他:なんとなく気になった英語表現(副詞の存在論的な意味・意義?)

  • The System is supposed to protect us, but sometimes it takes on a life of its own, and then it begins to kill us and cause us to kill others - coldly, efficiently, systematically.
    • 「大いなる制度」は私たちを守ろうと期待されている反面、時に独走して、私たちを殺害しはじめ、他国民を殺害するように仕向けます。それは冷血に、効率よく、制度的に進行するものです。

ここの訳し方も、ラストの副詞群は、動詞ではなく文全体を修飾するかんじで finalvent さんは訳している。bijoux さんの訳は修飾先を確定するには少し曖昧に思えました。

前置修飾と後置修飾は、文修飾として働く場合は等価なのだろうけど、僕は、finalvent さんのような可能性というか、後置と前置には、やはり違いがある気がする。killing me softly とかね。

おまけ2つ(名詞構文と等位接続)

名詞構文とかの主述圧縮で、swim well = good swimmer って習うけど、 skillfull lies を「上手な嘘」「上手に嘘をつく」のどちらでもいいと言えるのだろうか?まぁ、skillfull liar じゃないでしょ、って話かもしれんが。


bombers は自爆テロ犯かとも思ったけど、この並びを考えれば、爆撃機だろうな。たぶん、これをテロ犯の方で訳したら多田正行ゲバ棒で殴られる。

読んでみた村上春樹エントリと英文解釈以外の話

id:shivad さんの「『嘘』を守った」ってのが気になったかな。冠詞の普遍性ってだけでなく、I と each of you の並列とかさ、youって、「みなさん」というよりは「あなた」って気がする。総称形ではあるけど単数形*3で個人を名指ししている。村上春樹は、ここを each of us とはしなかった。I and each of you が each of us なのだとした。これはただの文体でしかないのかもしれない。村上春樹の意図も何もなく、英語にありがちなスピーチのテンプレートなのかもしれない。これが、id:negative_dialektik さんやid:amamako さんが言うような「リアリティー(具体性・実際の調査結果)をもたない嘘」なのかもしれない。

id:crow_hennmi さんが言うように「普遍が個別を捨象」し、「別のスケールで語ることが、そこで前景化している最重要の「ある特定のモチーフ」を捨象する結果にな」り、「政治的マターであり、個別的に語られなければならない」にもかかわらず、「「多様なスケールでそれぞれロジックを構築すること」を喜んでやり、結果として本来のメッセージ性をぼやけたものにしてしま」っている<駄目な嘘>なのかもしれない。


だが、村上春樹にとって『リアリティーのある嘘』は、他の人にとっては「リアリティーのない嘘」でなければ変なのではないか?

村上春樹wikipediaかなんかで詳しいデータを調べて、政治を勉強して、具体的な提言を行ったところで、それは村上春樹しか言えないような嘘になるだろうか?そんな嘘が、村上春樹でしかもつことができないリアリティーをもつことができるんだろうか?とは思ったりもする。もちろん、具体的に語るべきは彼なんかではなく、わたしたち個々人の方なんだろうとも思うけど……。

私たち自身は、きちんと自分の実存に向き合えば、私たち自身が卵として壁に向き合っていることがわかるし、そのアクチュアルな問い掛けのなかから壁を描き出し、そうすることで連帯できなければ、およそ壁、The Systemに向き合うことなんかできない。正義の言説が、私自身の卵として語られないなら、それは欺瞞であり、The Systemにexploitさせることを許すことになる。
――日経春秋 春秋(2/19) 秋 - finalventの日記

id:finalvent さんのスタンスとしては、卵と壁の対立、もしくは前提として卵と壁の不可分性というよりは、更に大前提として各々が卵としてのリアリティーをもっているのか?卵に実存がかかっているのか?ってかんじなのかなー。

数ある卵の中で、その卵を選んでしまったことが、偶然ではなく、システムに踊らされた必然でもなく、ただ単に祭に便乗したという気まぐれでも、正義の立場に立てるという逃げでもなく、ダチョウの卵を選ぶということは、ウズラの卵を潰していくことを自覚しているのか。

ウズラの卵の立場に立って、ダチョウの卵を破壊したところで、どっちも人間に食べられて終わりとかじゃ意味ないよねって話なのかね。

冠詞から無理やり見ると、the wall の使い方にヒントがあったような気もします。

 私はブッシュのイラク侵攻を是としなかった(非ともしなかったが)。どちらかといえば、サウジを脅かすフセインの存在への対応としてやむをえぬもののとしての共感はあった。今回のオバマについても、私は是とも非ともしない。直接的には日本国民に問われている問題ではないからだ。ただ、間接的にはより問われていることにはなるだろう。では日本はどう答えるかというなら、私は往年の小沢の答えが答えなのだろうと思うが、まさにそこがわからなくなった。国民新党社民党連立した政府というもののリアリティは私にはない。
――毎日社説 社説:米軍アフガン増派 成功への戦略を知りたい - 毎日jp(毎日新聞) - finalventの日記

この辺の話は id:nomurayamansuke さんの「小林秀雄の流儀 書評」にも繋がる気もするけど、まぁ、小林秀雄山本七平も、難しくてよく分からない。丸山眞男が『日本の思想 (岩波新書)』で指摘するような日本人のパターンこそが、悪霊なのかもしれない。つまり、村上春樹の『リアリティーのある嘘』と違い、悪霊は「リアリティーのない嘘」なんだろう。

まぁ、僕には丸山の指摘するような左翼伝統芸能なパターンとか、全共闘の雰囲気とか、ぜんぜん知らないし、テレビで質の悪い映像を何度か見ただけで、それも心に残ることもなく、むしろ劇場アニメや洋画にキャッキャウフフしてた幼年期、さよなら、さよなら、さよなら、なわけですよ。ハンニバルを呼んでも助けには来てくれなかったんですよ。

富野由悠季も似たようなことを言ってた。自分の感覚を信じるなというか。目先の楽しさに惑わされず、自分が本当に楽しいと思うものを考えろ、と。

ポール・クルーグマンも、他人の意見の有用性というか、自分が自明だと思うことを歴史化するって感じだったのか。そうじゃなくて、他の理論系の人の意見――たとえそれが当初クルーグマンにとってリアリティーのないものであっても、他の人にとってはリアリティーがあるのかもしれない。なら、「彼のリアリティー」とやらを少し調べてみるのも私にとって有益なのかもしれない。


悪霊は自明ではない。プネウマティコンを歴史化し、相対化し、シラケた成り立ちを理解した上でも、それでもなお、臨在感が残るのなら、それはプシュキコンなのだろうか?いや、それこそが本物のプネウマティコンなのだろうか?

他人の不幸は蜜の味」なんてニュースもあったが、もし、味覚を感じられない人だったら、どうなってしまうんだろう。哲学ゾンビなのか?デカルトさんは「我思うゆえに我あり」と仰ったようだが、「メシ美味いゆえに我あり」とかだったりね。それこそがプシュキコンの正体だったんだよ!(ΩΩΩ

ま、同じ部位が活性化してるからって同じものを感じてるとは限らないんだろうけど。


関係ないが、id:pollyanna さんの指摘で思ったんだが、googleとかの機械翻訳ってどうなんでしょうね?クエリ生成とはいえ、リンク張れば静的ページと変わらないだろうし。高度に誤訳な芸術は著作権に抵触しないとかね!

*1:この過程はマークピーターセン『日本人の英語』での冠詞講義とほぼパラレル。具体的―抽象的とか、そういう区別(石田の言う「『完結性』による冠詞認識」に近い)じゃなくて、もう少し形而上的な枠組みがあり、さらには、意味の解釈においても形而上的な枠組みで感じている疑惑(大津栄一郎の場合、その『完結性』がもたらしてしまう意味、要は冠詞認識への意味論的な解釈の話ってかんじがする。もっと『深い』可能性もあるが……。)という感じだ。話者の認識における境界線の有無というような物理特性ではなく、「境界線の有無とはどういう事か?」というような存在論的な方向(?)なのか?(存在論的ってのが僕が言いたい『深さ』だとすれば、オットー・イェスペルセン的な英文法論の方向になるのかもしれない。(イミフ )……自分でもよく分からん。

*2:そんなものが本当にあるのかは置いとくw

*3:youに単数も複数もry かもしれんが