金持ちと移植医療

404 Blog Not Found:善意の値段
弾さん、日本の金持ちとアメリカの貧乏人を比べるのは印象操作じゃありませんか?日本の金持ちとアメリカの金持ちを比べて下さいよ!(ちょっと追記しました。というか、大改変かも……内容は変わっていないつもりです。もし、古い版でエントリーなどを書いていらっしゃる方がおりましたら、もうしわけありません。長くなっただけですので。)

(参考)
諸外国の乳児死亡率
 アメリカ:6.9(2000年)、カナダ:5.3(1998年)、フランス:4.5(2002年)、ドイツ:4.4(2000年)、イタリア:4.6(2000年)、イギリス:5.6(2000年)

諸外国の幼児死亡率
 アメリカ:34.7(1999年)、カナダ:19.2(1998年)、フランス:24.7(1999年)、ドイツ:25.3(1999年)、イギリス:27.2(1999年)
厚生労働省:実績評価書

まず、これって何のデータなんでしょう?「乳幼児突然死症候群(SIDS)予防に関する講習会等の普及啓発」という文言からすると、SIDSに絞った死亡率という可能性もありますよね。まぁ、普通に考えれば「全体としてのデータ」のはずですけどね。とりあえず、全体のデータとしておきましょう。

なぜ、日本よりも乳幼児死亡率の高い国、特に合州国まで子供を助けに送らなければならないのかという矛盾だ。現地の貧者の子供の命の値段は、日本の子の命より安いのだろうか。少なくとも、結果的にはそういうことなのだろう。合州国が移植医療先として人気なのもそれが理由の一つとしか言いようがない。

これだって、すりかえてませんか?この数値は(おそらく)全体の死亡率なのであって、心疾患におけるデータではない。ですので、アメリカの心疾患の乳幼児を押しのけて、金にものを言わせた日本人が割りこんでいるのなら、「矛盾」でしょう。たとえ金持ちの命でも、より値段の高い方が価値があるのです。ただ、弾さんがここで言うような「矛盾」を説明するために、この「全体としてのデータ」を用いるのは最適とは思えません。移植が必要な事例と、そうでない事例とを分ける必要がありませんか?

それとも、弾さんは「アメリカでの移植手術一般、もしくは命に値段をつけること自体の矛盾」を論じていらっしゃるのでしょうか?それならば、ある程度は理解できます。つまり、命という絶対的なもの、お金なんかでは計れないものをやりとりする矛盾ということでしょうか?しかし、それにしたって、移植の問題と医療制度・社会構造の問題がごちゃまぜになっていますよ。

アメリカで乳幼児の死亡率が高いのは弾さんが指摘していらっしゃるように、貧困と医療制度の違いがあるんでしょう。ですが、アメリカの貧しい人達はどのみち移植医療なんて高度なものは受けられないのではないでしょうか?それなのに、日本の金持ちとアメリカの貧乏人を対比させるのは恣意的過ぎやしませんか?むこうでも、同じように寄付による活動があり、それを押しのけて日本人が金にもの言わせて医療享受資格をアメリカの人から奪い取っているのであれば、それこそ「矛盾」です。ここを指摘なさるべきでしょう。実際、そのような≪金のからんだ事実≫があるのでしょうか?

個人的には、たとえそのような事実があったとしても問題があるとは思えません。だって、そもそも「第一の矛盾(声の大小)」を冒しているのが、移植手術という高度高級医療なのです。彼らは金の無い他の患者(サイレントマジョリティー)を踏み越えて助かろうとしてるんです。その「声の大きな」彼らが、最後は金で辛酸を嘗めたとして、それがどうなのだ。それこそが、彼らの負うべき応報であるはずだろ?

それに、高度医療だって、金を出してくれる人がいるから発展できるんです。数をこなせばモット安く提供できるようになるかもしれないじゃないですか!一人の金持ちのおかげで医者の腕が上がり、別の金持ちの子供が助かる確率だって上がるんじゃないですか?≪命は等価≫なんでしょう?でも、質的命の価値という絶対的指標に固執して、量的命の価値という相対的指標を無視していては医療の発展なんて望めないし、より多くの尊い命を救うことはできないんです。

だいたい、「乳幼児臓器移植を寄付でまかなうことの第一の矛盾」と仰りますが、この赤ちゃんは、より一般的で費用対効果の高い疾患を患っている他の赤ちゃんより「命の価値が低い」と国に認定されているわけですよ。だってそうでしょ?なんでもかんでも保険で賄うことはできない。だから、効率の悪い命は捨てる。これが保険医療でしょ?これが量的に命を助ける方法なんですよ。

一方、患者の選定に金の多寡が影響を及ぼしていないのであれば、日本の移植患者やその家族が「第2の矛盾(医療の搾取)」についての覚悟を負わされる必要は無いはずです。彼らは正当な手続きを経て、手術を勝ち取っただけ。もちろん、同条件の候補者が何人もいるなかで日本人が選ばれたとすれば、「運の問題は納得できても、せめて同胞のアメリカ人であって欲しかった」というような感情問題は発生するでしょう。

残念ながら、この感情をもってして日本人患者が冒す「第二の矛盾(医療の搾取)」を指摘することは出来ません。候補者達は公平に選定されたのですから。では「アメリカの乳幼児の方が死亡率が高いのだからアメリカ人を優先すべきだ」という論理が成り立つのでしょうか?(今回は「命の価値」に焦点を絞ったものなので、「アメリカの税金で育てた医者なのだから……」などといった社会的な理由は無視させていただきます。)

まず、量的観点から考えれば、日本人の乳幼児もアメリカ人の乳幼児も等価と言うことができる。それに加えて、量的といえども、全体としての乳幼児の生存率、もしくは心疾患をもつ乳幼児の生存率の違いがあるのだから、どちらの命の方が相対的に高価であるか判定することもできる。この判定において、全体と特定のどちらの指標を重視するのか。乳幼児全体を重視すれば、生存率がより低いアメリカの乳幼児が優先されるべきである。他方、心疾患の乳幼児に関する特定のデータはないので判断不能。とは言え、アメリカ人の方が高価値になる可能性が高いと推定できる。ただし、「日本人の命の方が高価だったらどうするのか」という問題もある。

さらに言えば、日本の心疾患乳幼児は、量的観点から切り捨てられた命だ。≪命は等価≫なのに捨てられてしまう命があるなんて……許されるべきことなのでしょうか?といった同情を利用して、相対的な量的指標を覆い隠し、誰しもが否定できない絶対的な質的指標へと落としこむ。この、ある種の詐術とも言えよう≪質的命乞い≫。これこそが募金活動であり、切り捨てられた者たちに残された最後の希望だ。

こうして考えると、弾さんの言うような「乳幼児臓器移植を寄付でまかなうことの第一の矛盾」は的外れな気がする。むしろ、「乳幼児臓器移植を寄付でまかなうことの第一の矛盾」とは「サイレントマジョリティーを押しのける」という≪相対的な咎≫より「そのお金で救うことがデキル量的命を犠牲にして一つの質的命を救うこと」という≪絶対的な咎≫である。と、すべきではないだろうか?

ま、裏技だの後ろ指だの……いけしゃあしゃあと遠吠えてくれんよ負け犬が!覚悟の足りないサイレントマジョリティ−がルサンチマン炸裂させてんじゃネーよ!命かかってんだよ!なりふりかまっていられるかよ!倫理も善意も金もなにもない。こちとら、明日に見捨てられた命を抱えてんの!明日に縁のない命でも、また明日、会うことができる縁を掴むために運命に逆らってんだよ!!!指銃だろうが六王銃だろうが、後ろから刺しまくって下さって結構だ。その反動を利用して前に進んでやるよ!!!

どいつもこいつも、他人の真似ばかりして……、まるで、他人と区別されるのを恐れている様……マジョリティーであることに、不幸に浸ることに、どこか安堵を覚えている、ような――可能性を放棄するが如き態度、それはまるで、運命に対する恭順、あるいは迎合……そして諦め