教育ってなんなんだろう(ぼのぼの風

http://d.hatena.ne.jp/terracao/20061101/1162318719

「英語やっていると受験・就職に有利、お金持ちにだってなれる」という本音むき出しの主張なら、ものすごくシンプルに論理的だが、そのような主張の背後にある経済的・競争的前提を小学校教育に適用するのは受け入れがたい。

英語教育に携わっている人間として言わせて頂くと、「インターネットが楽しくなる」という事実(確かにこれは事実に違いない)を英語教育の後ろ盾にされては困る。そのようなアジテーションを「英語教育」をかたって行うのは勘弁してもらいたい。

なお英語教育の定義は、(ほぼ)全ての子どもたちに制度として英語を「学習させる」こととしておく。個人個人がそれぞれの目的・動機・方法で英語を学ぶ(=英語学習)とは根本的に異なる。もちろんこの定義は私がとりあえず用意したものであり前提が違えば結論も当然変わる。

菊地先生の水伝批判のエントリー近辺で、「倫理や道徳の基準を外部に委ねるのは問題がある」みたいなコメントを読んだ記憶がある。

つまり、「将来、役に立つ」だろうが、「インターネットが楽しくなる」だろうが、「金持ちになれる」だろうが、本質的には、『外部』に判断を委ねているのに変わりは無いのではないだろうか?


terracaoさんの言う「制度として学習させる」が何を意味しているのか分からないけど、「教育」って、どの教科でも『本質』は同じなのではないだろうか?『育てる技術―元祖プロ・コーチが教える*1』(★★★)で語られるバスケットコーチの様に、人として、コーチとして、魅力があれば生徒はついてくると思う。生徒が尊敬できる先生が言う事なら、どんな非合理的な『理由』でも納得してしまうんだと思う。

一方、人として魅力が無い先生が、いかに合理的で、いかに論理的な『理由』を教えてくれても、生徒は誰一人として納得しないんだろうな。


英語でも数学でも物理でもスポーツでも、それらを通して学ぶ『何か』こそが、教育の成果であり、『理由』なんていう小手先の技術に頼っているようでは、教育者失格なのかもな。


まぁ、英語って恐ろしい教科だと思うぜ。スポーツも数学も、出来る奴ってのは少ない。だから、素人から見れば、どんなヘボでも凄く見える。いや、実際、それなりに凄いんだよ。*2

だけど、英語ってのはよぉ〜、ネイティヴっていうさ、素人のクセに免許皆伝な奴がワンサカいるわけだよ。そいつ等と比べられて、駄目な奴と生徒に思われても、生徒がついてくる魅力。そーいう情熱が他の教科より求められている気がするな、英語って教科はさ。

追記:

「情熱」ってゆーか、英語教師なら英語自体への「情熱」があるのは<大前提>だよ。自分が教える「教科」への「情熱」が、ある種の「カリスマ」をもたらすんだと思う。

で、その「カリスマ」も「教祖様」とかの「カリスマ」じゃなくて、「師匠」が弟子に対して発揮するようなカリスマ。ディオ・ブランドーのような「カリスマ」ではなく、ジョルノやブチャラティーのような「カリスマ」ね。

ワンマンで自己完結しているのではなく、生徒と公平な関係を築ける人間性――その可能性を生徒に感じさせるのに必要な<大前提>が「情熱」なんだと思う。背後に何かを感じられるからこそ、生徒は先生の教えを信じられる。この先生の言う通りにすれば、すくなくとも先生と同じくらい英語が出来るようになれるという確信できる。そんな信頼が大切なんだと思う。


ただ、「情熱」(「カリスマ」)でも、「理由」でも、結局は「エサ」で釣ることになってしまうかもしれない。だけど、「理由」という「エサ」以前に、「情熱」という「エサ」を持っていない教師が多過ぎる気がする。いや、多いというよりは、目立つんだと思う。英語を通して教育するってのは、他の教科を通すより、荒が目立ってしまう。だからこそ、シビアな教科なんだという気がします。

*1:なぜ人を殺してはいけないのか? (シリーズ 道徳の系譜)』で語られるグロテスクな教師or教育へのアンチテーゼとして、なかなか興味深かった。

*2:英語習得の標準学習時間は最短で15000時間って言うし。