リアリティーの構造
- http://www.geocities.jp/shinonomenod/ketai_mori.html…現実にも「伏線」はいっぱいあると思うんだけど?
- http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2006/02/post_243.php…「伝統的ルールに従わないものが新しく感じられるようではどうかと思う。」=翻訳蒟蒻=>「ケータイなんて、ゾラに始まり『蒲団』で吹っ飛んで<私小説>に矮小化したのと同じ構造だろ、ヴォケ!?」
- http://moura.jp/frames/interview/070423/03.html…大脳皮質は何をしている!太古に大脳辺縁系に刻まれたトラウマを我々は克服できないのか!?死ぬのはイヤ〜〜〜。誰とでも共感できる夢の子〜〜〜www
- 2007-07-15…特殊の先にある普遍みたいなぁ
- 2007-07-15…「共感」は「説明」の亜種だろうな。説明すら要らない説明が共感なんだと思う。ある意味、究極の描写かも。まぁ、ファフナーっぽくいえば「同化現象」だろうね。
- God & Golem, Inc.…ケータイ世代にとって、ラノベは一般(大衆)小説よりリアリティーがないらしいです。(一番上のリンク先を参照)
- ライトノベル作家の文体 - バカ小説とメイドさん至上主義なまいじゃー分室
- 文学を読まない俺がコメント - REV's blog
- http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20070716…ロカンタンに共感するには形而上フィールドへ逝かないと無理ってばっちゃが言ってたずら。
- エヴァとデスノとコードギアス<追記> - umeten's blog…完成した「物語」では問題提起を読み込むための「切れ目」が少ないのかもなぁ。『エヴァ』というテクストは物語というよりは小説なんだろう。
石原千秋は「小説」と「物語」を区別するそうだ。
前者は≪なぜ≫を問う読みであり――
後者は≪なに≫を問う読み――
だそうだ。
つまり世の中には、少なくとも2種類の読者がいることになる――≪なぜ≫を理解したがる者と≪なに≫を感じたがる者。
≪なぜ≫を理解したがる者といえば、SF中毒な人達だろう。彼らが好むのは、「小説」であり、≪なぜ≫であり、「センスオブワンダー」なんだ。だからこそ、id:kaienさんや大森望は『デカルトの密室』を「小説」として高く評価したのかもしれない。もちろん、彼らは「物語」を「小説」の「切れ目」から抽出するのが巧いから「物語」として高く評価したのかもしれない。
だけど僕には、『デカルトの密室』が「物語」として成り立っていないように感じられた。むしろ、「物語」としてではなく、「小説」として読んでもらうための「小説」であり、無駄に出来が良い「物語形式のブルーバックス」のように「感じた」。
大森望は、『太陽の簒奪者』も高く評価しているようだ。が、僕自身は、それほど面白い「物語」だとは思わなかった。「知性」に関する「センスオブワンダー」の部分もポモな今日となっては特に新しくはない。もちろん、それでも、この「小説」が高い評価を得ることができるのは「理解できる」。
僕は、どうしてそのように「感じ」、そのように「理解できた」のだろうか。『デカルト』と『簒奪者』を比べると、前者は「記号的」であり、後者は「自然主義的」に思われる。つまり、「登場人物」を「キャラクター」のレベルまで抽象化し、(おそらく)論理療法だかで言うところの『キャスティング』が可能なのは自然主義的である『簒奪者』だけ、のような気がする。
『デカルト』の登場人物には、なぜか「リアリティー」を感じなかった。「物語」としても、「小説」としても、『デカルトの密室』の方が面白い。だけど、心に残る登場人物は『簒奪者』のナタリアや某宇宙生命体であり、『デカルト』のケンイチやフランシーヌじゃない。
ここがパラドックスなんだよな。実は「ナタリア」と「某宇宙生命体」は両作品中で、最も「記号的」な登場人物なんだよね。そんな現実的でないキャラクターが『キャスティング』可能であるかのように「感じられてしまう」。だけど、「ナタリア」や「某宇宙生命体」を『キャスティング』して、「この、場面だったら、彼らはどのように行動するか」なんて、人間である僕に「感じられる」わけがないし、彼らの行動が「理解できた」としても、僕の現実には何の役にも立たない。彼らは―たとえ本当に生きていたとしても―「わたし」の現実にとっては、ただの「ノイズ」にしか過ぎないのだから。
役に立たない「ノイズ」でしかないのであれば、『キャステング』は失敗している。『キャスティング』に必要とされるのは「形而上で理解されたキャラクターを形而下の感覚で再現できる」という「繋がり」だ。そしてライトノベルには、まだ、「繋がり」は残っている様に思われる。
つまり、「<形而上概念を内包した形而下>での動物化」のレベルで踏ん張っている気がするということだ。<なぜ>を問う知性など必要とされていない動物化ではあるが、「学園異能」とか「SF」とかいった、日常において「異常」なものが「日常化」したところでの動物化であり、「形而上的なものを内包したリアリズム」の消費であるからだ。このような「形而下的なリアリティー」と「形而上的なリアリティー」との「繋がり」が残されているがゆえに、大塚英志の夢みる「自然主義への可能性」は、まだ残っていると僕は「感じる」。*1
だが、「感じる」という『結果』だけでいいのだろうか?
NHKでやってたな。「メガチャーチ」ね。あれはモロに大審問官をやってるよな。「ある意味で、ビジネスだ」と言いきるところに、破壊的な新興宗教よりは健全に思える。
メガチャーチにすがる人達は、理解できない神の異言や、感じることができない司祭の説法も必要としない。必要なのは、『奇蹟』という『結果』であり、『救済』という『感じられる結果』であり、『教義』という『方法論』でもなく、『自由』という『プロセス』でもない。彼らが欲しいのは「答え」を得るための「道具」でもなく、「答え」に辿り着くための「道標」でもない。もちろん、それは「答え」に向かう「自由」なんかでも決してなく、「答え」そのものの「現前」であり、奇蹟の瞬間に「立ち会うこと」――そんな「結果」という「瞬間」が必要とされているのだろう。
ここに≪なに≫を好む読者との類似点がある。<「〜だわ」「〜じゃ」といった口調を既存小説のお約束>程度の形而上的な記号を形而上的に理解できないのがケータイ小説の読者。いや、「理解できない」のは問題ない。「理解できない」と「理解しようとしない」は同義ではないのだからね。問題なのは、後者の場合だ。彼らは「物語」しか読めないし、読まないのではないか――つまり、「≪なに≫しか問わない」のではないのか。
≪なぜ≫は決して問われない。
そうであるのならば、大塚英志や東浩紀が言う「データベースの消費」すらも、彼らにはできない。≪なぜ≫を持たない彼らが無数の≪なに≫を繋ぐには、それらを繋ぐ<別のなに>が必要となる。否――『提供される』必要がある。彼らは既に「データベース」から「物語」を作るための≪なぜ≫を所有していないのだから。それゆえに、常に消費し続けなければならない。そうなれば、彼らのデータベースは発散し続ける――そんな可能性。
彼らの中にデータベースの構築・最適化という「プロセス」は存在せず、データベースという「結果」しか存在しないのかもしれない。だからこそ、形而上という可能性を、ただ無闇に無根拠に「古い」・「リアリティーがない」と、理解せずに拒絶する。
理解できないものは感じられない。感じられるものしか理解できない。
「感じられるリアリティー」には2つの頂点があるのではないだろうか。ひとつは、ライトノベルの到達点――「形而下への繋がりを捨てた形而上でのリアリズム」。もうひとつはケータイ小説の到達点――「形而上への繋がりを捨てた形而下でのリアリズム」。
その2つの頂点に、「自然主義的なリアリズム」を保証する「繋がり」は存在しない。アリエナイ登場人物の、アリエナイ行動が、アリエナイ状況でアリガチに紡がれる――「日常」として。「わたし」の分身でしかない「登場人物」の、「わたし」としか思えない「行動」が、「わたし」と同じ状況でアタリマエに紡がれる――「日常」として。
ゆえに、「わたし」の「分身」が「理解できない」文体も「共感できない」文体も必要ない――『理解』への拒絶。「切れ目」がそこかしこに走る「小説」から「物語」を読むことへの快楽は失われ、「切れ目」なんてどこにもない完璧な「物語」を消費することだけを希求する――『私だけの物語』の消失。だからこそ、流麗な文章も華麗な文章もあってはならない――『異化効果』の放棄。そんなものがあっては、リアルな「わたし」との「切れ目」ができてしまう――『他者』の消散。彼らは「異なる『私』という他者」を「理解したい」のではなく、「わたし」の中にある『私』を「感じたい」だけだから――『私』の感覚。
結果、「現実」という形而下における『キャスティング』は不可能になる。「もしアイツならば、こんな状況で、どうするだろう?」といった<なぜ>を形而上で思索することはできない。
形而下にいる「わたし」との「繋がり」がなけらば――
形而上にいる「あなた」との「繋がり」がなければ――
「わたし」は「あなた」を『私』の中にいる『他者』として『キャスティング』することができない。そこにいるのは『私』からはあまりにもかけ離れた「私」であり、『私』と同じでしかない「私」であるのだから、『キャスティング』という≪『私』が他の『私』であった可能性≫を「感じる」ことはできない。
こんな『他者』という『私』の「可能性」を失ったものが、彼らの求める「リアリティー」なんだろう。
ま、ケータイ小説も知らんし、ライトノベルだって西尾維新とか冲方丁とか*2のビルドゥングスロマン寄りのものが好きな僕に語ることなんかできないものを無責任に書いてみた。
あとはメモ。
世界は残酷で不条理だしそれに対する自分の取り分はあまりにもスカ、という状況の中で、いかにして自己の主体性やら取り分やらを確立していく話、というのが好き
僕も大好きだ!!!!!
えーと、大きな物語の解体があって、国家とか人類の未来とか、そういう大きめな社会組織を経由しないセカイとの対比を描く手法をセカイ系とする、あたりはわかるのだけど、大きな物語の相対化の中で、自分の物語を選び取るという「モチーフ」が決断主義、なのかな。なんか作品を読んでいないのでわからないや。オタコンテンツだと、ヒロインが決断の根拠だったりするんだけど。
「決断主義」って、どーも結果志向の臭いがするんですよねぇ〜。ライトはキラであることを、LはLであることを強要されたけど、ライトは「キラという物語」を選んでいるだけで、Lは「Lという物語」を紡いでいるって気がすんだよな。結果主義という志向ゆえにポモなニヒリズムに絶望して閉鎖するのがセカイ系だとすると、決断主義が結果主義と同根だとマズイよなぁ〜。それ(キラのタイプの決断)って、ただの「小さな物語に偽装された大きな物語」じゃん、って思うんよ。せっかくの「懐疑」を忘れて「普遍」へ突っ走っちゃったら「退行」になっちゃうよね。
いや、「そういうアンタだって過程という結果を求めてんだろ?」って言われちゃいそうですけど〜。
「選ぶための結果」より、「探すための結果」の方が元気でるよって気がするんだな。だって、「選択肢が提供される」って決定論だし。日向ネジですら、克服しちゃってますよ、そんなニヒリズム、みたいな?というか、ライトとナルトって精神レベル同じだよなw 俺ってば、絶対に神になるってばよ!www ナルトの方が可愛らしいし無害な分、ライトよりグッドウィルな決断主義だけどな(笑
まぁ、まとめると、『私』を感じ難いポモポモな時代に生まれちゃった僕ちゃんたちは難儀やな〜*3ってことです、はい。その辺は若者の責任じゃないんでね、敢えてスルーしてあげちゃうのが大人心じゃないの、とか思ったりもしますです、はい。あんたらは悪くないと、と言われると、本当だからこそ逆に自尊心がメラメラしちゃう、みたいな?そんなニセモノのホンモノだってホンモノだよな。