「メディア力」への意思――『あなたの「話」はなぜ「通じない」のか』


あなたの話はなぜ「通じない」のか (ちくま文庫)

あなたの話はなぜ「通じない」のか (ちくま文庫)

相手の「理解力」が腐っているなら、<「自分」の「メディア力」>―相手に理解させる力―をブーストしようぜ!って話。そのためには、「相手の問い」を「自分が理解する」こと。それにより、「問い」が共有され、共感が生まれる。これが最強の武器って理屈。*1

はてな」では論理が内容を規定する

やっぱり、はて☆スタは、この本で言う「共感」というオブラートの役割を想定しているんだな。発信者の「メディア力」を「共感」によって高める。これによって「一体感」をかもしだし、それによって「帰属感」を拡大させる。そうすれば、罵詈雑言というような「他文化」を排斥するような言説は減る。

だけど、はてな村はハードコア設定なんだよね〜。はてなに「共感」は必要とされていないんだと思う。むしろ、「論理」といった「内容」が重要。

そういった意味では、「はてな」は限りなくフラットな村。このフラットな関係は2chと表層上は同じ構造になる。これが、相手の解釈を無視した攻撃的なコメントなどにも繋がるのだろう。もちろん、「はてな」には責任元を同定できるIDがある。だから、2ch系のフラットさは「論理以下の共感」で、はてな系のフラットさは「論理以上の共感」って言える気もする。(2chにだって論理重視なところは、いっぱいあるだろうけどね)

これが「はてな」の問題なんだろうな。「はてなリテラシーは高め」って言われるけど、「論理が通じてしまう」点では、その通りかな。他方、ズーニーの共感テクニックは、「論理が通じない困ったちゃん」を「共感」で魅了して、自分の「メディア力」も上げつつ、説得する――そういうシステム論的な技術だと思う。だから、共感を利用するけど、コアにあるのは「自分をいかにプレゼンテーション」するかであり、どうやって【自分のメディア力】を高めようか?って話になる。


はてなでは、そんな面倒な政治は行なわれない。ある意味で、オタク文化的な純真さが支配的なんだろうな。だからこそ、(僕も含めて)そーいう面倒な前置きをしないで、「論理ひとつ」で勝負できるってのは、とっても楽だし、機能的だ。で、結局、はてなは戦場と化す*2わけだね。


そうなると、はてなで一番、外に露出しているのはブクマのページだと思うし、そこに☆で共感パラメータを表示できれば、はてな村の対外的メディア力は向上するんだろうな。もちろん、はてな村リテラシーの高さを逆手にとって、みんなが「相手理解」に従順で的確なコメントを評価すればって条件が付くんだろうけどさ。

結局は、メディア力が内容を規定する

「共感スカラー」が理屈以上の「納得」をもたらすのなら、「共感ベクトル」は理屈を超えた「説得」をもたらす、ってのがズーニー流。イメージ的には、「納得」は感性で、「説得」は理性ってかんじだと思う。だけど、論理って、ただの「点」じゃなくて、<「点」と「点」を的確に繋げること>だよな?ズーニーはそこに注目する。つまり、「メディア力」を上げるためには、「論理」というもの自体がもつ「共感力」を駆使する必要があるってことだ。そういう点では、論理が支配律である「はてな」も「メディア力」という「共感」から逃れることはできない。だからこそ、id:kanoseさんが「村長」などと呼ばれたりするのだろう。


ズーニーは正論が好き。だけど、正論は正論であればあるほど、受け入れられない。それはナゼか?ズーニーは、相手と目線が違うことや、「信頼関係」の欠如により「発言資格」がないことに気づいた――つまり「メディア力」がない。ここに関しては國分康孝を読むべきだったと、僕は思うね。そーいうアドバイスを貰えなかった(?)のは、進研ゼミ内において「共感」が重視され、論理的なアドバイスやプロの権威を引用した批判などが避けられるような企業文化があったからなのかもしれない。

ズーニーの添削では、「アドバイス」や「本による知識」などは「上からの目線」ということで嫌われる。だけど、それって「協力ゲーム」での妥協点を間違ってるような気もする。もちろん、これは机上の空論だけどさ……。なんか、ツマランレベルナッシュ均衡してるなって気分だよ……。っつーか、win-winですらないよな、「協力ゲーム」で発生するlose-loseじゃん。状況に応じて「役割」関係が上下するなんて当たり前なのにね。

魅力ある登場人物の秘密は「ベクトル」の有無

さて、脱線したな。共感「ベクトル」の話に戻ろう。


一芸入試などを例にして、「過去―現在―未来」という、それぞれの「点」を「時間軸」で結ぶことにより、論理の繋がりを「ベクトル化」する――これが「論理」による「共感」術。(ズーニー談


これは、「なるほど!」って感じだ。GONZOのアニメには内容がクソでも、やけに求心力があるキャラクターが何人かいたりする。『スピードグラファー』の水天宮寵児(&一派)、『SAMURAI7』のキクチヨ、『WitchBlade』のマサムネとかさぁ〜。なんで、魅力的なのかな〜って思ってた。

キクチヨもカツシロウも「未発達」という点で、僕は自身を重ね合わせることができる。これはある種の反則技。『ジャン・クリストフ』『西の魔女が死んだ』『人の絆』『カラマーゾフ兄弟』というような「純文学」に見られる、「誰もが経験してそうな話」を挿入することで「共感」を起こさせる。更に先鋭化させ、共感一辺倒なのが、ケータイ小説っぽい。


武装錬金』でも、蝶野の異常人気は「キチガイ」ってだけでは説明できないだろうし、ブラボーの魅力も「ヘンジン」だけでは説明不可。逆に、カズキやトキコの魅力の無さはなんなんだろう……。むしろ、この二人は二人セットというか、その他の友達とかとの「関係性」に魅力がある気がする。


つまり、僕は蝶野やキクチヨに強く「共感」できても、「カズキ」や「カツシロウ」に「説得力」を感じられないってことだ。これは麦わらのルフィーの「仲間だ!」発言が「妙に浮く」というか、「説得力」を感じないことにも繋がる。つまり、『ワンピース』の「連帯感」は「唐突」であり、「点」でしかないんだと思う。


これは、もしかしたら意図的にやっているのかもしれない。ルフィー達は「狂言回し」で、作者は『ワンピース』という「メディア力」をつかって、「〜島」という数々の物語を紡いでいる――そんな気がするし、僕自身の感覚からしても「島の人達」や「メンバー個人」の「内輪話」のほうが共感できる。で、その「内輪」での「共感」が『ワンピース』の「メディア力」を上げる結果に繋がる。

メディア力は与える力であり、愛である*3

「メディア力」ってのは、ある意味では幻想であり情報操作。でも、それをホンモノにする力もまた、「メディア力」である。それがズーニーの主張なんかなぁ〜。弾さんとか、他の学者さんとかもそうだし、成熟した人の必須条件であると言われてる「惜しまない」・「与える」ってのは、偽悪的に言えば「自分のメディア力を最も効果的に上げる戦術」ってことになるんだろうな。

ズーニーは、それを実践してる。id:umedamochio*4さんもそうだし、加藤諦三も人体実験を公開するという点では、「自他のサヴァイバルに貢献する」というような循環利益を共有しているとも言えそう。id:fromdusktildawnさんの「アフィリエイトで稼ぐより何十倍も意味のあるブログの使い方 - 分裂勘違い君劇場 by ふろむだ」だって、オープンにしたことから相互に利益を得ることができた例だと思う。

こういう「おしまないオープンネス」が「私」という「クローズドネス」な存在にどうして利益を産むのかは、進化論的な(?)パースペクティブからも説明ができるような気がする。


ポモな免疫学者である多田富雄は「個体の成立要件」をスーパーシステムと称している。(要はポモなパラダイム)

  • SuperSystem――自己充足するクローズドネスと欠損への再生や変容であるアダプトネス。自己充足と変容の共存を可能とするオープンネスが個体を個体たらしめる肝。
    1. Self generation and expansion――自己生成・自己再生産。
    2. Self diversification――自己多様化。
    3. Self organization――自己組織化。
    4. Self adaptation――自己適応。
    5. Closedness and Openness――クローズドネス・オープンネス。
    6. Self determination――自己決定。
    7. Self degeneration――自己崩壊。


しかしながら、「自然科学とリベラルアーツの統合:このままでは無理 - G★RDIAS」を一端とする多田富雄や村田桂子の「学際への試み」は、ズーニーから言わせれば「上から見下している」結果になってしまっている。

2007年06月18日 crowserpent 大学, 教養と実践, Web論, 科学論, *kanjinai, ※b ↓sivad氏に同意。包括的にやるなら「なぜ、どのような場合に統合が必要なのか」が問われねばならない。学問の細分化は何の理由もなく起こったわけじゃない。
2007年06月18日 sivad 融合とか学際自体を「目的」にするのが失敗の始まり。それらは手段であって、あらゆる方法を動員して解決したい「問い」が一人一人にまず必要なのですよ。

――はてなブックマーク - 自然科学とリベラルアーツの統合:このままでは無理 - G★RDIAS

ズーニーも言うように、異なる文化圏に属する人達と「共感」するには、「意見をぶつけ合う」以前に<「問い」を「共有」>しなければならない。「問い」という「他者」の「根本思想」――それを「理解すること」こそが、「内容」を超えて、相手に分かってもらうための出発点であり、「共感ベクトル」の始点である。

点と点との組み合わせを超えるベクトルへの意思

僕は、この「メディア力」・「説得力」・「共感力」というような≪スカラー≫を【ベクトル】として「認識させる*5ことができた時」に、大塚英志が夢見る「自然主義の幻想」が、「記号」の「連関」から創発されるんだと思う。そういった意味で、多田富雄や村田桂子といった生物系の人達が、ポストモダン的な生命観において、循環・組み合わせ・可塑性という三つの有限なる無限を重要視するのにも繋がる気がする。

「人の意思」そのものではなく、意思が備える【ベクトル】という「特性」こそが人を人と感じさせる。だからこそ、逆チューリングテストが成り立つ。そういうポモな地点において「意思」は「特権」ではない。「意思」というモノがもつ【ベクトル】―「志向性」という『矢』―こそが、「命」を宿す。

そう考えれば、タチコマ@『攻殻機動隊』は生きていて、ナタリア@『太陽の簒奪者』は生きていないってのはオカシイ。むしろ、ジョジョの「矢」だって、ウィルスのような生命と「理解」できるだろう。もっとラディカルに解釈すれば、「時間の流れ」そのものだって「ライフストリーム」と「理解」できるはず。こういうのが、<「死」の希薄化>ってやつなのかもな。

今まで、日本文化は「死」を肯定的に見つめてこなかった。死の超克といった(?)仏教感(?)にも影響されたんだろう。そういう意味で、「死」は「生」を超越・否定することによってのみ「存在」を「無視」・「確定」されてきた否定神学であった。だけど、「生」の「枠」が希薄化して、「生」を否定できなくなってきた――いや、むしろ「生」そのものが「私」を超越してきたとさえ言える。だからこそ、「死」を直視しなければならない。クオリアの話で、僕が聞きたいのは「それ」だ。「クオリアは、なぜ<生>を肯定するのか?」ではなく、「クオリアは、<死>をどのように扱うのか?」――僕はそれを聞いてみたい。*6

追補編〜「メディア力」は「政治力」

2007年08月22日 PoohKid ビジネス 募集元も明らかにしていないベンチャーにそれだけの人材が応募するというのは、ひとえにid:fromdusktildawnの人望に尽きると思う/信頼のおけるブロガー理論?
2007年08月22日 I11 いろいろ書いているが、結局のところITセレブの自慢話。そうだね、君が持っているのはお金だけだものね。君を慕って人材が来ているのではなくお金を慕って人が集まっていることを忘れずに。
2007年08月23日 guldeen 社会, 読み物, ビジネス, business, 仕事, これはすごい, これはいい 「お金を慕って人が集まっていることを忘れずに」ってそりゃ当り前。カネのある所に才能は集まるものよ?だから薄給がバレたアニメ業界からは、潮が引く勢いで人が居なくなってる訳で。才能には適切な報酬を。
――はてなブックマーク - アフィリエイトで稼ぐより何十倍も意味のあるブログの使い方 - 分裂勘違い君劇場 by ふろむだ

ここの応酬の食い違いっプリは興味深い。id:PoohKidさんの「id:fromdusktildawnの人望」というコメへ、id:I11さんの「君が持っているのはお金だけだものね。君を慕って人材が来ているのではなくお金を慕って人が集まっていることを忘れずに」という「メディ力=人望」とは限らない論。

そこに、<「メディア力」と「内実」との非相関性>という論旨を無視して「『お金を慕って人が集まっていることを忘れずに』ってそりゃ当り前。カネのある所に才能は集まるものよ?」と、反論になっていない「論点ずらし」で〆。

個人的には、

2007年08月22日 lalha クリップ 37人集まるのは分裂勘違い君だからこそ。さすがです

という、<「メディア力」への評価>なのか<「内実」への評価>なのかハッキリしない両義的な賞賛に☆をつけていない分裂勘違い君の政治的センスに脱帽した!w 「メディア力=内実=人望」と解釈できてしまうid:PooKidさんのプクマコメに、分裂勘違い君の☆が付くわけがないのは言わずもがなである。

他方で、id:guldeenさんの「id:I11さんへの詭弁DISり」に☆をつけることで、id:I11さんに傷つけられた自尊心を回復させようとする裏の意図を、guldeenさんの正論を評価するというカッコイイ大人を演じることでカモフラージュしつつ、id:I11さんをDISらないことで結果的にDISる否定神学ブーメランでディレイ・アタックをついでに完遂。正に一石四鳥!「仲間へは支援―自己へはベホマ―第三者へはメディア力UP―敵へは絶対幸運圏からの超遠距離七音剣」を同時に成し遂げる四位一体の次元反転パラレルミラーアタックに、剣聖から放たれる飛ぶ斬撃の恐ろしさを感じる nash なのであった。(完)


にしても、凄まじい脱線だな。www ズーニーに怒られるな〜こんな自己満足な書き方してたら。 :-P


追記:山田ズーニーの<共感パラダイム>はモヒカン族から擬似科学。さらには、はてブとはてスタの親和性が異常に高いことまでも説明できてしまう。この辺の感想も追記したい。とにかく凄いぞ、ズーニー!

*1:こーいうスタンスは『7つの習慣-成功には原則があった!』にも通じるものがあるなぁ。

*2:はてなの仕様が変更になったので以下のエントリを修正しました - シナトラ千代子」 / 「ブログ界隈において、はてなダイアラーが最もダイハードなのはなぜなのか - シナトラ千代子

*3:「愛の発芽」が「蒔かれた奇蹟」を越えた<真理>であるのならば、愛の郵便は100%の精度で伝達される。逆に言えば、メディア力とは愛を与え、それが受け取られる資格を得ることだ。と、言えるはずだ。

*4:サバイバルのための人体実験を公開すること - My Life Between Silicon Valley and Japan

*5:「メディア力」そのものは、存在論的にはベクトルである。と、ズーニーは定義していると僕は「理解」した。そもそも、ズーニーは「存在論的にAであれば、認識論的にAである」と「他者」が「理解してくれる」というようなオメデタイ姿勢を否定している。だからこそ、「メディア力」を高めるという戦略が重要なのである。

*6:書籍出版 双風舎:【連載】「脳は心を記述できるのか」」 / 「菊地さんからのお手紙 - pentaxx備忘録