冠詞をポストモダンの文脈で理解する物語

不定冠詞・複数形・定冠詞・ゼロ冠詞―有冠詞・無冠詞

aとtheの違いの説明

事の発端―the heaven / the earth / hell

TRUE! --nervous --very, very dreadfully nervous I had been and am; but why will you say that I am mad? The disease had sharpened my senses --not destroyed --not dulled them. Above all was the sense of hearing acute. I heard all things in the heaven and in the earth. I heard many things in hell. How, then, am I mad? Hearken! and observe how healthily --how calmly I can tell you the whole story.
――http://etext.library.adelaide.edu.au/p/poe/edgar_allan/p74c/cons4.html

  • Topic: 私の精神状態
  • Claim: 私はmadじゃない。むしろacuteなだけで正常だ。

acute であることを証明するために対比された"the heaven/the earth-hell"において――

  1. heaven / earth には、なぜtheがつくのでしょうか?
  2. hell には、なぜ the がつかないのでしょうか?


もしかしたら、定冠詞の修辞法である「共犯関係」を暗に強要しているのが「無冠詞でのhell」なのかもしれない。


日本語にすると――

「ほら、天国とか地上の音色は君にも僕にもよぉ〜っく聞こえるよね。地獄はさ、どんな音色なのか、僕のように正常な人間には想像も及ばないけど、とりあえずはヒドイもんなんだろうね(そりゃぁ、君だって正常なんだから、僕と君とで想像しているものが、形而上の概念であれ、同じである必要はないわけだけど……でも、分かるだろ?)」

目標到達点:冠詞による修辞法の有無
  1. 「冠詞―無冠詞」の「意味―無意味」という「差異の特性」を逆手にとって、<無意味である「からこそ」意味がある>というような修辞が可能であるかどうかを検証する。つまり、≪恣意性のある無意味≫への可能性を探る。
    • 定冠詞ならばheaven/earthの意味を共有できる。即ち、話者はmadではない。
    • 無冠詞ならばhellは無意味であり、そもそも共有など不可能である。ならば、話者はmadであるはずがない。

このような「共有不可能性」を「メタ的に共有」してしまおうとする「いやらしい」修辞法は可能であるはずだ。

この英語冠詞物語の効用とは?

  1. 前置詞と冠詞の関係を深く理解出来るようになるかもしれない
    1. A of B which C の型でABCにどのような限定詞or冠詞をつけることで先行詞を操作できるか?
    2. one of the girls who XXX でXがone/girlsのどちらに引っ張られるかという問題に英文法解説での説明以上の「何か」を掴めるかもしれない。
  2. つまり、ポモ的に極言すれば、英語の(定)冠詞には≪「総括用法」しかない≫ってことなんだね、エクリチュル屋さん!あとは談話文法や新旧情報と冠詞の関係がもっと掴めれば冠詞で悩まないで済む!マスター派もロイヤル派も英文法解説は必須だと今更だが納得

BBSでの、冠詞の使い方への疑問のまとめ

  • 英語同好会BBS〜「冠詞とhell@エドガー・アラン・ポー」・「英語同好会BBS〜「冠詞とhell@エドガー・アラン・ポー その2
  • 0. 聖書の引用という通時的解釈だけではなく、敢えて通じ的な引用をした著者・話者(登場人物)の共時的な意図があるのではないか?
  • 1. 冠詞を文法的側面からではなく、修辞的側面から理解することで、英語文化圏の認識様式への理解を深められるのではないだろうか?
      • a. 冠詞は恣意性による差異を表現する。そうであるならば、冠詞のついた単語同士で対比を行なうことは可能。ならば、冠詞と無冠詞の単語で対比を行なうことは可能か?
        • つまり、定冠詞や不定冠詞をつけた単語と敢えて無冠詞のままにした「無意味」の単語との対比により、「意味」と「無意味」のあいだに「亀裂」が生まれ、なんらかの「ほのめかし」が行われることは可能ではないのか?
          • 後述する英語の冠詞体系を考えれば不可能にしか思えない。でも、言葉で表現できる「可能性」という可動域を考えれば、「できなければおかしい」とも思う。
      • b. <「無意味であるという意味」という意味>はどうして生まれないのか?hellが無意味だとしても、無意味という意味であるのならば、冠詞がつかなければおかしいのではないか?それとも、冠詞がつけば無意味という属性は全メタレベルで消失してしまうのか?
        • もし、消失してしまうのであれば、形而上的な事柄を形而上的なままで議論することができなくなってしまう。
        • 西洋哲学の発展を考えれば、そんなはずはない。どこかにトリックがあるはずだ。
謝辞

一元論というパラダイムを博覧強記して、僕の近代を相対化してくれたk.y.さん*3。「特定・抽象・状況・場所」という僕のイメージでは「絶対的」な<かたち>が「共通するところもあるかも」というテクストで、僕に「形而上〜具体」の脱構築[もどき]という閃きのキッカケをくださった、奇策な人さん。僕の問題意識を共有し、また再確認させてくれることで、僕の勉強の後押しをしてくれたTakaさん。そして、やたらに長い投稿を生温かく見守って下さったROMの皆さん。ありがとうございました。

0.前回までに辿り着いた前提―冠詞とは何か?

  • 横軸「抽象―具体」・縦軸「形而上―形而下」という二軸四要素で四分割表を作ってみる。
    1. 冠詞は「抽象―具体」という横の変化を主体的に示唆しない。
    2. 冠詞は「形而上―形而下」という縦の変化を主体的に示唆しない。
      • なぜなら、「抽象―具体」という二項対立は「無意味―意味」で捉えるべきものであり、「無意味」に「形而上―形而下」という違いはないのだから。
        • ゆえに、冠詞は四分割表における縦横の変化を主体的には担わず、相対的な差異を表すだけである。
  • 「抽象―具体」や「形而上―形而下」という区別は二次的である。そのような「意味の解釈」は、冠詞体系の一次的問題ではない。「無意味―意味」という視点が「無冠詞―冠詞」という体系に重なることが一次的構造である。
  • 意味は「差異」にある。意味に主体性はない。
  • 記号自体に意味は無い――無意味。記号自体は全て等価交換可能なオルタナティブである。
    • ならば、無意味に文脈の外から主体的に意味を与えることはできない。
      • それは、同定された言葉と無冠詞の言葉との対比によって、<「同定されないこと」を逆に期待している>という、裏の(メタ的な)意味を一次的な段階で「解釈」することはできないということである。*4
      • または、未完結の記号を、未完結のまま、完結させることはできない一次構造になっている、とも言える。
    • 主体性ではなく差異によって意味が生まれるのならば、以下のように言うこともできる。
      • 記号はいくつもの意味をもつ可能性があるし、意味もまた、いくつもの記号であらわすことが可能。まぁ、脳細胞だって100%のコピーの連鎖で自己統一性を維持できているんだから、当然と言えば当然だな。(たまにエラーしてるみたいだけどw)
  • 「無冠詞・冠詞」は1つしかつかない

1. 無冠詞の特性―無冠詞とは何か?

無冠詞は「無意味」である。だから、無冠詞の単語にあるのは指示対象を示す記号としての役割だけしかない。指示語みたいなものだ。「あれ」という記号自体に意味は無いのと同じである。

また、今、存在する意味を全て遡れば、無冠詞である「無」が全て『オリジン』となる。つまり、数学で言う「0」みたいな基点である。そういう意味では、「無冠詞」は"no"に近い。"not"という不等号を逆転させる役割ではなく、"no"という"0"としての役割。掛けられた単語は問答無用で「0」になる。

2. 冠詞の特性―有冠詞とは何か?

冠詞は意味を表す。その点は、「定冠詞」・「不定冠詞(複数形)」の共通するところ。

3. 不定冠詞(複数形)の特性―不定冠詞とは何か?

不定(複数)は「話者」の中で、「話者だけ」にとっての「差異」を表す。

(まぁ、「私」を認識する時点で、「私」だって「最初の『他者』」といえるわけだけど、そこはスルーしてください。そこに形而下との「繋がり」はないので、「実存」という意味もしくは、文学的な意味での「他者性」はないから。)

4. 定冠詞の特性―定冠詞とは何か?

定冠詞は「話者」と「読者」の共通の意味を≪派生≫させる。

つまり、"the"によって、「読者」は「話者」によって内面化され、「他者性」による「差異」が産まれる。

5. 派生のイメージ―リゾーム的な冠詞の広がり・連鎖

DNAやアメーバをイメージして欲しい。0というオリジナル(『プロトタイプ』)から、コピーされ、転写され、また別のオリジナルとなるDNA。アメーバの体の一部から千切れて、ふくらみ、増殖していく連鎖。

これが≪派生≫の連鎖のイメージ。

6. 無意味から意味への派生図―無冠詞に冠詞をつける

無意味に意味を与えることはできないが、無意味のコピーに意味を与えることは可能。

"φheaven"(元)

  • コピー(無意味化)-> <"[φ]heaven"(古)―"[a] heaven"(新)>
  • ペースト(意味化)-> "a heaven(固)"(【[φ] heaven】[破棄])

これは、累乗計算のイメージとも重なる部分がある。


まず、「派生の瞬間」の二つのコピーをみてみよう。


"φheaven"からコピーされた"[φ]heaven"は『プロトタイプ』として「基点化」される。
累乗計算で言えば、これが「指数」=「0」となる。

"φheaven"からの"[a] heaven"は未だに無意味のコピーだから「0」。しかし、一方で、「不定冠詞」という<「意味」への「形相」>をもっている(by アリストテレス みたいな)。これが[a]という意味。あるいみでは、「企投」中というか、そーいう実存的なものを意味化という過程にイメージしてもいいかも。

(左が『プロトタイプ』で右が「形相」という図になってますけど、そこは便宜上で、イメージ的には両者に明確な階層的違いは無く、右も左も無い。むしろ、両者に「無意味・意味」があっても、実際は両者の(先験的)「差異」に意味があるわけだから、相対的に「0」になると考えた方がポストモダンなイメージに正確だろうけど、その辺はテキトーで!)

次に。ペースト。プロトタイプが影になる(「破棄」される)ステップ。

"[φ]heaven"で、"[a] heaven"を「0乗(プロトタイプ乗)」する。"0^0=1"である。それゆえに、"[a] heaven"の"[φ]heaven"乗は、"a heaven"という「不定=なんでもいい=任意」であり「1」という「意味」である、と。(数学屋さんに怒られる〜w)

このとき、プロトタイプの役目は終わり、「意味」の「影」として「破棄」される。まぁ、ピーターパンの影みたいなもんだ。ウェンディーが縫い付けるのさw

(個人的には、この「破棄」っていうイメージがいい。記号は等価に無意味なのだから、いくらでも捨てて、いくらでコピーして、100%代替できる。そうすれば、言葉は単独で存在している「意味」ではなく、「0」と「対」になって存在しているってイメージができる。)

7. 意味から意味への派生図

だから、 不定冠詞と複数形は「意味」があるという点で「1」である。「派生した瞬間(コピー)」の「一瞬あと(ペースト)』は"a heaven"・"heavens"であり、『プロトタイプ』の"[a] heaven"("heaven[s]")で"ゼロ乗"しても、"a^0=1[a≠0]"だから、そのまま。(数学屋さんに殺される〜w)

8. 意味から同定への派生図

「話者」だけの意味に「話者」と「読者」共通の意味を与える。

〈"a heaven(話者)"―"a heaven(読者)" 〉
=コピー(無意味化)=>≪〈 「"[a] heaven(話者)"―"[a] heaven(読者)"」〉―"[the] heaven" ≫
=ペースト(意味化)=> "the heaven"(【"[a] heaven(話者)"―"[a] heaven(読者)"】)

9. 無意味から同定への派生図

イメージ図は意味から同定と同じだ。

無意味に共通の意味を与えることはできないが、無意味のコピーに共通の意味を与えることは可能。つまり、"the heaven"は「新たな記号」として"φheaven"から≪派生≫し、「話者」と「読者」の「内部の意味」を100%コピーして、「新たな意味」として同定(ペースト)される。


これが「形而上的なものを形而上的なまま」として語る方法であり、語った時点で、それは純粋に形而上的な記号とはいえなくなっている、とも言える。まぁ、その辺は、問題を感じない。差異の仕組みは変わってしまったが、依然として「無意味」だったころの"φheaven"と100%同じオルタナティブであるのだし、意味空間へ引っ張ってきた時点で、「無意味―意味」という二元論を内部から破壊したとも言える。

だから、「<未完結のまま>の<コピー>を完結させる」こともできちゃうわけだな――100%のコピーを利用することで。もちろん、完結させた時点で、未完結とは言えなくなる。だが、これは矛盾しない。なぜなら、二つのパラダイムは共役不可能であり、同時に成り立ってもお互いに問題無いから。(←え〜〜〜アヤシーぞwww

10. 同定から同定への派生図

イメージ図は意味から同定と同じ。

Look at the sky! というとき、skyのtheは「唯一」のtheでいいだろう。正直、なんでもいい。(笑 前方照応だろうが、一般・固有名詞につくtheだろうが、後方照応だろうが、外界照応だろうが同じである――そんな文法論議は、この「一次的段階」では無意味だ。

「空を見ろ」と言われたら「上を見る」。

そこに認識される空は、「空の全て」なんかじゃない。確かに、「空」は繋がっている。「地球を覆っている」という意味では「唯一」だ。しかし、実際に我々が見ることができる「空」は数百キロ範囲で、どうがんばってもブラジルの空と日本の空とを同時に見ることは敵わない。

「月」だってそうだ。月の裏側は地球からは見えない。

さらにいえば、今、この瞬間ということをもってして、差異を「時間軸上」で産むこともできる。

つまり、唯一のtheから、別の唯一のtheが≪派生≫することは可能である。(テキトー

11. 無意味から無意味への派生図

例えば、"φsky"から"φsky'"が派生すれば、"[φ]sky"は「破棄」され、"[φ]sky'"が"φsky'"となる。だが、両者に「揺らぎ」や「差異」はない。ならば"φsky'"="φsky"だ。

これは「元に戻った」としてもいいかもしれない。イメージ的には「水」だって、ミクロでみればイオンとして存在している部分もあるってかんじかな。

ま、100%等価なんだから、どっちでもいいんだけどね。

つまり、0から0がどれだけ「派生」しようと、0でしかない。0にしかならない。また、その0がどんな「0ではない存在」から派生したのであれ、0である以上0でしかない。よって、意味は無い。ただの記号であり、符牒

12. 意味・同定から無意味への派生図

a Japanese sky から派生した φsky[J] も a Brazilian sky から派生したφsky[B]も、『プロトタイプ』は違うが同じ「0」であり、結局、『プロトタイプ』のコピーでしかない。全派生記号は等価交換できるのだから。

地球の空も、火星の空も。意味という「差異」失われれば「空」という「一元的な符牒」でしかないし、「0」という「無意味」でしかない。ただの、認知のための道具である。

『意味から無意味への派生』は伝統文法的な冠詞観との対比の中では特に重要。

"We are a sailor short." という文において、"a sailor"は実質のところ固有名詞化―つまりは無意味化―しており、the United Satates と同等。

13. 無意味であることとは。

無意味とは、超越的に「無」であることだ。メタ的に【<「無」としてある>という意味である】こともない。ただ、「無い」。「非有界的な状態」を指示してはいるが、「意味」はなく、「無意味」。<形而上的に「無意味」として「理解」し、形而下的には「非有界的な状態」を意味している>――と、「感じ」なければならない。

これは、無冠詞という状態より前に「冠詞・無冠詞」(a heaven/φheaven)のついていない「裸の状態」(heaven)を想定しない、ということでもある。

ひも理論的に言えば、「裸の状態」は「無冠詞」という「ひも」が振動するための空間である。「無冠詞」という<記号空間>が「冠詞」という<意味空間>の骨組みであり、バックボーンであるのならば、「裸の状態」とは「無冠詞」という<記号空間>のバックボーンである<メタ記号空間>である。と、言えるような気がする。

個人的に、四次元以上の空間(巻き上げられた7次元(?))を想定することは、実践的ではないし、冠詞解釈というマクロな(?)結果には影響しないと思う。この辺の無駄さ加減は、同定元の単語の<かたち>を考える行為と似通っている。

補足として、<無冠詞=抽象>という近代的で形而下的なニュアンスは捨ててほしい。無意味のなかに意味の前駆体みたいな群が実存的に―それこそエンヴィーのように―「集合」している、という理解は僕のイメージに合わない。

むしろ、ひも理論の一般向け理解が好ましい。「ひも」という振動、つまりはどんな波長(差異)に設定されるかでどんな物質(意味)になるかが決まる。全ての意味(の前駆体)は等価であり、無価値である「虚無」であるのならば、「群」という発想*5がナンセンスであるのは分かって欲しい。*6

14. 無冠詞は無意味化を行なう

今までの派生図でみてきたように、無冠詞は、元の記号の冠詞状態に関わらずに、記号に付加される。その際に、意味(や無意味)は失われる――無意味化。

ある意味では抽象化・普遍化と言ってもよいだろう。(普遍はともかく、抽象という記号は形而下的なものも意味しがちなので、あまり好きではないが……。)

先の比喩に対応させれば、無意味化とは関数化と言えるような気がする。差異の戯れが、意味を生む関数の変数へ様々な値を代入する行為であるのならば、無意味化は関数の初期条件を「設定中(ポーズ)」にする行為なのかもしれない。時刻合わせをする間に時間が進まないようなもんだ。時が止まっている最中に、意味を生む振動は生成されていない。

15. 意味とは何か。

全ての『プロトタイプ』の『プロトタイプ』は「無」である「無冠詞」――これが全記号の『オリジン』(「人」という記号の連鎖で言えば『イヴ』)。そして、不定冠詞・複数形・定冠詞は、「差異の体系」であるがゆえに、『プロトタイプ』を必要とする(親がいなければ息子はいない、みたいなもん。むしろ、等価ということから考えれば、正確にはアメーバだ。)。

ポストモダン的には、≪派生≫が連鎖している時に『オリジン』は既に失われている。「既に派生した」無冠詞という「無意味」から「別の」無冠詞・不定冠詞も派生する。不定冠詞に派生可能であれば複数形にも派生する。逆に、不定・複数からも、無冠詞は派生する。なぜなら、「もの」という<かたち>に「意味」がある以上、定性化・形而上化(=無意味化。まぁ、誤解を恐れずに敢えて言えば、「抽象化」といってもいいか)は可能なのだから。ゆえに、すべては等価に派生する。

そんなシミュラークルを、空間的、時間的、認識的、対話的、慣習的、etc...という「枠」を決めることで、無理矢理にコピーし、ペーストすること。

16. 不定と複数とは

意味・無意味の<意味化>。

まぁ、普遍で不在のフェストゥムに存在の苦しみを教えてあげることだよ。(ファフナー厨w

17. 同定とは何か

同定とは、「新しい意味」の≪派生≫である。この点において、不定や複数形と、またメタ的に全差異の地点で「無意味化」を行なう無冠詞と、構造上は同じである。

違いは「話者」と「読者」の間に「意味」が産まれるということである。言いかえれば、「話者」だけの「意味」ではなく、「話者」と「読者」の「共有された意味」がそれぞれの内部で<「だけ」の100%コピー>として≪派生≫した「新しい差異」ということになる。

意味の≪派生≫に「他者性」という要素が加わっただけで、他は無意味から意味への≪派生≫と同じだ。

「話者」の言葉は "...hell->a hell->hells->hell..."と、無限に≪派生≫し続け発散する、「読者」の言葉は"...hell->a hell->hells->hell..."も、同様に≪派生≫し続け発散する――宇宙が終わるまで。(生命の営みですね〜 :-P)

両者の「地獄」が、どこかで「重なった瞬間」、それぞれの<「私」だけの意味>は「プロトタイプ」として破棄(基点化)され、100%同じである"the hell"として≪派生≫し、完全複製される。(ま、普通は両者の意味が100%同じなわけないけどね。あくまで形而上の可能性であり、100%は絶対に保証されなければならない。すべては等価であり、オルタナティブでもあるのだから。)

「私」と「他者」の「対話」は、なにも「一対一」である必要は無い。「私」と「他者A」が同定した「the heaven」を「私」と「他者A」と「他者B」が同定することもできるはずだ。つまり、「the heaven(A)」から「the heaven(B)」も派生可能ということだ。よって、ここでメタ認識をメタメタできます。

で、定冠詞でメタメタできるんだから、同じ構造の不定・複数・無冠詞でも同様に確からしいわけだよ!

18. なぜ「無意味」自体を同定することができないのか。

そりゃぁ、「等価に無意味」ならば、A君とB君を区別する意味があるのか、という問題もあるといえばあるのですが……「同定」という「対話」を行なう時点で「意味」の存在は前提とされている…というか、そこは変に「実存主義」で誤魔化そう^^;

逆に、≪「意味」を前提≫とするなら、<「無意味」の「無冠詞」>を「同定させる」―つまりは、「未完結のまま完結させる」―というアプローチを完全否定できます。だからこそ、コピー&ペーストして、「神(オリジン)を殺す」わけですね。そうすれば、前に言ったようなロジックで「<未完結のまま>の<100%コピー>を完結させる」ことができます。

19. 無意味・意味・同定の影を追っても捕まえることはできない。

まぁ、某スタンドというか、ピーターがウェンディーより先に影を捕まえちゃったら物語としてアカンということ。

"φheaven"・"a heaven"・"heavens"・"the heaven"・"the heavens"という、どんな「無意味・意味」を持っていても、分節化のときに『プロトタイプ』とれば、"[φ]heaven"・"[a] heaven"・"heaven[s]"・"[the] heaven"・"[the] heavens"となる。結果、「無意味・意味」は破棄され、「0」という基点(指数)になる。

そうなれば、"the heaven"という意味が、それが"φheaven"から≪派生≫したのか"a heaven"から≪派生≫したのかetc...、「話者」の内部を知ることができない「読者」には分からない。もし分かったとしても、「無意味化」の段階の『プロトタイプ』に意味は無いのだから、元の意味・無意味に「差異」は既に無い。"the heaven"という「意味」が確定する前の段階(コピー・フェイズ)では、量子論的に「存在は確定していない」――つまり、意味と無意味の間で両義的に揺らいでいる。

これが「差異」の本質であり「意味」の≪派生≫である。『プロトタイプ』という「差異」の基点(シニフィアン)がなければ、"[a] heaven"という新たな基点は産まれず、「差異」(分節化)は≪派生≫しない。"a heaven"は主体的な<かたち(意味)>をもたず、「"φ heaven"から≪派生≫した」という両者の「関係性」の中で相対的に「別のオリジナル」として意味(シニフィエ)をもつ。「右」という言葉が無ければ「左」という言葉に意味が無く、また、その逆もしかり。これと同じである。

20. 結論――冠詞とは何であったのか

以上より、"φheaven"・"a heaven"・"heavens"・"the heaven"・"the heavens"は、"[φ]heaven"・"[a] heaven"・"heaven[s]"・"[the] heaven"・"[the] heavens"という『プロトタイプ』を瞬時に経由(コピー&ペースト)して、「定冠詞」によって「同定」されることが可能である。ならば、全メタレベルにおいて「同定」が可能であるということになる。

だから、「the heaven」が"φheaven"・"a heaven"・"heavens"・"the heaven"・"the heavens"のどれから≪派生≫したのかなんて、「派生した」という結果しかわからない「読者」には、絶対的に決定することは不可能だし、『プロトタイプ』を瞬時に経由する以上、それらは全て等しく無意味(0)である。

それゆえに、一次的な段階で想定される「5つの可能性」は無視し、「文間」や「文脈」という二次的段階で解釈するだけでいい。つまり、<どんな「差異化」がなされているか>だけを考えればいい。<かたち>に惑わされる必要は無く、どうせどれでも同じであり、どれも存在として揺らいでいる―だから、「差異」にだけ注目すればいい、と。

形而上的な「空」という「定性」。「月」という「概念」。このように、『プロトタイプ』としての「無冠詞」から≪派生≫した形而上的なモノが、"the sky" "the moon" "the Alps" "The Gulf of Mexico"だ。これが形而上的な具象なのか、形而下的な具体なのかは、「文脈」という「関係性」が決めることであり、あくまで「二次的」な問題だ。

これは、定冠詞に限った構造ではない。同様に無冠詞や不定・複数形でも成り立つ。

つまり、必要なのは「絶対的な意味・無意味の規定」―「主体的な意味」の<かたち>か辿ってきた「来歴」の探究―ではなく、「相対的な差異」という「関係性」―「私」の「内なる他者」との「対話」や「私」の「外なる他者」との「対話」―そんな「差異の構造」を共時的に「解釈」することである。で、どんな解釈が妥当であるかを、最後に判断する、と。*7

21. 残る疑問:ゼロ冠詞が無意味だからこそ持ててしまうメタ意味

  1. 「無意味」と「意味」の間に「差異」は生まれるのか?
    • という対比において「逆に同定を期待されないhell」が特殊な意味合いをもつことはあるのか?(やっぱり、解決できなんだか……)

22. 後記:冠詞とは…

  1. 無意味に意味は無い。
  2. 無意味という意味。
  3. 意味としての無意味/無意味としての意味。
  4. 無意味だからこそ意味がある。
  • 恣意性のある無意味


これらは全て違う意味だ。

  1. 無意味に意味は無い。
    • 「意味―無意味」=「冠詞―無冠詞」
  2. 無意味という意味。
    • 「意味―無意味」それぞれの「主体性」が問題になっている。「無意味という意味はある」というメタ視点【主体性の否定】。
  3. 意味としての無意味/無意味としての意味。
    • (意味・)無意味空間(それぞれの)内部での差異が問題になっている。この視座に立てば、形而上のものを形而上のまま(同じ抽象度)で語ることができる。メタメタ視点【差異の戯れ】。
  4. 無意味だからこそ意味がある。
    • 意味と無意味を対比することができるのならば、無意味であることすらも意味を持ててしまう――差異が生まれてしまうから。嗚呼、メタメタメタ視点【神殺し】。階層的二項対立サヨウナラ。
  • 恣意性のある無意味
    • 恣意性は既に意味であり存在である。さて、コノ「無意味」とは "non-existence"なのか"un-existence"なのか"anti-existence"なのか"mal-existence"なのか"a-existence"なのか。当然、"non"であり、"0"だ。"0"という規定に恣意性はあるよなぁ〜。意味は無いが恣意性はある。電磁気力とかは僕らの宇宙のmembraneに繋がっているが、gravitonは繋がっていないから弱く見えてしまうようなものかなぁ。つまり、恣意性は意味という形で冠詞に表れるが、無冠詞においてはルールとしての規定に恣意性エネルギーが全て使われる。
    • これが「意味としての無意味」を可能とするトリックでり、普段は「恣意性」が隠蔽されている理由。だからこそ、意味を前提とするとは「恣意性を前提とする」ことであり、「意味」という「ツガイ」さえいれば「無意味」と対比が可能。間には「ツガイ」として「差異」生じ「意味」が生まれる…べきである……かもしれない、という物語――メタメタメタメタ視点【似非脱構築】。

23. hellと無冠詞と唯一

  • 僕の質問には三つの主旨がありました。
    1. 一つ目が、このポーの文における特殊な解釈。
    2. 二つ目が、ポーの特殊事例を一般化した、冠詞の有無に関する理解。言いかえればメタ解釈。
    3. 三つ目が、二つ目をもう一度ポーの事例に特殊化し、一般化した法則との違いを考える。で、その「違い」という特殊性に普遍性を見出すことができるのか――再度、一般化することはできるのか?言いかえればメタ・メタ解釈。


このポーの文において、hellが a hell/hells になることは「ありえない」でしょう。なぜなら、hellは「一つしかない唯一無二の絶対」である「無意味」だからです。

無冠詞は「虚無」です。ということは、「無いということで在ること」たり得ない――「絶対の虚ろ」。そんな「差異の無い無意味空間」で冠詞をつけることは不可能です。しかし、同定を不可能とする「絶対の普遍性」ゆえに「共有」が可能なんです。

無意味ということは虚無であり、「私」と「他者」とを区切る境界線は無いから「我々」になる。そこに差異はありません。意味は生じません。だけど、「我々」だからこそ、「無意味」を「共有」できるんです。

つまりこれは、「唯一」を表せるのは、「定冠詞の同定」だけの専売特許じゃないってことになります。無冠詞でも「唯一」は表せるし、むしろ「唯一」は「無冠詞の前提」とも言えます。まぁ、無であり絶対の普遍なのだから、「唯、一つ」というよりは「唯、零」ってかんじでしょうけど。

定冠詞が他者との差異を表し、不定冠詞が「私」という内なる他者との差異を表すのなら、無冠詞は神です(語り得ぬモノの代表格だし)。人と神とを同じ空間で扱うことは不可能です。

そこで、唯一神というオリジンをブッ殺して地獄へ堕としてあげると、「意味としての無意味」として、人と同列に語るたれちゃうわけですねー。だけど、それは神殺しである人が神としてランクアップしたわけじゃないんです。人も瀕死っつーか死んでるのに何で生きてんの、このゾンビは?って話になります。

だからこそ、人という定冠詞が特許を取得していたはずの「唯一としての」とかいう権能も主体性というオリジナリティーを喪失しちゃうわけです。

逆に言えば、冠詞がつくと「意味が生まれる」てしまい、そこでは「差異が前提とされてる」んです。

神と同列に扱うことができる対象物は神だけです。つまり、ここでいうキリスト教的な「hell」と並べることができるような―たとえば仏教とかね―「hell」がなければ、a hell/hells/the hell とかになるわけがないんです。もしくは、「語る」という行為を行なう時点で、差異が生まれるというか、語り得ぬものを語ってしまった時点で、意味ができてしまうというか…そーいうケースなら冠詞がつくでしょうね。


「唯一の地獄だからこそ、無冠詞でなけらばおかしい」んです。定冠詞による「唯一」が「恣意性のある唯一」ならば、無冠詞による「唯一」は「恣意性の無い唯一」であり「唯零」であるわけです。

「意味に主体性が無い」と言うことは、こういうことです。「意味が生まれる」というのは、ただ単に形而上から形而下へ突き落とすだけじゃないんです。特権もオリジナルも特別も――そんな「唯一」が前提とする「主体性(ユニーク)」は全部、片っ端からブッ壊すんです。

だから、「φhell」の無冠詞は上方照応(言語外・外界照応)とも言えちゃいますね、ポモ的には。hellが無冠詞であることは、the heaven/the earth という、「意味が前提とされている」んですよね。だから、無意味のくせに、意味が無ければ無意味としての普遍性を主体的に確保できないところは、記号の限界であり、認知の外側に在る<ありのまま>を表せないというポストモダン的なニヒリズムに重なりますね。

(あ、となると、三つ目の主旨の半分は、この理解でクリアできますね!無意味のくせに意味を前提としなければ語ることができない。これで、言語という記号の限界が確定しました。ならば、ここを最前線に「無知の知」を実践できる。ということは、もう一歩、前進して、「無意味だからこそ意味がある」に辿り着けそうですね〜。)



まったく関係無いんだが、下に表示されたりする『謎解きの英文法 冠詞と名詞』の編集者コメントの学校英語叩きが不当で腹立つ。「like が進行形にできる場合もある」って学校で習いましたけど何か?「状態ではなく動作として使えば進行形に使われる」って習いましたが、あんた大正うまれ?SVOOとSVOでの文意の違い?学校で習う必要あるのか?ネイティブ・レベル以前の段階だろ、受験英語はよ!それに、それだって、文末焦点で説明できますから!!!文末焦点ぐらい、学校の先生がカリキュラムになくても話してくれますから!!!!

*1:id:umedamochio

*2:っつかーか、「やさしくたくさん」とか、JapanTimesは日本の話だから読みやすいとか、FORKIDSとかよ、なんで英語を勉強してんのに、そんなセマッコイとこに閉じこもってなきゃなんねーんだよ、って僕の心の中のスノビズムが轟き叫ぶんだよねッ!!!マジで萎えるわ〜。もっと無駄にハイブラウで外連味フルコースな装飾過剰を!(高踏趣味万歳!www

*3:アンチバベルでも取り上げていただきました。(多謝

*4:僕はまだ、言っていないことを冠詞と無冠詞との対比によってメタ的に語ってしまうことができそうな、この「the heaven and the earth―hell」関係性を捨てることができないようだ。一次(文法)的には不可能でも、ニ次(修辞)的な「意味解釈」の段階でなら、<「同定されないこと」を逆に期待している>という物語を解釈することができるような気がする。ま、ここは保留だな。

*5:ほんとに、コイツは個人的に厄介なイメージだった。「抽象」という記号から、いかにして形而下的なイメージを引き剥がすかが、無冠詞のイメージに役立つと思う。ここで勘違いしないで欲しいんだが「形而上―形而下」という二項対立は、BBSでの説明で予め似非脱構築wされている。(←両者ともに形而上・形而下という両義性を含んでいるから。)

*6:もちろん、冠詞を十全に駆使することができるのならば、僕の個人的で特殊なイメージに拘る必要は無い、とも思う。僕にとって、ポストモダン的な物語がマッチしただけだしね。

*7:思うに、これって本にして売れるんちゃう?(笑 k.y.さんと小原さんのコネで何とかなりませんか〜? :-P (冗談ですよ!^^; まぁ、2週間でこれだけ理解が進めば十分かなぁ。もっと詳しく、論文みたいな形式で纏められたらいいんだけどなぁ。パクル時はクレジットに入れてね! :-P