twitterのユーザーページから、ajaxではない普通のhtmlなfavouritesへ飛ぶOperaブックマークレット

ajaxウゼー、autopagerizeと相性ワルー、Operaさんグリモンな$Xをrequireできないからって、コピペ追加するだけじゃ定義されないんですねーな情弱の情弱による情弱のための今更TIPS。

これ、ふぁぼったーへ飛ぶやつ

Button11, "F"="Go to page, "javascript:window.open('http://favotter.matope.com/user.php?user='+location.pathname.replace(/\/([^/]*).*/,'$1')+'&mode=new', '_blank');void(0);", , , "F""

こっちはユーザーのふぁぼりぺーじへ飛ぶやつ。まぁ、本家じゃなくてfavotterでも読めるけどね、一応。

Button13, "fvs"="Go to page, "javascript:window.open('http://twitter.com/'+location.pathname.replace(/\/([^/]*).*/,'$1')+'/favourites/', '_self');void(0);", , , "Fvs""

これをC:\Documents and Settings\ほげー\Application Data\Opera\Opera\profileのtoolabarディレクトリにあるであろう standardtoolbar.ini とかの[Customize Toolbar Custom.content]直下に、ButtunXX のXXを適当に調節して、保存して、Operaを起動して、ツールバー上で右クリック->カスタマイズ。このボタンドラッグ配置で終了です。

最後の"fvs""とかの部分のテキストを書き換えれば、好みの文字列で登録されるようになります。

本当は、userscriptでURLを書き換えるとか、リダイレクトとかの方がスマートなんだけど、正規表現とか、$XをOperaで定義する方法とかムリポなので、これです。(functionを呼び出すときに、名前自体に変数があるから、Operaでは取り扱えないんだろうか?ま、日曜PHPさんの限界ってことでw)

Opera の Notes を iEdit でインポートできる wz 階層付きテキストに xyzzy Lisp で整形置換する式

オペラのノートってエクスポートできないんですかねー?本当はOPML形式とかが良いんでしょうかね、汎用性的には?

note.adrをimportする準備(階層つきテキストに整形export)

日曜プログラミングで Opera の Notes を階層付きテキストに変換してみた Lisp ちゃんGJ!。とりあえず、無事にインポートはできた。

xyzzy.exe フォルダにおいてあるだろう .xyzzyに書き込んで、Alt+xでミニバッファから note-replace を呼んであげてね。

(defun note-replace ()
(interactive)
  (save-excursion
    (goto-char (point-min))
(replace-regexp "^\tUNIQUEID=.*\n" "" t))
  (save-excursion
    (goto-char (point-min))
(replace-regexp "^\tACTIVE=.*\n" "" t))
  (save-excursion
    (goto-char (point-min))
(replace-regexp "^\tCREATED=.*\n" "" t))
  (save-excursion
    (goto-char (point-min))
(replace-regexp "^\tID=" "\.\." t))
  (save-excursion
    (goto-char (point-min))
(replace-regexp "^\tNAME=" "" t))
  (save-excursion
    (goto-char (point-min))
(replace-regexp "^\tURL=" "URL: " t))
  (save-excursion
    (goto-char (point-min))
(replace-string "#NOTE" "" t))
  (save-excursion
    (goto-char (point-min))
(replace-string "XXXX" "\n " t))
  (save-excursion
    (goto-char (point-min))
(replace-regexp "^[ \t]*\n" "\n" t))
)

最後の二つは上から――

  1. Opera の newline をフツーの改行コードに直す(XXXXは横棒と縦棒を組み合わせた鍵マークみたいに見えた。エディタではコピペして置換した。ブログにコピペして載せるとRSSが死ぬので回避。あと末尾の空白は、行頭にドットがくると階層と認識されるから、それ回避用)
  2. 空白orタブとか+改行だけの行を line break だけに直す。

iEditにインポートする前に少し手動で追加整形して終わり

上のやつだと、親階層(ピリオド1個)が自動で挿入されないので、Opera の Notes の行頭二行にある文章を削除して、「.Opera Note 日付」とでも書いといてください。

あと、オペラのノートファイル(note.adr)のエンコーディングはutf8nなので、インポート用の.txtに保存する時は日本語(Shift_JIS)に変えて保存(ミニバッファ経由ならchange-fhoge-encoding>sjijだっけ?)してください。文字化けしちゃうと思います。

あとは、iEdit のノード名を、IDじゃなくて、Opera の Notes みたいに「最初の数文字」にできたら可視性が向上するかもね。アナログに矩形貼り付けとかで工夫すればできるかも。というか、NAMEの置換で正規表現のマッチングを利用すれば、部分的に複製して置換できるはずだとは思うのだけど、調べるの面倒。

村上春樹のスピーチに隠された3つの「オヤジギャグ」

以下では、件の春樹スピーチの一文一文を取り上げ、他人の翻訳にケチをつけたり、どうやればこのような翻訳にたどり着けるのか考えてみたり、なんとなく思いついた疑問を、「ある一つの仮定」を軸にして放言してみたりしてみます。

その仮定とは、「英語には、単語がもつ意味以前に、冠詞自体に既に意味がある」という仮定です。*1

仮定についての蛇足:冠詞という普遍性は存在するのか?(英文解釈は下にあります)

なんでこんな仮定が必要なのかと言うと、「メタファーの意味を解釈する以前」の部分に、なにか「普遍性」があるんじゃないかって気がするんです。


その普遍性の「鍵」になるのが、「冠詞」なんじゃないのって気がするんです。


つまり「メタファーの意味を解釈する以前」にある部分というは、「冠詞という体系自体が既にもってしまっている文脈」なのではないか――ということです。

同じ「真実」でも、truth / a truth / the truth がもつ卵の殻って、無冠詞と不定冠詞と定冠詞が持つ機能の差とか、構文機能とか談話機能とか情報構造とかではなく、「冠詞それ自体の存在論的なニュアンス」があるのではないか?a truth と the truth は「別の『真実』」なのだろうか?という疑問。

たとえば、冠詞が卵の殻だとすると、卵の中身が半熟か生か硬いかとか――そういう話以前に、殻の組成が既に違うのではないか?仮に組成が同じカルシウムだとしても、ウズラとニワトリとダチョウでは大きさが既に違う、それと同様に冠詞にも大きさの違いが「既に」あるのではないか?「メタファーの意味」が解釈される前に、<初期値としての「既の意味」>が冠詞によって言明されているのではないだろうか?

冠詞のそれぞれの違いがどんな機能を談話とか統語とか構文とかの観点から持つことができるかってことに必然性は無いのかもしれない。でも、バレーボールの球でバスケットボールはできるけど、ゴルフの球でバスケットボールはちょっと無理だろう――と同じような理由で、冠詞自体の在り様にも、なにか交換不可能なニュアンスがあってしまうのではないか?

僕はそれを知りたい。幸い、僕よりも英語ができるであろう方々、僕よりも村上春樹をよく読んでおられるであろう方々が英文を翻訳してくれました。そこに便乗して英語の勉強をして見ましょう!というのが僕の動機です。

冠詞が持つメタ情報

冠詞が持つ意味とは、メタ情報みたいなものであり、「書き手がイメージする単語の意味内容を理解できるか否か?」という以前に、「そのイメージに読み手がたどり着けるかどうか?」という情報が冠詞に付与されている、と仮定するということ。

パソコンのファイルで例えるのならば、.txtに書かれている文章を開く前に、.txtのファイルサイズは少なくとも分かる。といったかんじ。

定冠詞のもつ同定という機能は3方向に伸びる(前・上・後)

定冠詞には照応という機能があり、それは3方向に向けられている。それらは、「既に出てきた前方・どこにも出てはこないが辞書などに載っている上方・これから出てくる後方」の3つ。要は、前の文か、辞書などか、後ろの文か、この3つの方向をチェックすれば単語の意味が分かっちゃうってことです。

true / a truth / the truth のメタ情報を読み解いてみる

村上春樹のスピーチには3つの「真実」がある。true / a truth / the truth の3つが、彼の「真実」だ。

文中に記された3つの「真実」――これらが実際のところ同じものを指し示しているのか、違うものを指示しているのか、いくつかは同じでいくつかは違うのか?同じ "the truth" でも違う場合もあるのか?そこについては深追いしない。

卵の殻の中に入っているであろう意味を無視する代わりに、この3つの卵の殻に刻まれているメタ情報についてだけ考えてみたい。そのメタ情報はルールに従って書かれている。国語の授業にも、よく注意されるルールがあるだろう。指示語に注意し、指示語が「何を指し示しているのか」理解しろ、と。だが、そのルールを逆に言えば、指示語と言うものは「よく読めば読者にも分かる何かを指し示していること」だけは確かであり、むしろ何かを指し示さずにはいられないわけだ。それがルールなのだから。

ここで言う「指示語」とは、「定冠詞(the)」のことだ。たとえ何を指し示しているかは定かではなくとも、必ず何かを指し示してしまっているはず。そして、何を指しているかは最終的には分かってしまうはず。それがルールなのだから。

そうであるのだから、書き手と読み手は必ず分かりあえる。少なくとも、書き手は読み手にも分かってもらえると一足先に賭けているはずだ。それが定冠詞のルールなのだから、だからこそ、定冠詞の the をその名詞につけたはずなんだ。――という風に、冠詞ルールを逆手に取れないだろうか?

メタファーは解釈しない。代わりに、the systemを使う。the system とは、冠詞のルールだ。そのルールだけで、どこまで読むことが可能なのか試してみたい。

本筋とは関係ない蛇足2:冠詞に意味なんてあるんだろうか?

冠詞自体に意味があるのか、冠詞と名詞の構文みたいなものから発生しているのか、英語の言語特性に沿って文章を書いていると、たまたま冠詞ルールが存在しているかのように解釈できてしまうのか、それとも文脈とかなんか別のところに発生源があるのか。その辺は分からないし、知らない。

「『村上春樹の言う真実』が指し示すもの」なんて同定することはできないのかもしれない。もしかしたら、いつかは照応先を見つけられるのかもしれない。それでも、たとえ言語外照応で、僕には同定することができない『真実』だとしても、『真実』の存在は冠詞が明示してくれる。

冠詞という普遍性

冠詞というルールが持つ普遍性。村上春樹のスピーチにおいて、それは彼の意図したものではないのかもしれない。ただ単に、英語というシステムが、そのように書くことをルールとして要請しているだけであり、なんの意味も無い抜け殻でしかないのかもしれない。

それでもやっぱり、現に目の前に冠詞は存在してしまっている。僕はこの「冠詞というルール」がとてもズルいように思える。僕は日本語もろくに勉強したこともなければ、英語だって日本語以下だ。だからこそ、ありもしないものが見えてしまうのかもしれない。それでも、僕には、このルールが―冠詞というルールがもつ、照応という機能の普遍性が―英語から日本語に翻訳される過程で消えざるをえないのではないかと思えてしまう。

言語への信頼って、実は冠詞が影から担保してたりはしないのだろうか?という疑惑

消えてしまうものは、意味というほどに確かなものじゃないかもしれない。意味を理解するという点からすれば、どうでもいい程の誤差かもしれない。だけど、英語という言葉の根幹にある信頼感が―もちろんそれは嘘であるのだろうけども―冠詞というルールにはあるのではないか?

哲学などでいう理性が、元来どんなもので本来はどんなものであるかは知らない。だけど、英語で理性への信頼を語った時、その背後には、もしくは足元には、冠詞への信頼から溢れ出ている部分もあるのではないだろうか。それは「理性」である必要など無く、「真実」であっても同じではないか。

なんかチート臭いんだよね、英語にある冠詞ってシステムは。(ま、この冠詞、文法なのか語法なのか、イミフだけど。)

「3つの真実」がどのように翻訳されているか「冠詞の有無」を軸に比較する

5つの翻訳を読んでみた。id:shota さん、 id:finalvent さん、 増田の方、47news、bijoux_iris さん。

基本的に、確認する内容は truth が多用される1段落だけ。メインの日英比較には、finalventさんの訳を使わせていただきました。これは個人的な独断と偏見によるベスト翻訳だと判断した結果です。

以下を読んでも、英語に対する個人的な疑問しか書かれておらず、「だからなんだ?」と言う話で、僕も「だからなんでしょう?なんでもないですね!」としか返せない、日英翻訳って不思議だなー。

前準備:定冠詞による同定とは
  1. this is a pen
  2. this is the pen
  3. there is a pen

this は倒置と言ってもいいのかもしれんし、there と同じなのかもしれない。This is a pen. とは、「これはペンです。」という説明ではなく、「ここにペンがある」という存在の主張――と、仮定しておく。

a truth という存在は、どういう意味を持つのかは分からない。しかし、ひとまず、ここに存在していると宣言される。その「存在の宣言」が、a truth のニュアンスだとする。

存在なんてものは緑の悪魔みたいなもんで、ポリゴンの向うにいることは分かっていても、幕府の刺客なので配管工には触れられない。つまり、the という定冠詞で同定(お互いに触れること)はできないのである。

同定できないと言うことは、話し手が「あの本だけどさー」と言っても、聞き手には「どの本」なのか分からないということだ。お分かりいただけたか、西郷どん

そこで、"the truth" と村上春樹が書いている以上、これは「同定可能なもの」―つまりは緑の悪魔のレプリカ―であると書き手である村上春樹が一足先に見込んでいるはず。だからこそ、定冠詞(the)が使われているはず。


とりあえず、The System は江戸幕府ではないようですよ、往壓さん!

翻訳の違いを比べる(true / a truth / the truth の訳し分け)

ヘタレ配管工であるという立場を離れて言う。他人様の翻訳にケチをつけるわけだが、あくまでそのように僕が勝手に理解したと言うだけです。誤読されるのは甚だ不快だと思いますが、ご容赦ください。

  • http://d.hatena.ne.jp/sho_ta/20090218/1234913290
    1. a truth / the truth を区別して訳していない
      • true of me... は「私これは僕にとっての真実であり、皆さんにとっての真実でもあります」
    2. 「本当のこと」は、慣用句として処理されているように読める
  • 村上春樹: 常に卵の側に
    1. a truth / the truth を区別して訳していないのは同上。
      • true of me... も「私にとってほんとうの事であり、あなたにとってもほんとうの事です」。最初の appear to be trueだけが「ほんとうのよう」で、他の truth / true は全て「ほんとうの事」で統一。
    2. truth と let me tell you the truthを「ほんとうの事」で共通させているのは僕の好みです、はい。
  • http://www.47news.jp/47topics/e/93925.php
    1. a truth / the truth を区別して訳していない。むしろ、 true / truth で線を引いている。
      • appear to be true を「現実」と訳している。true of me... も「(私たちはそれぞれ、壊れやすい殻の中に入った個性的でかけがえのない心を持っているのです。)わたしもそうですし、皆さんもそうなのです。」で、ほぼ同様のニュアンスで継続してるよう。
    2. let me...truth を 「真実をお話しします」じゃダイレクトすぎやしないか?これダジャレだよね?
  • 村上春樹、エルサレム賞受賞スピーチ試訳: 極東ブログ
    1. a truth / the truth を区別して訳していない
      • true of me... は「これは私には真実ですし、あなたにとっても真実です。」
    2. ホント(ホラと対比っぽい)。ギャグ臭くもあって、ぼく好み。
  • びじうのログ:村上春樹 受賞スピーチの翻訳 全文
    1. a truth / the truth を区別して訳していない
      • true of me は「(唯一無二でかけがいのない魂を壊れやすい殻の中に宿した卵なのです。)それが私の本質であり、皆さんの本質なのです。」
    2. let me...truth を 「率直に言います」という慣用的な訳なのかも。

英文解釈1(冠詞の普遍性)〜Haaretz原文とfinalvent訳の比較

  • Why should that be?
    • 何でそうなっているんでしょうか?

finalvent さんの訳が精確かも。be の「存在」感*2を前面に出すには、この訳が適していると思う。

また、なぜ"why should it be?" とは書かなかった・書けなかったのかという問題も気になる。

this that と I You She He It はメタ情報のもつニュアンスが違うのではないか?という冠詞のニュアンス差を、指示代名詞や人称代名詞まで広げてみた疑問。

  • My answer would be this:
    • 私はこう答えたいと思います。

ここ、this 以外に定冠詞を使った定型表現みたいなのはあるのだろうか?ちょっと気になった。「村上春樹は、敢えて this を使ったのではないか?」という疑問が成り立つか否かに関係する。

なんでこんなことを気にするかと言うと、どうやら this/that のような限定詞と the(定冠詞)がもつニュアンスには違いがあるようだから。(ただ、これらがそれぞれ持つニュアンスなのか、使われる場面の傾向から生じているニュアンスの差なのかは知らない。本当にそんなものがあるのかも知らない。)

  • Namely, that by telling skillful lies - which is to say, by making up fictions that appear to be 「true」 -
    • つまり、創意のあるホラ話を語ることで、なんていうかな、作り話を「真実」であるように見せることで、

前の文では「writing fiction」と無冠詞で書かれていたが、今回は≪making up fictions≫と複数形になっている。「無冠詞(ゼロ冠詞)」と≪複数形(不定冠詞の派生)≫との違いは、フィクションが「元素」か<単体>かの違いみたいなもんだろう。


同様の違いが 「true」- ≪truth≫ にも成り立つのかが疑問。


つまり、「冠詞の付いてない名詞」は「形容詞」に近くなると仮定すると、≪形容詞を名詞の形に変形すること≫が≪冠詞をつけること≫と等価ではないのか?という疑問に繋がるのです。

  • the novelist can bring <a truth> out to "a new location" and ""shine a new light"" on it.
    • 小説家は新しい場所に<真実>を生み出し、新しい光をあてることができます。

基本的に、不定冠詞のメタ情報は、「同様に確かである任意の1個体」ってかんじのようだ。同じ ipod であるのならば、シリアルナンバーの違いは気にしないでいい。ただ、それはつまり、書き手と読み手が同じシリアルナンバーをもつ ipod を同定することはできないともいえるのかもしれない。

ここは少し言いすぎかもしれない。ammoral とimmoral の違いみたいに、ただ単にシリアルナンバーへの関心が欠如していると言う表明でしかないのかもしれない。

むしろ、不定冠詞は新キャラの紹介みたいなもので、それを定冠詞で受ける時は、やはり前に出た不定冠詞とシリアルナンバーが同定されるのが普通だ。だが、普通でないこともできる。新キャラだが中の人の都合で即死するような狂言回し。村上春樹は a truth のシリアルナンバーを同定させる気なんてないのかもしれない。理屈の上では、the truth が前出の a truth 以外を指し示すことは可能だし(言語外照応で辞書とかか、後方照応で後ろの文か)

このへんは、finalvent さんが a truth と the truth を訳し分けていないことに繋がる部分もあるのかもしれない。

つまり、finalvent さんは、「the truth は a truth を受けている」と解釈したのか、それとも、不定冠詞(a)のもつ「同様な確かさ」と定冠詞(the)のもつ「同定可能性」とに、同じ「普遍性」を見ているからなのか、もしくは別のナニカか……。

  • In most cases, it is virtually impossible to grasp <a truth> in its original form and depict it accurately.
    • たいていは、現実のままのかたちで<真実>を掴むことや正確に描写することは不可能です。

基本的に、不定冠詞はシリアルナンバーの同一性を保証しないが、不定冠詞を使い続ければシリアルナンバーを維持できる場合もレトリックとしては存在するようだ。

  • This is why we try to grab its tail by luring [the truth] from its hiding place, transferring [it] to "a fictional location", and replacing [it] with ""a fictional form"".
    • だから私たち小説家は、[真実]というものの尻尾を捕まえようとして、そいつを隠れた場所からおびき出し、虚構の場所に移し替え、虚構という形に作り直そうとするのです。

ここまでの一連の、appear to be true -> a truth -> the truth という変化(冠詞の使い分け)も気になるが、そこ―シリアルナンバーの継続性―は深追いしない。

んが、a truth という不定冠詞が付いている以上、「同様に確からしい truth」 が他にもメリーさんの牧場に入るはず。そして、the truth は、その中にいるベイブだけを指しているのか?元からバラバラな"a truth"が、「同様に確からしい」という点において、それぞれ備えている普遍性を指しているのか?

もしくは、同じ大きなワタ飴Aから千切られた a truth と、それぞれの a truth が所属していた大きなワタ飴Aを the truth は指しているのか?

なーんて疑問はあったりもする。僕としては、 a truth と the truth は、たとえ同じものを指し示していても、違う単語で訳したいような気もする。

不定冠詞の使い方として a truth を繰り返し使えば、同じシリアルナンバーの truth を指し示し続けること自体はできるらしい。当然、 a truth を the truth で受けることもできる。このとき、 the truth が受け継いだものがシリアルナンバーなのか、mp3プレイヤーという同様な性質なのか、その判断基準は知らないし判断する必要があるのかもわからない。

  • In order to accomplish this, however, we first have to clarify where [] lies within us. This is an important qualification for making up good lies.
    • しかし、これをうまくやり遂げるには、最初に自分たちの内面のどこに[真実]があるのかをはっきりさせておく必要があります。いいホラ話を作るのに重要な才能というのは、これです。

"where the truth lies within us" の "lies" は「村上春樹のオヤジギャグ〜その1〜」

This を最後に持ってきたのは、finalventさんの日本語感覚によるものなのか英語感覚なのかは分からない。

This is a pen とか there is 構文と同じようなもんじゃね?って気もするがなー。Inversion と Fronting の違いというか。(放言

  • So let me tell you [].
    • じゃ、<ホント>の話をしましょう。

"let me tell you the truth" という常套句の部分、finalvent さんは 「ホラ」に合わせて「ホント」にしているんだと思う。 lies と the truth が対比されているくさい部分の処理としては、ここもfinalventさんのが良いと思う。「村上春樹のオヤジギャグ〜その2〜」

  • They cannot genuinely trust anything they have not seen with their own eyes or touched with their own hands.
    • こいつらは根っから、自分の目で見て自分の手で触ってみないかぎり、何も信じないのです。

tru 繋がりで trust ってだけ。意味なしネタなしオチなし。

  • This is true of me, and it is true of each of you.
    • これは私には真実ですし、あなたにとっても真実です。

"true of me" を "kind of you" の要領で「〜の本質@bijoux さん」と訳す より、finalvent さんのように a/the truth の翻訳に合わせて「〜の真実@finalvent さん」にした方が良い気がする。"本質"のようなニュアンスでいくのなら "the truth of me" のような"同格"を使うのではないか?(この文章において、は一種の固有名詞のように扱われているのなら、後方照応的に the truth を新たに使うことは無理かも?という疑問は置いておく)

ここのtrueは、やっぱ "the truth(固有名)"の変形なんだと思うな。me / you という hiding place にlies している"the truth"「真実」。そしてその「真実」は、外から来るものじゃなくて、「私」に「属しているものの分離(of)」なのかな?

英文解釈2(無冠詞の普遍性):a wall / the wall / that wall / an egg / the egg

a / the / that の使い分けに注意したい。(複数形[-s]は不定冠詞[a]の派生とします)

truth の解釈は、不定冠詞(a)や定冠詞(the)のもつ普遍性を仮定して話を進めてきたが、以降では限定詞(this/that)や無冠詞(ゼロ冠詞)のもつ普遍性にも話を進めるつもりです。

2つの普遍性:形而上レイヤー(定冠詞)と形而下レイヤー(限定詞)
  • ここで、以下のような違いがあるということにしてみる――
    • I know that man ... あの男に見覚えがある =外形という殻だけを知っている(形而下的な理解にとどまる)
    • I know the man ... あの男なら、よく知っている =性格も含めて知悉している(形而上的な理解をも含む)
  • Please do, however, allow me to deliver one very personal message. It is something that I always keep in mind while I am writing fiction. I have never gone so far as to write it on a piece of paper and paste it to the wall: Rather, it is carved into the wall of my mind, and it goes something like this:
    • 私の個人的なメッセージになるをお許し下さい。それは私が小説を書くときいつも心に留めていることです。メモ書きして壁に貼っておくとかまでしませんが、それでも私の心のなかの壁に刻み込まれているものです。こんな感じです。

the wall が初出ですね。ここの定冠詞は辞書を参照するようなタイプで、言語外照応で「一般的な壁」でしょう。まぁ、推測できる明意として、言語外照応の指示先は「ガザの壁」と解釈することもできるのかな。

次が、 "the wall of my mind" 。「壁(the wall)」こそが「私の心(my mind)」というような「同格」なのか、finalventさんの訳するように、<「私の心のなか」に属する「壁」>なのか。この辺の of の機微は分からない。

the wall of my mind の the wall が、前出の to the wall の the wall を受けているのかも分からない。

ただ思うのは、たとえこの the wall の元々が「ガザの壁」であり、この後に続く the wall がそれを受け継いでいてもいなくても、定冠詞それ自体の意味を考えれば、やはり「ガザの壁」以上の意味が the wall には付加されていくのだろうし、語らないことよりは語ることを選んだのなら、辞書に載ってる固有名詞ではなく、文章の中にしかない確定記述にこそ、コアになる何かがあるんじゃないかって気もする。そうなれば、the wall がそもそもとしてイスラエルパレスチナのメタファーであるかどうかは関係なく、<「壁」と「私の心」のつながり>のほうが焦点となるのではないだろうか?

無冠詞(ゼロ冠詞)のもつ普遍性

固有名詞って、無冠詞だと思う。もちろん、今回の The System や The Internet のように定冠詞が付いてる場合もあるけど、これは冠詞がキャピタライズされている時点で、定冠詞(the)としての機能は失われていると思う。

無冠詞ということは同定ができない。同じシリアルナンバーをともに触ることはできないと思われているか、確率的に0%ではないが、全く保証されていないのか。むしろ逆に、 Im fine thank you. のように、 fine は形容詞ではあるが無冠詞だ。「名詞は形容詞化する」と言ってたのはイェスペルセンだったか、仮に言ってたとしても、形容詞化という意味が僕にはよく分からない。しかし、形容詞と無冠詞の名詞が同じであるといえるのならば、φfine(φは無冠詞orゼロ冠詞を表す)という意味が通じることと同じ程度に φThe Systmem も通じるのではないか?通じてしまうのではないか?通じると信じているのではないか?

その φbelieve の主体は村上春樹ではなく、英語と言う言葉を使う人の全てではないのだろうか?

a truth と the truth を同じ単語で訳したfinalventさんの感覚は、φfine とか φhappyとかが通じる程度に普遍性がある、無冠詞というゼロ冠詞がもつ普遍性。不定冠詞にも定冠詞にも総称用法みたいな、全体を表す用法がある。同じ総称でも、a と the には違いがあると思う。もちろん、ゼロ冠詞にだって違いはあるだろう。

でも、冠詞自体がもつ普遍性ってなんだろう。本当にそんなものがあるのか?あったとして、ここで機能しているのか?あやしいかぎりではあるが……。

  • "Between a high, solid wall and an egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg."
    • 「私が、高く堅固な一つの壁とそれにぶつけられた一つの卵の間にいるときは、つねに卵の側に立つ。」

ここで初出の"the egg"。この egg についている定冠詞(the)は前方照応(既出のものを指す)なのか?

僕には、この定冠詞の同定というものが、なにを、どのレイヤーで定めているのかよく分からない。

不定冠詞(a)ということは「同様に確かである任意の1つ」なのだろうか?以前、finalvent さんは定冠詞と不定冠詞の違いをクラスーインスタンスで説明していたと思う。

その頃、僕はfinalventさんとは逆の比喩のほうがシックリくると思ってた。どっちが正しいとかはこの際問題ではなく、「不定冠詞が同様に確かである任意の一つ」であるのならば、「不定冠詞でもID管理がされている」ということになるのではないか?

定冠詞によるID管理(同定)との違いを強調するのならば、「シリアルナンバー」とでも言うべきだろうか。このipodも、そのipodも、違いは分からない程度に同様で、ipodのもつ普遍的な性質を代表できる程度には均質である、しかし、製造番号−シリアルナンバー−は違う。

  • Yes, no matter how right the wall may be and how wrong the egg, I will stand with the egg.
    • ええ、壁が正しく、卵が間違っていても、私は卵の側に立ちます。
  • If there were a novelist who, for whatever reason, wrote works standing with the wall, of what value would such works be?
    • でも、理由はなんであれ、小説家が壁の側に立って作品を書いても、それに何の価値があるのでしょうか。

the wall です。

  • What is the meaning of this metaphor? In some cases, it is all too simple and clear. Bombers and tanks and rockets and white phosphorus shells are that high, solid wall. The eggs are the unarmed civilians who are crushed and burned and shot by them. This is one meaning of the metaphor.
    • この例え話の意味は何でしょう? 場合によっては、単純明快すぎることがあります。爆撃機、戦車、ロケット砲、白燐弾が、高く堅固な壁です。卵はそれらによって砕かれ焼かれる非武装の市民です。それがこの例え話の意味の一つです。

ところで、"what is this meaning of..." という形を見たことがあるだろうか? the meaning of の the は後方照応(後ろから来る説明を予告するフラグ)だとしよう。これは、先に行った that man / the man の違いに沿えば、形而上的なレイヤーにアクセスしていると言うことになる。つまり、書き手は読み手にも分かってもらえる―同じものを見ることができる―と期待している。

この書き手の期待を読み手が逆手にとれば、談話分析とかそーいう手法的に、ここが書き手の言いたいことだとか、そーいうやり方にもなるのかもしれない。だが、書き手ー読み手」というのをひとまず置いて、the meaning と this metaphor の違いに焦点を当ててみる。

that man / the man の違いに重ねて考えてみれば、 the meaning は内側までもよく分かるはずの情報で、 this metophor は外側だけしか分からないはずの情報となる。

そしてこの meaning/metapor のレイヤーはブンの最初と終わりで逆転している――

"the meaning of this metaphor" - "one meaning of the metaphor"

記述文法には「文末焦点」という概念がある。そして、これと対比できるであろう概念として「重点」というのがある。この重点は規範文法にあるものなのか、伊藤和夫が作ったものなのかはわからないが、重点とはSVOCという文の要素であるという意味だと思う。

他方、焦点とは、古い情報ほど文の前に、新しい情報ほど文の後ろに来るという傾向から導出されたのかもしれない。僕はよく知らないのだけれども、時として、文末には副詞がきたりもする。基本的に、副詞は文の要素ではない。だが、その重点ではない焦点こそが、大事な情報なのではないか?

「この例え話の意味は何でしょう」という意味が this metaphor に対応し、「それがこの例え話の意味の一つです」という意味が the metaphor に対応する。the meaning は書き手も読み手も同じものを手に入れることができるというフラグだ。one meaning は、シリアルナンバーは違っても、同様なipodを手に入れることはできるというフラグだ。


the meaning of this metaphor = the metaphor と考えれば、 one of the meaning of this metophor と書き換えられるのかもしれない。


このような使い分けが the wall / that wall にもなされている可能性はあるのだろうか?(この疑問の限定として、そもそも that man / the man に形而上・下的なニュアンスの違いが、文脈からではなく統語構造そのものから発生しうるのか?という問題は置いておく)


この段落では、 that wall - the eggs という使い分けがなされている。壁側のことはよく分からないよねーというお話なのかもしれない。

まぁ、もちろん、これはただ単に「文章の書き方」の問題であり、記述文法の言う「情報構造」や、談話文法の「談話構造」に沿って書くには限定詞をこのように使わざるを得ないから、結果として this/that - a - the に違いが出てしまうと言うだけの話かもしれないけど。違いそれ自体に何か原因が内在するというより、違いを作るために任意に選ばれたという結果でしかないのかもしれない。

  • Each of us is, more or less, an egg. Each of us is a unique, irreplaceable soul enclosed in a fragile shell. This is true of me, and it is true of each of you. And each of us, to a greater or lesser degree, is confronting a high, solid wall. The wall has a name: It is The System.
    • 誰でも、多かれ少なかれ、卵なのです。誰もが、薄い殻に包まれた、かけがえのない、取り替えのきかない存在なのです。これは私には真実ですし、あなたにとっても真実です。私たちはみな、程度の違いはあれ、高く堅固な壁に向き合っています。壁には「大いなる制度(ザ・システム)」という名前がついています。

an egg / a wall / the wall ときたわけだが、the wall は a wall を受けているんだろう。

  • The wall is too high, too strong - and too cold. If we have any hope of victory at all, it will have to come from our believing in the utter uniqueness and irreplaceability of our own and others' souls and from the warmth we gain by joining souls together.
    • 壁は高くあまりに堅固で、そして無慈悲極まるものです。もしなんとか勝利の希望があるとすれば、それは、私たちが、自身の存在と他者の存在をかけがえなく取り替えのきかないものであると確信することからであり、心を一つにつなぐことのぬくもりからです。

ここで "believing in"(「確信」) が使われているが、 believe という動詞は前に一回だけ出ている。

"will have to" も二回目の登場。finalvent さん、ここでは軽く流してるよう。(もしなんとか〜)

  • I fully believe it is the novelist's job to keep trying to clarify the uniqueness of each individual soul by writing stories - stories of life and death, stories of love, stories that make people cry and quake with fear and shake with laughter. This is why we go on, day after day, concocting fictions with utter seriousness.
    • 小説家が絶え間なくすることは、かけがえのない人間の存在というものを、生と死の物語、愛の物語、悲しみや恐怖に震える物語、腹がねじれるほど笑える物語、そうした物語を通して丹念に描くことなのだと私は確信しています。だから私たち小説家は日々一生懸命、物語を紡いでいるわけです。

believe と believe in の両方とも「確信」と訳しているよう。一応、ニュアンスは違うらしい。後者の方が根拠レスらしい。この違いが must - have to / can - be able to などにも繋がるのかはよく分からない。英語は get out などのように副詞(adverb particle というらしい)を使って「分析的に」書く方がリアリティーがあるらしい。

それを逆手にとって、英語のできないビジネスマンを勇気付けるとともに、テクニックとして難しい英語より簡単な英語で「分析的に」書こうとアドバイスされることもあるようだが、まぁ、必要悪としてただの仕事だしと割り切るなら有用だが、それで表現される意味って空虚だよなとも思う。

でも、この believe / believe in のニュアンス差って文法的というか、前置詞や統語(でいいのか?)から事前的に(?)発生しているのか、語法のような(で繋げていいのか怪しいが)文脈から事後的に辞書に登録されているのか。そのへんはよくわからない。

  • Someone else will have to decide what is right and what is wrong
    • 何が正しくて何が間違っているか決めずにはいられない人もいます

の willとhave to かな。

「他の誰かが決めなければならないことかもしれない@bijoux さん」と「決めずにはいられない人もいます@finalvent さん」の訳なら、have to 主体の bijoux さんより、 will 主体の finalvent さんの方が、少なくともこの文章の文脈を無視して考えたとき、英語的には正しい気がする。

be going to / be able to / have to とかって、助動詞を重ねられないから存在しているんだろうか? "I will can play" とか言いたいがために、"I will be able to play" なんて存在しているんだろうか?

have to と must の違いが、状況が要請するか主観的な思いなのか...そーいう違いが連語と助動詞になるのならば、やはり、will have to の will も、単純未来ではなく「意思」として解釈するのが、少なくとも構文から見た確率上では正しい可能性が高いのではないか?

その他:なんとなく気になった英語表現(副詞の存在論的な意味・意義?)

  • The System is supposed to protect us, but sometimes it takes on a life of its own, and then it begins to kill us and cause us to kill others - coldly, efficiently, systematically.
    • 「大いなる制度」は私たちを守ろうと期待されている反面、時に独走して、私たちを殺害しはじめ、他国民を殺害するように仕向けます。それは冷血に、効率よく、制度的に進行するものです。

ここの訳し方も、ラストの副詞群は、動詞ではなく文全体を修飾するかんじで finalvent さんは訳している。bijoux さんの訳は修飾先を確定するには少し曖昧に思えました。

前置修飾と後置修飾は、文修飾として働く場合は等価なのだろうけど、僕は、finalvent さんのような可能性というか、後置と前置には、やはり違いがある気がする。killing me softly とかね。

おまけ2つ(名詞構文と等位接続)

名詞構文とかの主述圧縮で、swim well = good swimmer って習うけど、 skillfull lies を「上手な嘘」「上手に嘘をつく」のどちらでもいいと言えるのだろうか?まぁ、skillfull liar じゃないでしょ、って話かもしれんが。


bombers は自爆テロ犯かとも思ったけど、この並びを考えれば、爆撃機だろうな。たぶん、これをテロ犯の方で訳したら多田正行ゲバ棒で殴られる。

読んでみた村上春樹エントリと英文解釈以外の話

id:shivad さんの「『嘘』を守った」ってのが気になったかな。冠詞の普遍性ってだけでなく、I と each of you の並列とかさ、youって、「みなさん」というよりは「あなた」って気がする。総称形ではあるけど単数形*3で個人を名指ししている。村上春樹は、ここを each of us とはしなかった。I and each of you が each of us なのだとした。これはただの文体でしかないのかもしれない。村上春樹の意図も何もなく、英語にありがちなスピーチのテンプレートなのかもしれない。これが、id:negative_dialektik さんやid:amamako さんが言うような「リアリティー(具体性・実際の調査結果)をもたない嘘」なのかもしれない。

id:crow_hennmi さんが言うように「普遍が個別を捨象」し、「別のスケールで語ることが、そこで前景化している最重要の「ある特定のモチーフ」を捨象する結果にな」り、「政治的マターであり、個別的に語られなければならない」にもかかわらず、「「多様なスケールでそれぞれロジックを構築すること」を喜んでやり、結果として本来のメッセージ性をぼやけたものにしてしま」っている<駄目な嘘>なのかもしれない。


だが、村上春樹にとって『リアリティーのある嘘』は、他の人にとっては「リアリティーのない嘘」でなければ変なのではないか?

村上春樹wikipediaかなんかで詳しいデータを調べて、政治を勉強して、具体的な提言を行ったところで、それは村上春樹しか言えないような嘘になるだろうか?そんな嘘が、村上春樹でしかもつことができないリアリティーをもつことができるんだろうか?とは思ったりもする。もちろん、具体的に語るべきは彼なんかではなく、わたしたち個々人の方なんだろうとも思うけど……。

私たち自身は、きちんと自分の実存に向き合えば、私たち自身が卵として壁に向き合っていることがわかるし、そのアクチュアルな問い掛けのなかから壁を描き出し、そうすることで連帯できなければ、およそ壁、The Systemに向き合うことなんかできない。正義の言説が、私自身の卵として語られないなら、それは欺瞞であり、The Systemにexploitさせることを許すことになる。
――日経春秋 春秋(2/19) 秋 - finalventの日記

id:finalvent さんのスタンスとしては、卵と壁の対立、もしくは前提として卵と壁の不可分性というよりは、更に大前提として各々が卵としてのリアリティーをもっているのか?卵に実存がかかっているのか?ってかんじなのかなー。

数ある卵の中で、その卵を選んでしまったことが、偶然ではなく、システムに踊らされた必然でもなく、ただ単に祭に便乗したという気まぐれでも、正義の立場に立てるという逃げでもなく、ダチョウの卵を選ぶということは、ウズラの卵を潰していくことを自覚しているのか。

ウズラの卵の立場に立って、ダチョウの卵を破壊したところで、どっちも人間に食べられて終わりとかじゃ意味ないよねって話なのかね。

冠詞から無理やり見ると、the wall の使い方にヒントがあったような気もします。

 私はブッシュのイラク侵攻を是としなかった(非ともしなかったが)。どちらかといえば、サウジを脅かすフセインの存在への対応としてやむをえぬもののとしての共感はあった。今回のオバマについても、私は是とも非ともしない。直接的には日本国民に問われている問題ではないからだ。ただ、間接的にはより問われていることにはなるだろう。では日本はどう答えるかというなら、私は往年の小沢の答えが答えなのだろうと思うが、まさにそこがわからなくなった。国民新党社民党連立した政府というもののリアリティは私にはない。
――毎日社説 社説:米軍アフガン増派 成功への戦略を知りたい - 毎日jp(毎日新聞) - finalventの日記

この辺の話は id:nomurayamansuke さんの「小林秀雄の流儀 書評」にも繋がる気もするけど、まぁ、小林秀雄山本七平も、難しくてよく分からない。丸山眞男が『日本の思想 (岩波新書)』で指摘するような日本人のパターンこそが、悪霊なのかもしれない。つまり、村上春樹の『リアリティーのある嘘』と違い、悪霊は「リアリティーのない嘘」なんだろう。

まぁ、僕には丸山の指摘するような左翼伝統芸能なパターンとか、全共闘の雰囲気とか、ぜんぜん知らないし、テレビで質の悪い映像を何度か見ただけで、それも心に残ることもなく、むしろ劇場アニメや洋画にキャッキャウフフしてた幼年期、さよなら、さよなら、さよなら、なわけですよ。ハンニバルを呼んでも助けには来てくれなかったんですよ。

富野由悠季も似たようなことを言ってた。自分の感覚を信じるなというか。目先の楽しさに惑わされず、自分が本当に楽しいと思うものを考えろ、と。

ポール・クルーグマンも、他人の意見の有用性というか、自分が自明だと思うことを歴史化するって感じだったのか。そうじゃなくて、他の理論系の人の意見――たとえそれが当初クルーグマンにとってリアリティーのないものであっても、他の人にとってはリアリティーがあるのかもしれない。なら、「彼のリアリティー」とやらを少し調べてみるのも私にとって有益なのかもしれない。


悪霊は自明ではない。プネウマティコンを歴史化し、相対化し、シラケた成り立ちを理解した上でも、それでもなお、臨在感が残るのなら、それはプシュキコンなのだろうか?いや、それこそが本物のプネウマティコンなのだろうか?

他人の不幸は蜜の味」なんてニュースもあったが、もし、味覚を感じられない人だったら、どうなってしまうんだろう。哲学ゾンビなのか?デカルトさんは「我思うゆえに我あり」と仰ったようだが、「メシ美味いゆえに我あり」とかだったりね。それこそがプシュキコンの正体だったんだよ!(ΩΩΩ

ま、同じ部位が活性化してるからって同じものを感じてるとは限らないんだろうけど。


関係ないが、id:pollyanna さんの指摘で思ったんだが、googleとかの機械翻訳ってどうなんでしょうね?クエリ生成とはいえ、リンク張れば静的ページと変わらないだろうし。高度に誤訳な芸術は著作権に抵触しないとかね!

*1:この過程はマークピーターセン『日本人の英語』での冠詞講義とほぼパラレル。具体的―抽象的とか、そういう区別(石田の言う「『完結性』による冠詞認識」に近い)じゃなくて、もう少し形而上的な枠組みがあり、さらには、意味の解釈においても形而上的な枠組みで感じている疑惑(大津栄一郎の場合、その『完結性』がもたらしてしまう意味、要は冠詞認識への意味論的な解釈の話ってかんじがする。もっと『深い』可能性もあるが……。)という感じだ。話者の認識における境界線の有無というような物理特性ではなく、「境界線の有無とはどういう事か?」というような存在論的な方向(?)なのか?(存在論的ってのが僕が言いたい『深さ』だとすれば、オットー・イェスペルセン的な英文法論の方向になるのかもしれない。(イミフ )……自分でもよく分からん。

*2:そんなものが本当にあるのかは置いとくw

*3:youに単数も複数もry かもしれんが

ネイケフイケキロロ

Is there liberty Gravity Do memories remain Did you find freedom or did you break free


夢の中でいっぱい泣きました。「クラインとワーグナ」と「医龍」と「デミアン」みたいな雰囲気でした。鍵でドアを開けて、カバンだけでも取り返したかった。


僕にとっての自由の鍵。それを捨てれば逃れられる。だけど、それを捨てることで手に入る自由に何の意味があるんだろう。どうせもう、手遅れでした。そして全てを失いました。だからこそ、やっと、泣くことが許されてしまいました。僕はずっと泣いていました。


足元には、空気一つ含まれていない分厚い氷。朝の水溜りに張った氷が砕かれるように、綺麗にへこみ、ひび割れてしまいました。君は死んでしまいました。生きているはずなのに、死んでしまいました。僕の所為ではありませんでした。だけど、僕の責任でした。


死んだことにされてしまった君。僕は知ってます。みんなも見ていたはずです。君が薄目を開けて、無表情に、無邪気な瞳が笑って輝いていたことを。僕は何も言うことが許されず、僕は失意のあまり言葉を失い、僕の意識は、まだ失ってはいないという認識に追いつかず、僕の知らぬ間に、死亡登録がなされました。


雪は降り積もっていました。風は吹いていませんでした。足元に広がる氷は、とても澄んで、青く綺麗で、それでも、冷たくなんてありませんでした。僕の両手は何も感じませんでした。何も聞こえませんでした。ただ、雪かきをしているダレカが、僕の側にいました。


寒くはありませんでした。僕は、この氷塊が誰なのか知っています。誰なのか分かってしまいました。氷のようで氷よりも凍てついている冷たさが教えてくれる、僕の知っている暖かさが持っていた熱容量の大きさを。そしてこれが、熱力学第二法則の辿り着く最果て。


ダレカは、淡々と雪を処理し続け。僕は一人、泣き続けていました。ダレカは、僕のためにいてくれたわけではありません。それでも、僕は、ダレカがいてくれたからこそ、泣くことができました。僕の泣く声だけが、空気を震わせて間接的に、そして僕の体の振動として直接、僕にだけ聞こえ続けました。

Empty moments, hope is stolen One more love that might have been And the soul mates scatter Another candle on the water A million hearts Wishing upon falling stars

また、夢を見ている。 あの、夏の日の夢。

今日は、みんなで温泉旅行。大部屋で皆で輪になって談話中。右隣がゆかりっちで左が順平のテレッテで、その隣がアイギスで次が美鶴先輩。ノリで順平にアイギスと席換えだ!とけしかけたら、美鶴先輩に順平が飛びついてくれたので、アイギスが隣に来ました。


アイギスのワンピース、超ラブリー!って抱き心地を確かめていたら、展示会のチラシが!――「虹オイル」が展示されているようだ。アイギスと二人で抜け出して行ってみたら、無駄にでかいボルトやナットで組み立てられたヒーローものってゆーかスポーン?!みたいなものが!!!ボルトを見つめるアイギスが、名残惜しそうに、もう時間だから戻ろうと言ったけど、もう少し見ようということで見ていたらチビガキ登場。


展示の責任者らしい。社長の椅子を相続したが、ただのガキなので、どうでもいい展示に左遷みたいなかんじと言っていた。


落ち込み気味の社長を元気づけようと、せめて記帳ぐらいと思ったがシートがみつからない。見つかったと思ったら、やけに印刷が薄い。色々と腹が立ってきて、とりあえず、最初に名前を書く。アイギスにも書かせようと思ったら、遅いから探しに来た皆に展示場より手前でつかまってる!!!


心の中でアイギスのバカ!と思いながら、アイギス!と一言呼び、アイギスがコッチに来ないとみんなが見てくれないじゃないか、どうしようとテンパってて、あ、とりあえず、記帳しなきゃ、苗字まで書いて、あ、二回書いてしまった、ペンだし消せない、名前変えるか、でも筆跡も筆圧が同じだ・・・もう書いちゃえ、二回でも三回でも。と、ヤケクソってたら美鶴先輩が、ふふ、二回も書いてるぞって颯爽に登場!さすが美鶴先輩です!!!


社長と脇で皆を眺めてたら、順平がどうやら記帳してないようで、視線を向けたら、俺は評価した上で敢えてという評価だ(ドゥーユーアンダースタンッ?)なことを言ってきた。キザ男め。社長は喜んでいるようだったが、どうせなんだから番組の宣伝も皆にしてきなよ、みんな帰っちゃうよ?と言ったら、脱兎のごとく走っていった。かわいいやつ。




記帳シートを眺めてみる。一面、名前で埋まってる。なんだ順平も書いてるじゃないか、処刑だな。アイギスはちゃんと名前書いたのかな?と目を走らせる。右側に荒垣先輩と、最後に岳羽ゆかりって書いてあった。字が達筆で綺麗で可愛いかった。

社長とちょっと話し、なんとなく記念にシートのコピーを貰おうということに。でも、横にあったコピー機で、微妙にサイズオーバー。左側だけコピーできればいいか?と一瞬、思いはしたけど、それだとゆかりっちが消えちゃうし、上下半分ずつ二回コピー?と思ったら、皆はもうバスに乗っちゃって時間が無い。どうしよう。




そういえば、真田先輩も、風花も、天田君も出てこなかった。メティスも。コロマルも。残念。

「意味が通じないように設計された英文」を書きたい

BBSに書こうと思ったが、推敲も議論もメンドイし、この類の方向性での話を通じさせることが僕にはできないと学習済みなので、ここでヘタレてみる。

追記したい部分もあるので、返信という枠を外しして、拡張する予定…は未定で確定にあらず、みたいな。

関係詞が省略されること自体への意味も知りたいけど、別の話

The State Department's efforts over the past year to negotiate the nuclear disarmament of that charter "axis of evil" member has deteriorated into something very like the status quo the Bush administration repudiated when it first took office.

――Jackson Diehl - A Test That's Sure to Come

僕は「法」について無知なので charter や charter member の正統な使い方も分かりません。また、著者が用語を正統に使えているのか、または正統であると主観的に主張しているだけなのか、その辺は分かりません。

ですので、英語の書き方という部分だけに矮小化して、面白そうだと思った部分だけ、かなり誤読してると思いますが、書かせてもらいます。

むしろ、いつのも冠詞中心の英文読解法モドキなので、通時的な読解はできず、共時的に限定できる部分だけ読んでみる――というお話です。

"that charter" :由来は a charter (member) なのか the charter なのか

「ある冠詞」がついている単語、その単語の元の姿を決めるのは難しい場合がある。そして、そんなものは決めなくても問題が無い場合もある。*1つまりは、偽問題なのだろう。もちろん、ちゃんと同定できる場合もある。その境界線をどうやれば定めることができるのか?

二重引用符の意味スコープが、引用符という形式の外側まで拡大される連鎖


涅槃さんの解釈で興味深いと思った点は、<"axis of evil" member>の扱い方です。"that charter"に追叙するようなかんじで、the movie "Star Wars" のように、同格*2っぽく扱う。更に member が合わさって、"that charter-member"になる。しかし、これは that charter -> "axis of evil" -> member という「連鎖」を経たものであり、"charter member"に"axis of evil"が挿入(付加)されたものではない。

形式的には " + " のようなかんじ。

ある意味では、"axis of evil"の二重引用符という形式が、意味的には member まで拡大され、"axis-of-evil-member"のような意味になっているようで、面白い書き方なのではないかと思いました。

もちろん、涅槃さんのイメージは、「member 方向」ではなく、「charter 方向」への意味の拡大かもしれませんが。個人的には、それらはいずれにせよ「集合と捉えて意味を拡大する」方法であり、「多田正行的な解釈方法」だと理解しています。そして、涅槃さんの方法論のいちばん面白い部分は、『意味を連鎖させて重層化する』方法だと思います。前者は「粘土をこねる」ような方法、後者は『ジェンガを抜いてを積む』ような方法。ジェンガは巻き戻せるけど、粘土は無理。

「意味」と「意味を矛盾させる形式」は並存できる〜意味が確定される一歩手前


結局、涅槃さんの構文解釈で問題にされているのは、あくまで「限定詞(that)の照応形式に対する妥当性だけ」であると理解しました。そして、この方法は「charter とは、本来的にはウンヌンである」という部分―つまりは小原さん的で通時的な意味解釈―を留保しても成り立てる解釈方法だと、僕は理解しました。個人的には、冠詞だけを追って、形式からだけで共時的に解釈してみる方法を練習中なので、このような方法は好きです。

それに、規範文法から涅槃さんのやり方を考えると、charter と "axis of evil" が結果的にそれぞれ形容詞(的)となり、member がコアの名詞(一次語であり、thatが「最終的に」係る単語)になると思うので、「"a charter member"という慣用句が意味的にはコアになる」という解釈可能性自体は残されていると思います。


もちろん、読み下す時点では、that は charter に形式上は係らなければ涅槃さんのような解釈はできないと思います。が、最終的に意味を考える時点において、that の意味上の係り先は member に修正したほうが規範文法と整合するとも思います。その点において、形式と意味とで限定詞の係り先が変わるので、 を今回のアナロジーとして適応するのは不十分な部分もあるのではないかと思います。(というブロックで考えるという意味だったのかもしれませんが……。)*3


つまり、「"a charter member" に "axis of evil" が飛び込んでいる」というような「形式理解」をしなくても、このような「意味解釈」をする以前の部分で、涅槃さん解釈方法は止まっているのだろうし、その先まで解釈する(「設立会員」とか)かは、また別の判断だと思います。

個人的には、islander さんや小原さんの言うように"charter member" だと明示してるのか、eager lerner さんの言うように暗示してるのか判断不能です。ネイティヴの先生は、「暗示」派なんでしょう。

ただ、 そういったニュアンスが、that という指示代名詞の「メタ情報」から判断できうることなのか、"charter member"という句が「敢えて破壊(dislocated)されている」ことが理由なのか、それとも「文脈」や「背景的な事実」から判断したのか、それぞれの比重は不明ですね。いずれにせよ、修辞法だと理解はしています。


あと、涅槃さんの解釈方法は、前述したように、多田正行の「集合的な解釈方法」に<時間軸>を追加した発展形だと思うんです。多田の方法論は修辞学からの援用かもしれないんですが、彼のやり方に冠詞(限定詞)読解を追加すれば、涅槃さんのような解釈方法に潜む(?)「連鎖的に名詞を理解する」方向*4に繋がるような気もします。というか、そもそもとして、僕が今回の解釈論議を理解し切れていない可能性も高いんですがw

個人的には、「同格」の拡大というか、意味論的に再解釈するというか。「情報濃度の差」*5だけが同格を成り立たせているのか?それだけではなく、意味上の主語と同じように、主説との一致の有無を基点に、更に意味上の主語の有無―計4パターン―を決められるように、「themeとの繋がり」*6も関係しているのではないか?と、妄想してりも。

選択の必然性を規定するルール

「英文の構造が変われば、それにともなって何かが変わる」――

少なくとも、僕は、AとBが違うこと自体にはあまり興味がない。なぜ、AとBが違わなければならず、なぜ、AかBが選ばれたのか――そのメタ的な選択基準が知りた
い。違うこと自体は大した問題じゃない。違い自体は、発見した時点で、もう問題ではない。

「AとBは違う」だけじゃ、書き手が、文型の選択において採用したルールを知ることはできない。

"that charter"は偽問題?:その原因が無くとも、その原因が導く結果は生じれる

islander さんのTad さんへの回答は、「that charter とはどういう意味?」という疑問が偽問題であり、「a charter member という原義から that charter member へと変化した」と解釈すれば、そんな疑問はそもそも成り立たない、ということだと勝手に解釈しました。

この通時的な解釈への疑問として、eager lerner さんの "charter member" は、「形」というか「残滓」を残しているだけで「明示」はしていない。つまりは、レトリックなんじゃないのか?という視点も興味深かったです。僕自身は、冠詞中心にレトリックを勉強(しようと?)しているんですが、慣用句を「モジル」というのは日本語でも良くやりますよね。

ただ、今回のモジリは、「原型の方が意味の本体」みたいですけどね。そういえば、「前方照応不可能なのに、後方照応的な説明も追叙されず、言語照応でも当然ない」という the の使い方も、小説などではあるようです。今回の that が、このような例だとは思いませんが、レトリックは大変です。^^;

他にも、原型なしに不定冠詞を使い続けることで、不定冠詞に同定機能を持たせてしまえるレトリックもあるようですが……。

the status quo と 固有名詞化:冠詞がついているからといって、照応能力が残っているとは限らない


奇策な人さんの、「完了時制 -> something(現在) -> the status quo(過去)」 という対比的な解釈法は汎用性があると思いました。小原さんの言うように意味がおかしくなるような解釈結果もいろいろとあると思うんですが、something とかの不定冠詞系がクッションとして(敢えて)使うわれること、それ自体のメタ的な意味ってなんなんだろうな?と、考えたりしているので、いろいろと参考になりました。

この辺の理解(意味が通じない・論理的に変であること自体に意味がある可能性)は、関係詞と分詞による後置修飾のメタ的なニュアンスの違いが、イェスペルセンの言うような「形容詞―名詞(実詞)」の違いにも繋がるかもしれないし、小原さんの 「the status quo が先行詞」という解釈を補強するようなものになるかもしれません。そんな違いが本当にあるのかは不明ですが……。

個人的には、 "the status quo"には「状態性」というような無時間的な意味だけではなく、「the things the way they "presently" are」というような「現在性」も裏に強くもっている、一種の「固有名詞」なんじゃないかと、googleで色々と検索してみると思えます。

status quo は「現在」で固定?:照応も修飾も受け付けない絶対的な意味の存在への可能性


つまり、たとえ the status quo が先行詞であっても、「現在」という「時間」の部分は関係詞の時制に影響されないのではないか?と思うんです。

ですので、status quo が「現在」で固定なら、先行詞はどっちでもいいのかな――

1. 「something = ブッシュ政権発足当時〜」 ≒ 「the status quo という現在の状況」

2. 「something = 現在」 ≒ 「the status quo という現在の状況 = ブッシュ政権発足当時は拒否してた状況」

3. 「something = 現在」 ≒ 「the status quo = ブッシュ政権発足当時は・も拒否してた過去の状況」


Tad さんと奇策な人さんのハイブリッドで、先行詞は the status quo で「現在の状況」(2番)。そして、それは過去においてブッシュが否定してた状況。それほどに現状は悪化してしまった。

つまり、「現在の状況」は「過去より、さらに後ろ(過去)へ後退した状況」という仮定法的なレトリックで、完了形のニュアンス条件をクリアし、わざわざ something が必要だった部分も同時にクリアしているのではないか?という解釈です。

検索した限りでは、the status quo が「現在」以外の時間を担える例が見つからなかったので、すっきりしないといえばしない冗長な理路かもしれませんが、そこがレトリックでしょ?みたいなかんじで。 ;-)

ダイレクトに the status quo とやったら「"筆者の意味"と"読者の意味"が同定されてしまう」ってのが嫌だから、「something」という同定できない名詞が必要だったのではないでしょうか?the status quo は慣用句でしょうけど、ちゃんと定冠詞がついてますし…もちろん、固有名詞化してれば同定機能は失われるんでしょうけど……something を使ってしまえば、同定機能をもっと遮断できるのでは?

ただ、「遮断できると何が良いのか?」は分かりません・・・・・・課題ですね。

status quo, another one:「論理的に変」な論理を論理的に書く方法

あと、小原さんの「意味が通らない」という説明は、たしかにそうなんですが、Tad さんのような解釈で回避できる問題だとも思えます。つまりは、仮定法的に「過去においてですらありえなかった状況が、現在の状況」みたいなかんじで。

そして、<「過去において未来である現在」が過去の段階で問題になれるのは矛盾する>という小原さんの指摘(でしたっけ?)は、むしろ、大津栄一郎が『英語の感覚』で指摘するような「時間が過去に向かって流れる」、即ち「過去=未来」であるという前提に立てば、<矛盾>にならないし、逆に英語の特性を強く表してしまっている可能性もある。過去も未来も現在という頂から流れ下っていく方向という点では同等なのかもしれません。

また、たとえ「過去=未来=同じ下流」というような時間観が妥当でなくても、小原さんの言うようなパラドックスは、問題にならないとも思います。

意味からではなく連鎖から〜上書きされた下書きを透視する


「意味から考えて意味に整合性をつける」のは裏技と言うか、たとえ答えがあっていても、僕のような無教養野郎には安定感の無いやり方です。そこにも関連しているのですが、「主節と従属節で共有されている先行詞が、果たして『同じ意味』までも共有しているのだろうか?」という疑問があるんです。今回の例は tense と time の違いとか絡みそうだし、something というクッションがあるからこそ、小原さんが言うような矛盾を回避できたりもしてるんじゃないか?って部分もある気がします。

something は目的語。like the status quo は修飾語で、the status quo は超広義に同格的と言えるとする。次に、先行詞 the status quo は the Bush... の目的語。この時、同格の the status quo と 目的語の the status quo は、意味が同じでも何か違うんじゃないのか?存在論的な差があるのではないのか?

もちろん、something が先行詞でも、僕は構いません。the status quo は「相対的な現在ではない」という仮定が無効になれば、something の方が良さそうなぐらいです。むしろ、そんな仮定を入れるくらいなら something でいいだろ?って気もするんですが、文末重点と文末焦点の違いを考えると、後発の単語にぶら下がらせる方が、「英文法学者のオットー・イェスペルセン的な結晶=名詞(実詞)存在の様態]」という観点*7から考えると、流れが良い気がするんです。

そもそも、"something like the status quo" を分割する必要なんてあるのか?分けることなんてできるのか?って疑問もあるんです。たしかに "the A of the status quo which..." な文章はあるようだし、先行詞はAとするのが妥当だと思います。

でも、「句としてみる」というよりは、『連鎖としてみる』。前者は多田正行的で、後者はイェスペルセン的なような気がするんです。「フラットな関係」として句を見るのではなく、『段差のある階段』として句を見る。プログラミング言語で言えば、「クラス―インスタンス」の関係に似ているような気がするんですが…。「急須に入ってるお茶―湯飲みに入れられたお茶」の違いと言えばいいのか…。確かに同じお茶だけど、違いますよね?

"something like" とか one of the girls の "one" とか、こういう「不定冠詞系のクッション」って、「お茶を湯飲みに入れる」って手順を踏んでるんじゃないかって気がするんです。

時間圧縮と時間解凍―創作時間と受容時間

論理空間という「時間差という概念が無いレイヤー」で考えると、「something = the status quo = the Bush...」であるとすると意味的に矛盾してしまうかもしれない。でも、文章に表れてくる単語の順番には時間差がある。タイポグラフィーだか文学理論的には「差」なんて無いのかもしれないけど、時間差への理解は直読直解にとっても重要だと思うし、だからこそ限定詞の有無とかにも、メタ的な部分で違いがあるんじゃないかって気がするんです。たとえ最終的には上書きされてしまうニュアンスであっても、そのメタ的なニュアンスって捨てちゃっていいの?って気がするんです。

むしろ、小原さんの指摘するような「意味の矛盾」には、「時間が圧縮されている」という前提がある気がします。そして、僕にはそれが規範文法の限界だと思うんです。涅槃さんが、規範文法の枠組みではこう言うしかないと言わざるを得ないこと、その重要性。

時間は、「粘土」ではなく『ジェンガ』なのではないのか?


伊藤和夫は、時間を圧縮させるプロトコルを提示しようとしてたのではないか?多田正行は、圧縮されているコードを読み取ろうとしたのではないか?山口俊治は、時間を圧縮させようとしたのではないか?

英語学習法的には、伊藤和夫の英文解釈の発展が多田正行なんだと思う。でも、英文読解の世界観としては、多田正行こそが先行していなければならない。そして、プロトコルはメタであり、時間はもっと自由に圧縮させることができるという山口の方向へ辿り着く。

冠詞というリプレイ

受験英語は、圧縮だけを見てきたのかもしれない。むしろ、解凍の方を、この絵画はどの手順で描かれてきたかリプレイする読解が必要なのではないか?そして、リプレイの鍵は冠詞なのではないか?

さらに、リプレイは強制なのではないか?「冠詞が作り出すレトリック」は修辞だけではあれず、文法なのではないか?つまり、冠詞を読むとき、それは意味の解釈が行われる以前に既に形而上における存在をダイレクトに記述し終えている・してしまっているのではないか?それは形而下的には無意味ではあるが、決して無視できない存在意義なのではないか?

*1:個人的には、「由来」とか、そーいう語源の方向を考えなくても読める部分を、冠詞で共時的に追いたい。ただ、冠詞の使い方には通時的なレトリックもあるよう。「少なくとも、それが通時的なレトリックである」ことだけは冠詞から逆算できる気がする。

*2:個人的には、「同格」自体の意味論にも興味がある。成立条件とかな。どんな存在論的な意味が、必要・十分条件として成立してしまえる・してしまっているのか、とかね。

*3:逆に言えば、限定詞の修飾先が変更されるような文章の書き方みたいなものの例にもなれそうで、英作の技法としても、興味深いのではないかと思いました。

*4:「イェスペルセンのネクサス」と copula とか結果構文とか adverb particle とか、存在論的な方向でゼロ冠詞や固有名詞を理解する大津栄一郎の方向性。これを存在論へ引っ張ったのが生成文法で、認識論へ引っ張ったのが記述文法と談話文法で、認知文法も似たようなものだと推測。

*5:記述文法の「情報構造」

*6:談話文法の「談話構造」を絡めた上で、「意味上の主語」の持つレトリックの検討

*7:私的な誤読です。

談話文法の視点から記述文法の情報構造を理解する方法

以下はただの繰言である。意味という認識の範囲だけではなく、認識と存在の2つのレイヤーで非排他的に後方&前方照応してるのでは?という疑問を辿っていったら、その存在的で無意味な前方照応が行われたこと自体への意味をメタった時点で、「新情報としてのマーカー」というフツーの記述文法的な情報構造に結末として至っただけである。つまり、ただの徒労。

いや、簡潔にまとめてみると、学校英語つまりは規範文法の中に援用されたカタチで追加される所謂「情報構造」とかいう文法用語]。これを、規範文法の思想的に考えて意味論的に理解してしまうと―たとえ指導の現場では規範文法がもつ意味論的な側面は捨象されてしまっているのだとしても、その片鱗として学習者は自然と意味論的な側面から文法を理解してしまうのではないか?―きっと記述文法でいう「情報構造」つまりはおなじみの「旧情報―新情報」という側面の「価値」を見誤ってしまうのではないかという疑問である。

その情報が「どのような意味『である』か」というような観点からではなく、談話文法のように徹底した「メタ視点」から情報構造というものを理解し、「どのような情報『として』受け取って欲しいか」というような<話者からの視点>を考えた方が、記述文法の成果をより効果的に英文読解に活かせるのではないかという話。

だから、メタな観点から情報価値を考えると、その新情報が実際に聞き手にとって新しい情報『である』かは問題ではなく、新しい情報であると話者が<認識>しているか、もしくはたとえ聞き手にとってその新情報が古い情報『である』ということを話者が知っている上で敢えて新情報として提示している――という認識と談話レイヤーでの2つの可能性がある気がする。

一致しているのに、敢えて在る理由

たしかに、不定冠詞系の新情報には、「完全な新情報」と、「旧情報から意味を奪って変形した新情報」の『2つ』があるんじゃないか?って部分は発見だったけどなぁ。でも後者の奴だって、使用される環境を考えれば、主節と意味上の主語は一致してるはずだし、背景だの存在論レイヤーでの接続だの、実際の解釈にはカンケーネー話。(一致した上で在るってことは、「無意味」ってことだ。)

でも、ネクサス理解には使えるかも!


一応、可能性としては、「主節と意味上の主語が一致してないにもかかわらず、意味上の主語が明示されてない後方照応マーカー」と解釈できるようなthoseとかの指示代名詞とかの使い方があるか?ってとこか。でもこれは、限定詞というよりは名詞構文とか、そっちの方それぞれの構文の問題っぽい。

もちろん、「主節と意味上の主語が一致しておらず、後方照応マーカーかつ意味上の主語も非排他的に前方照応されている」ような指示代名詞の使い方は、今回の話だけでは否定しきれていないけど。


冠詞に大分こだわってきたが、要は、どうしてその構文が選ばれたのか、どうしてその限定詞が・どうしてその方法が、敢えて選ばれなければならなかったのか?構文がもたらす必然的な意味ではなく、その構文が敢えて選ばれたことへの必然性。その選択基準を僕は知りたいんだろう。

意味の中身ではなく、意味の形

で、僕の感触では、記述文法の情報構造から、意味的なもの―事後的に説明できる意味―ではなく、意味に関係なく事前に成立する部分。つまりは書き手の意図という「メタ情報」に焦点を当てる。意味という結果ではなく、どのような意味を結果として持ちうるかという可能性―意味という結果の幅ではなく、結果に至る以前の意味選択の幅―を読む。そうすれば、冠詞のもつ意味の「様態」―意味が書き込まれる「ボード」がどんな形をしているか―が分かるかもしれない。完結未満・完結・完結以上の3つの様態。意味の境界と情報構造。この辺が繋がりそうな気がする。

ガベージコレクション

Children walk, not because older people assist them but because they have a natural desire to take on all those expenditures of nervous energy and muscular adaptations that result in walking.


「S V O」における「O」の中に 「SVOに相当する関係」が発生している。これが「狭義のネクサス(主述関係)」。狭義のネクサスにおいて、意味上の主語は、主節の主語と異なる場合に必要とされる。逆に言えば、意味上の主語が主節と同じ場合、意味上の主語は省略される。例:不定詞、分詞構文

省略できるにもかかわらず、意味上の主語を表しうる限定詞が置かれているケースがある。those A of B that ... の場合、thoseは後方照応的だし、後述の関係詞を呼ぶ。指示先はあるが、指示内容はない。でも、それは事後的な機能分類だ。限定詞が出てきた瞬間に分かる機能分類ではない。

事前情報からだけで読解する方法。つまりは、書き手の意図に沿って、書き手が記したメタ情報のみを読む。談話文法が文単位で「テーマ―レーマ」の連鎖をマクロ的に扱うのなら、1文の内部にその連鎖をミクロ的に適応できるのでは?主節と従属節・文の要素とそれ以外のMを連鎖させる構造。

定冠詞などの照応は非排他的に行える。前方・後方・言語外を重ねることができる。つまり、仮主語のit がデフォルト状態で無意味なのと違い、初期値に意味を持ってしまえる。さらに、この非排他性を「意味」だけではなく、「形式―意味」の2つのレイヤーで二重化する。

those A of B that... において、thoseは前方照応ではなく、新情報かつ後方照応の可能性を示唆するだけの無意味なマーカーでしかないのかもしれない。だが、「意味」レイヤーで前方に繋がっていなくても、「形式」レイヤーで前方と繋がっている可能性があるのではないか?

$those = "children"; という前方照応的な「値」が代入されていなくて、$those = ""; という無意味で初期化され、「初期化」という宣言が、任意の値が後方照応的に代入される可能性を示している。それだけではなく、$those という「変数名」という形式レイヤーにおいては変化していない。

$those = ""; の真偽はFalseだけど、$those には、たしかに"children" が代入されていた。childrenという指示内容はどこからも参照されず、デッドストックへ捨てられる。だが、ガベージコレクションは行われない。メモリは開放されない。変数に残されてすらいない記憶の残滓。

うーん・・・どっちかっていうと $those[] な配列の方が良かったか。だから何か?結局、主節=意味上の主語なら、名詞構文・関係詞にthoseは後方照応だけ行う。意味的にはそれだけだ。でも、後方照応ならtheでもいける。でも定冠詞は使われなった。意味が同じでもメタ情報が違う可能性。

定冠詞による同定は指示先と指示内容の間主観的一致。固有名詞による相互了解は、指示先だけの表示であり、符牒でしかない。ここから二重戦略。"those A"という新情報は初期化され固有名詞化した、ただし代名詞的。

意味は違う、もしくは失われたが、存在は依然として繋がり続けている。同じ存在と違う意味が繋がっている。そんなイメージ。

色の塗られていないフィギュア。無地無色では、まだフィギュアは意味を獲得できていない。無色のフィギュアに色を塗る。色を塗られたフィギュアにマスキングをし、色を更に塗る。色を塗り重ねることで、フィギュアは、その存在の意味を形作っていく。

既知の情報のマスキング。それが既知と繋がり続けている新情報。たぶん、不定冠詞系の繋がり方は、存在の「重点」が移動している。定冠詞系の繋がりは、まだ「重点」が既知の情報の方に在る。存在論的な重点と認識論的な焦点の違い。前者は文の要素、後者は文末焦点。themeとrheme。

結局、関係詞の制限用法も非制限用法も、存在を連鎖させているだけじゃないのか。名詞には、copula(be)が織り込まれている。実詞というネクサス詞の制限的連鎖。SVという主節の非制限的連鎖。



周辺のログ関係

イェスペルセンの「ネクサス」が異常に広いスコープをもってるのは、「意味」ではなく「存在」を意識してるから?構文自体の意味に、存在―copula―という「星状体」を見ている。その「普遍性」において、イェスペルセンの「ネクサス」とチョムスキーの「普遍文法」は似ている気がする。 ... 8:18 PM yesterday from web

文の要素「S」が「新情報」に変換されるならば、同様に、「意味」ではなく<「存在の重点」としての「意味上の主語」>が名詞構文などに必要となる場合もあるはず。「S」は分散する。主節と動作の主体が同じだからといって、「O」における全ての意味上の主語が省略されるとは限らない。 ... 8:13 PM yesterday from web

つまり、英語には「無生物」主語しかない。で、「無生物」は「動作の主体」。そこに単に「ある」ことさえ、主体的動作。<本が、そこにある>のではなく、「本自身が、本自身の意図において、そこにあることを意思している」。 ... 8:08 PM yesterday from web

倒置構文だけが「倒置」ってわけじゃない。全部の文が「倒置」「である」。情報のフィルムを存在のフレームに重ねる。ピリオドまで重ねられれば一つのシーンが再帰する。文頭で「存在」を固定し、認識を重ね、最後に、文頭の「主語」に回帰する。倒置は、倒置されてる要素が結晶的重点であり固有名。 ... 8:01 PM yesterday from web

Nothing...な文は、たしかに無生物主語な文だけどさ。それを言うなら there is...だってそうだし。むしろ全部「倒置」じゃん。そうであるなら、普通の You... だって「無生物」主語と扱える。で、その「無生物」の正体って「be」でしょ?みたいな。「存在」の頚木。 ... 7:54 PM yesterday from web

でも、これ there is 構文だしなぁ…ちょっと違うか。「新情報」と「文の要素でない句・節による文末焦点」の関係。記述の「焦点」と規範の「意味の重点」の違いか。「言いたいこと」と「言われていることの中心」の違いか。記述の新情報は、規範の要素を更にフラットに拡大。メタに連鎖。 ... 7:50 PM yesterday from web

@kimarx thx. I found it. ^^ 別冊の「訳出の工夫1」に、「you」と「あなた」をどう扱うか?も追記ありました。分詞構文の意味上の主語が , which (非制限用法)のように、主節全体になる例も9.3例1に見つかってラッキーでした。気になってたので。 ... 7:33 PM yesterday from web in reply to kimarx

「関係詞の非制限用法(継続用法)による追叙(, wh ...)」と「分詞構文的な追叙(, -ing)」の差。前者:thmeの延長・存在論レイヤーの継続・結晶。後者:rhemeへの以降・rhemeからrhemeへの連鎖・認識論レイヤーへの転換・液体。キーはカンマの4つの接続詞。メモ ... 9:48 PM Oct 28th from web

まぁ、たしかに、kimarxさんが指摘してくださったように、僕の知りたい方法は認知文法系なのかもな。おとなしく安藤貞雄の『現代英文法講義』とか『英文法を探る』でも読め!って話か。 ... 7:33 PM Oct 23rd from web

むしろ大津の「人称代名詞」とイェスペルセンの「実詞」がイコールってかんじか。そうすると、不定詞系・指示代名詞系の持つ形而下性は、限定詞そのものではなく、構文上の位置の方が原因なのかもしれない。 ... 7:29 PM Oct 23rd from web

たしかに、人称代名詞だけが結晶的とはイェスペルセンは言ってなかったはず。っつーか代名詞とか冠詞とか要らなくね?とか言ってたような。 ... 7:28 PM Oct 23rd from web

@yzh フォーマル度の違いかも… > you/people "people <- persons <- a person... <- that person" な連想で「指示代名詞系」かな?とも思ったんですけど・・・ :-P ... 7:24 PM Oct 23rd from web in reply to yzh

同定が新情報に求められていない。書き手は、読み手が新情報の境界性を理解した後で、なおかつ同定ができない、ということだけを期待している――ということになっている。書き手は、書く段階で既に読者の先の先を読んでいる。/ 読者が、その期待を超える可能性は暗に含有されうるのか? ... 7:24 PM Oct 22nd from web

事前的だけではなく、事後的に分かる「再帰的な事前性」。theではなくthoseであるということは、まず第一に、両者は後方照応。にもかかわらず、どちらかが選ばれた。同定できる ・ 同定を求めない。定冠詞は帰納的で形而上的演繹。不定冠詞は演繹的で形而下的帰納。捩れてる。 ... 7:21 PM Oct 22nd from web

僕が知りたいのは、「書かれた文章の意味」ではなく、『書き手の意図』。どうして、そこでthemではなくthoseを、theではなくtheirを、使う必要があったのか?「文章の意味」なんてのは事後的にも修正できるし漸近できる。ならば、事前的な部分に『意図の差』があったのではないか? ... 7:11 PM Oct 22nd from web

可能性が在る と 可能性が発露される の違い。英文は形容詞的に、冠詞によるメタ情報だけで読める――ということになっている。「ということ」の置くには、やはり「管」がが繋がっているのか?themではなくthoseで受け、連鎖させる。その連鎖の影にはメタ情報の変換が隠されているのでは? ... 7:08 PM Oct 22nd from web

theme で使われる人称代名詞と、 rheme で使われる人称代名詞*1に違いはあるのか?人称代名詞は、指示代名詞と同様にゼロ冠詞で形容詞化している。にもかかわらず、二次元より奥の見えない3次元への可能性がある。そこは位置で変わるのか?あくまで可能性だけなのか? ... 7:04 PM Oct 22nd from web

一般総称的な you / people の違い。人称代名詞と指示代名詞の違いでいいのかな?つまり、形而上 / 形而下。見えない人格 と 外見上の認知。 ... 7:02 PM Oct 22nd from web

倒置、制限、非制限

この左へ存在的に繋がったことが、右方向にメタ情報的な意味を与える。というループを考える。名詞一つでネクサスが成り立つbeing(イェスペルセン)。カンマの等位接続は and but for or or の四つ。これを「相」で更に分割。制限用法も非制限用法も分詞構文も、同じで、ネクサスを等位接続で結んでいる。ようなイメージ。